バイブルを主軸として回転している数万の……

もうほんとうにこのブログ書く内容が数パターンしかないような気がするのですが、例によって頭痛が激しすぎて体調を崩しています。骨組みだけは頑丈なのですが、肝心のソフトウェアが使い物にならない。でも使い物にならないソフトを何とか動かすというのも、魂のゲームとしては面白いものです。

そんなこんなで唐突に本題ですが、ぼくはヨブ記が好きでして、これがぼくの人生の根幹をなしているといっても過言ではありませんこともありません。まあ過言1/2くらいか。とにかくとても大きい影響を受けています。いわゆる旧約の信仰の本質がここにある。いや他にもあるとは思いますけれども、とりあえず断言しちゃう。もうぼく断言しちゃう。不幸と苦痛に見舞われたヨブが神に対峙する。その瞬間、ヨブは人間としての限界を超えたhubrisに至っている。まずここにまで至らなければ神となんて対峙できないです。ちょっと話がずれますが、ナンシーにしろバトラーにしろ、やはり徹底した個がまずあって、死に物狂いの闘争があって、というか近代自体がそうなんですけれども、その上で初めて近代的な個というものに対する批判が可能になって「共」が存在論的に強固に出てくるわけです。それを曖昧な自我と自己愛から離れられない研究者もどきが……、などと書いていると逆鱗スイッチが入ってしまうので止めますが、とにかく、そこまでhubrisの高みに登ったヨブがその自己を放棄する。神の前に「自分」を投げ捨てるのです。この不可能性にこそ信仰の秘儀があるし、矛盾してはいるのですが、人間が人間であることの美しさがある。ぼくはそう思います。難しいですが……。というより、ぼくはそもそも信仰の対極に位置するような人間なのですが、それでもなおこういった感覚が共有できなければ、ほんとうのところでは研究も共有できません(無論ですが、できなくたって全然かまわないのです)。けれども安易に西洋近代を批判するひとは、やはり太宰治の如是我聞を読むべきです。

ところで、私は、こないだ君のエッセイみたいなものを、偶然の機会に拝見し、その勿体ぶりに、甚だおどろくと共に、きみは外国文学者(この言葉も頗る奇妙なもので、外国人のライターかとも聞こえるね)のくせに、バイブルというものを、まるでいい加減に読んでいるらしいのに、本当に、ひやりとした。古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。

太宰治「如是我聞」『人間失格 グッド・バイ 他一篇』岩波文庫、1988年、p.177

っていうと「読んでいる」とか答えるし、実際読んでいると思っているので始末に負えませんが。

ただ、ぼく自身もクリスチャンではないしユダヤ教徒でもないし、イスラエルなんて問題しかないし、ぼくなりにレヴィナスには影響を受けていますが、それでもバトラーが指摘するようにそこには「複雑かつ頑強な」異議(ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』月曜社、2008年、p.176)を持っています。それでも、なのです。

ぼく自身は未だに、あるいは死ぬまでこのhubrisにとどまり続ける人間かもしれません。だから例えばホームズの次のような言葉は良く分かる。とても良く分かる。あ、これ、仲間内で出していた『文芸夜半』という同人誌に書いた「神無き時代の名探偵」という文章からの引用です。

ホームズは探偵に科学的手法を持ち込んだが、彼を名探偵足らしめていたのはその科学的知識と手法ではなく、卓越した推理力でさえない。彼の推理(reasoning)は常に理性(reason)の届かぬ先に向かう。彼の透徹した精神はそれ故その先に現れる人類の手に余る謎をつねに観取せざるを得ないし、そこには苦しみと疑いをもたらす究極の矛盾しかない。謎を解けるから探偵なのではなく、解けないと分かりつつ避けがたく謎に呼ばれることに耐え得るからこそ、彼は名探偵なのだ。〝The Adventure of the Cardboard Box〟(邦題『ボール箱』)の最後で彼はこう語る。

「ここにはいったいどんな意味があるというのだろう、ワトスン」ホームズは供述書を置くと厳粛な面持ちで言った。「この不幸と暴力と恐怖の連鎖に、いったいどんな意味があるのか? ここには何か目的があるはずだ、そうでなければ我々の宇宙は偶然に支配されていることになるが、そんなことは考えられない。だが目的とは何だ? ここには人間の理性が決してその答えに到達できないままでいる、大きな、永遠の問いが在るのだ」

形而下の犯罪を解決することなどテクノロジーにまかせておけば十分すぎる。たかが人間の知性によってでさえもできるだろう。だがその向こうに在るものに直面したとき、それでも人間はそれと格闘することができるだろうか。とはいえ信仰を安易に持ち出すべきではない。ホームズはここで確かに神的なものについて語っているが、しかし彼が神にその答えを求めることはないし、神に赦しを求めることもない。その点で彼は、同じくcallingによって探偵であることを証しているポワロとは対極にある。

名文ですね(笑)。自画自賛。これなかなか手に入らないと思うので、もし見かけたら絶対買いです。嘘じゃなく。そう、だから……、とにかく格闘しなければならない。あらゆる物事と。そしてにもかかわらず、あるいはだからこそ、あるいはそれのみを通して、結局その格闘している自分がただの苦しみという空白であることに気づく……。そんな風にぼくは思うのです。

あれ、何か説教臭いな……。大学時代、書くもの書くものみな「説教臭い」「正論やめろ」「なんちゃってビルドゥンクスロマン」と罵倒されてきましたが、いまだにその反省が生かされていない。でもまあ、そうじゃありませんか? 主語のないままに求める曖昧な同意。

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ただやっぱり、これってちょっと極論ですよね。人間は倫理機械ではない。だからまあ……適当です。というより、ぼくなんてアレです、99%が頭痛、0.9%が対人恐怖症、そして残りの成分が「適当」ですから、本当に適当です。今回はエドモンド・ハミルトンの「反対進化」について書こうと思っていて、これぼくは子供のころに『不思議な国のラプソディ 海外SF傑作選』(福島正実編、講談社文庫)で読んだのですが、このシリーズ名品です。もし古書店で目にすることがあればぜひ買ってください。ぼくの場合は父の蔵書にありました。子供のころはだいたい父の持っている本ばかり読んでいたなあ。そう、それでこの「反対進化」もやっぱりある種のキリスト教的近代的歴史観が強烈にあって初めて逆説として、あるいは(自ら死を選ぶほどの)恐怖として理解できるのであって、云々、みたいな。

何かね、頭で分かっているだけの研究者と話したり、書いたものを読むのが苦痛なんです。最近だとラブクラフトを「SF作家」(『現代思想 2017 vol45-22』「人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世 類縁関係をつくる」高橋さきの訳、p.101)だと言い放つダナ・ハラウェイの無神経さとか。

そういうことが多すぎて、だいぶ、逸脱しています。別に、それで構いません。

剰余メモ

下品な言葉というものがあって、そもそも「下品」という言葉自体がそれが指し示すものになってしまっているので――何かを「下品である」と断じられるだけの、ある種苛烈でさえある美意識を持ったひと自体が絶滅寸前な時代ですので――困るのですが、けれどやはり、少なくともぼくはそういった言葉を使いたくはないのです。ただ、それはとても難しい。ある特定の単語がそうであるのなら、それを避ければ良い。しかしどうやらそうでもなさそうなのです。ぼくのように倫理を外付けしている人間にとっては、ある特定の単語を辞書登録してしまえば良いというのは分かりやすく扱いやすい考えで助かります。そして確かにそういったものもあるのかもしれない。例えば……、といってもそれをここに書くことはできません。そのくらい、そういった言葉を使うのは嫌ですし、読むのも嫌なのです。ぼくらに与えられた時間は有限で、その時間内に読めないほど多くの素晴らしい、美しい言葉があるのだから。

それはそれとしてなぜ突然そんなことを言い出したかといえば、ひさしぶりに『方舟さくら丸』を読んだのです。言うまでもなく現代文学の最高峰。そのラストシーンはほんとうに美しい。ひたすら地下世界の描写が続き、しかも主人公はとある理由で身動きさえできなくなり、という状況が続いたその最後に地上に戻ってくる。そしてすべてが透明になり……。そこで次のような描写があります。

ひさしぶりに透明な日差しが、街を赤く染めあげている。北から魚河岸にむかう自転車の流れと、南から駅に向う通勤の急ぎ足とが交錯して、すでにかなりの賑わいだ。《活魚》の印のトラックが小旗をなびかせていた。旗には「人の命より 魚の命」と書いてある。別のトラックが信号待ちをしていた。その荷台には「俺が散って 桜が咲くころ 恋も咲くだろう」と書かれていた。

安部公房『方舟さくら丸』新潮文庫、1990年、p.374

このラストシーンはぼくにとっては衝撃でした。ぼくには絶対に書けない下品の典型であるような言葉、「俺が散って」、「桜」、「恋も咲く」、耐え難いほど醜悪です。ちょっとこれは個人的な感覚の問題なので伝わらないかもしれませんし、それで構いません。皆さんにとってもそういう言葉ってあると思いますので、それで置き換えていただければ。ぼくの場合は、こういった何とも言えずにべちゃべちゃしたマチスモって、本当に嫌悪しているのです。暴力的で小児的。ぼくの感覚のほうが病的かもしれませんし、それはどうでもいいのです。あくまでぼくにとってはそうだというだけのこと。

だけれどもこの種のマチスモが絶対悪であるというのは、ぼく自身にとってはけっこう本質的で根本的な問題ではあります。数年前、千葉だかどこかの漁港に行った折にその近くの海産物店でビデオが流れていました。延々、「マグロマグロマグロ……」と唱えつつ、その合間に(もう忘れてしまいましたが)「俺たち男が命を懸けて」とか「家族のために」とか「男の絆が」とか、まあぜんぜん違うかもしれないけれどもそんな内容の戯言が語りで挿入される。端的に地獄です。あすほう。

ところが、そういった言葉が使われつつ、『方舟……』のラストシーンは途轍もなく、恐ろしいまでに澄んでいて、希望はなく、絶望もなく、ただただ静かで美しい。それが物語の力です。世界のなかにはあらゆるものごとが存在するけれど、描かれたその世界全体は確かに美として在る。そしてそこに書かれたすべての言葉は(有限の言葉で無限の世界を創りだす以上)不可欠の要素で、だから「俺が散って」などという唾棄すべきナルシズムでさえ、いやだからこそ、このラストシーンにおいて忘れられない情景として残り続けます。

安部公房は『死に急ぐ鯨たち』で次のように言っています。

とにかく、小説の発想には原則として、スーパーに買い物に行って帰ってくるまでの間に使わない言葉は使わないように心掛けているんだ。夢の言葉ってそんな感じだろ。

安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.149

確かに彼はそのようにしていて、それでもなお唯一無二の作家として在る。これは途轍もないことです。虚仮威しであったり、衒学的に難しい言葉を使うだけの、例えば生田耕作が言っている文脈とはちょっと違いますが「知的スノッブの糞詰り文章」(「翻訳家の素顔」)のようなもの、それは論外ですし、かといって単に垂れ流される何の力もない陳腐な言葉でもない。そんなところから世界を創る力は生まれようがない。

たまたまとある紙面で安部公房評を読みました。内容はまあ無難なものですが、評者の自己紹介欄に「インスタフォローを!」などと書いてある。『死に急ぐ鯨たち』を論評したそばからこれでは読むほうが混乱します。高等な冗談であれば救いもありますが、あるのはただ凡庸な醜悪さのみ。

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安部公房、『砂の女』、『方舟さくら丸』、小説ではないですが『死に急ぐ鯨たち』と『砂漠の思想』(これは講談社文芸文庫)、うーん、どれも素晴らしいですが、ぼくは『箱男』と『カンガルー・ノート』がもっとも好きです。特に『カンガルー・ノート』は最後の長編ということを除いても強く記憶に残り続ける作品です。新潮文庫の解説はドナルド・キーン。『反劇的人間』(これは中公文庫)における二人の対談はとても興味深いし、互いに尊敬し理解しあっている雰囲気があります。けれども『カンガルー・ノート』の解説だけは納得がいきません。ここでドナルド・キーンは次のように書いています。

[出版当時はカンガルー・ノートを読みながら何回も吹き出したけれども]ところが、二年ぶりで読み直すと、余り笑わなかった。滑稽な場面は相変わらず滑稽だが、初めて読んだ時認めたくなかったテーマは今度無視できなかった。安部さんは亡くなった。何年も前から死と戦い、この小説で死を嘲笑して、死の無意義を暗示したが、勝負は死の勝利に終わった。

安部公房『カンガルー・ノート』新潮文庫、1995年、p.215

しかし『カンガルー・ノート』において安部公房は決して「死を嘲笑」もしていないし、「死の無意義」さも暗示していないのではないかとぼくは思います。むしろそこでは、人間としての限界を超えて(不可能なものを不可能として描くという意味で)「死について描写することの無意義さ」が描写されているのではないでしょうか。おそらく、最後の一行に至るまでに書かれているのは、これまで人類が繰り返し語ってきた「死」についての物語の、ある種の……この言い方は適切ではないかもしれませんがパロディであり、確かにそこには滑稽な場面が多々ある。でもその最後の最後に、本当の最後の一行にあるのは(小説としての最後には「砂の女」のラストと同様に新聞記事の抜粋が置かれているのですが)、「怖かった。」ただこの一行です。ドナルド・キーンは、この一行を、安部公房のすべての作品の最後の最後に置かれたこの一行を、どのように読んだのでしょうか。とはいえこれは批判ではなく、恐らくですが安部公房とドナルド・キーンの関係性、そしてドナルド・キーン自身の死生観の表れでもあるのでしょうが……。解説としてはいま改めて読むと面白いです。

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いえ、いま本当に、仕事のプログラミングと、あと単著の原稿をいっしょうけんめい書いているのですが、そうするとそこからはみ出したりずれたりした思考もどんどん出てきて、大半はあっという間に記憶から抜け落ちていきますが、感じたことを残しておくと意外なところで芽が出て育ったりもします。そんなこんなでその種を残すためにブログの更新頻度が上がっています。でも本当に原稿書いているんです。嘘じゃないんです。次はエドモンド・ハミルトンの『反対進化』とフレデリック・ブラウンの『さあ、気ちがいになりなさい』について書く予定です。いやこれも原稿と関係しているんです。嘘じゃないんです……。

かくこととうことかくとうすること

時折途轍もない頭痛に襲われることがあり、きょうもそうだったのですが、そうするともう何もできません。考えるのも困難ですし、動こうにも足に力が入らない。こうなっては頭痛薬も効きません。だけれども、こういうときこそぼくの病的な傲岸不遜さが現れ、「なあに、こんなもの人類に対するハンデだ」などと呟いてヘラヘラしています。もちろん、本気でそんなことを考えていたら危ない人ですが、でも半分は本当です。例えばサン・テグジュペリが『人間の土地』で、砂漠で遭難しながらも「ぼくらこそは救援隊だ!」と言い放つその気高さ、その100億分の1くらいを、ぼくの歪みに歪んだ心根を通して表現するとそうなるのかもしれません。傲岸であれ何であれ、世界に対する強迫観念じみた妄執がないのなら、生きていたって面白くも何ともないじゃないですか。いずれにせよ『人間の土地』、これは何度でも書きますが、翻訳者の堀口大學による次の言葉はまさにその通りです。

世にも現実的な行動の書であると同時にまた、最も深遠な精神の書でもある『人間の土地』は、必ずや読者の心に、自らの真実、自らの本然に対する《郷愁》をふるいおこし、生活態度に対しよき影響を与えずにはおかないと訳者は信じるものだ。

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、p.207

絶対に読んだ方が良い本というものはあって、それは本当に奇跡としてこの世界に現れるものですが、少なくとも本を読める状況にあるのであれば(無論、それもまた奇跡なのですが)それは読んだ方が良い。「良い本だから読もうよ~」みたいな話ではなく、ある絶対的な基準点というのがあって、それを知っているかどうかが(もし知ることができるような状況にあるのなら、ですが)、そのひとの人生を絶対的に、真の意味で絶対的に変えるものになります。安部公房がエリアス・カネッティについて、いやカネッティにもいろいろありますが、とにかくこう書いています。

たとえばカネッティのことを考えると、読者の数なんて問題じゃないと思うな。もちろんカネッティの読者は少なすぎる、もっと読まれるべき作家だよ。でも読者の数とは無関係に、カネッティは厳然と存在する。絶対に存在してもらわないと困る作家なんだよ。そういう作家が本当の作家だよね。ぼく自身、カネッティを知らずにすごしてしまった場合のことを考えると、ぞっとするからな。

『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.114

この場合の「ぞっとする」というのは、生易しい意味ではなくて、「この私がこの私ではなかったかもしれない」という実存レベルでの恐怖感です。『人間の土地』のラスト、「精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる」(p.205)。これほど恐ろしい言葉があるでしょうか。要するにその本を読まなければぼくは粘土のままだったかもしれない。

サン・テグジュペリは人間として生きるための――何しろぼくはいまだにぼく自身を人間のふりを上手にし続けているナニカだという疑念を晴らせずにいるので――強力な指針になってくれています。

他方で、倫理とか価値とかとはまたまったく別にこの世界を見通すということ、そういった意味では安部公房もまたぼくにとって知らずに生きている自分を考えると「ぞっとする」作家のひとりです。中退した最初の大学において、生きている学生がぎっしり詰まった教室に行くのも恐ろしく、ぼくはひたすら部室や図書館にいました。そしてあるとき図書館でたまたま手に取ったのが安部公房全作品でした。いま出ている全集ではなくて、その前のですね。これは本当に衝撃でした。たぶん人生においていちばんの衝撃的体験といっても間違いではありません。何しろ、自分が漠然と考えていたことが、その100倍、1000倍もの精度で、はるかに深く遠くまで描かれていたからです。当時ぼくは人形劇のサークルに入っていて、そこで(人数が少ないサークルだったので)下手ながらも役者から大道具小道具照明音響まで何でもやっていました。でも一番好きなのは脚本で、ああ、俺は言葉を書くのが好きなんだなあと初めて気づきました。より正確には、自分が見ている世界を言葉で表現し形にするのが好きだったのです。既に大学からどころか人間社会からも脱落しかけていたぼくにとって、そしてそのあと本当に脱落するのですが、それでもぼくにとって世界はこう見えているのだということにかたちを与えるのは、必要だったし、たぶんそれがなかったら、そのままの意味で生きてはいなかったと思うのです。

けれども安部公房の本を読むと、自分の稚拙な言葉を超えた、でも確実に自分が表現したいと思っていた世界がそこにはあって、だからもう愕然としか言いようがないわけです。途轍もなく面白いし読まざるを得ないし、同時に、じゃあこれから俺はいったい何を書けば良いのか? という、圧倒的な・・・・・・何というか、呆然とするより他ない経験。それを乗り越えるのに、結局三年くらいかかったのではないかと思います。その間に死に物狂いで書き散らした数十万文字の何かは、いまでもどこかに積んであります。

ともかく、その時期を通り抜けたあと、ようやく、ぼくは初めて誰かの言葉を読めるようになったと思うのです。シンプルに物語を読むのは記憶を持つようになるはるか前から好きでしたが、そうではなくて、きみの世界を形作る言葉をぼくの世界を形作る言葉で読むということ、無意識レベルで常に格闘しながら翻訳して解釈して取り込んで自分の世界を変容させていくということ。

そのあと、まあいろいろごちゃごちゃしながら三十半ばくらいでしょうか、博士課程に行って哲学を学ぶようになるのですが、そこでアルフォンソ・リンギスやジュディス・バトラー、ジャン=リュック・ナンシーを初めて知って、物凄い影響を受けることになります。それ以降、世界の見方が確実に変わりました。でも、それが「読める」ようになったのは、あの格闘があったからです。うまく表現できませんが、単なる研究とか分析の対象としてではなく・・・・・・。すごく当たり前のことかもしれませんし、よく分かりませんが。

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何だかまじめな内容になってしまった・・・・・・。この一週間、いろいろあって餅とシリアルしか食べていなかった話とか書こうと思ったのですが、そんな感じです。最近は原稿もプログラミングも一生懸命やっているせいか、余波でブログの更新も珍しく早い感じ。この調子で原稿もまとまってくれると・・・・・・いいなあ。

ぼんやりしています

GWですけれども特に何もなくて、いえ何もないとか言っている場合ではなくて、仕事も原稿も山積みです。断続的に耳が聞こえにくくなったり元に戻ったり、けれども、いつも通りといえばいつも通り。最近は息抜きに近所を歩くときにはカメラを持ち歩くようにしています。何だか変質者みたいだな。でもぼくは人間を撮ることはできないので、いやそもそも人間を撮ることのできるひとって凄いですよね。ぼくは怖くて怖くてだめです。だから、ということではなくてそもそも葉っぱとか昆虫とか雲とか水とかそういうものが好きだから人間なんて撮れなくたって痛くも痒くもありません。だけれどももう蚊が出てきていて地面を這っている虫なんかを撮っていると蚊に刺されて痒い。散歩はたいてい近所のぞうきりん、いまこれ変換できなくて初めて知ったのですが、「ぞうきばやし」というのですね。凄いなあ、半世紀生きてきて、しかもその前半生は裏山を走り回って田んぼを転げまわって、いや田んぼは転がらないけれども、夏の夜になると町中がウシガエルの鳴き声で揺れるようなところで育って、しかもキャベツと白菜の違いも分からないのに「農学博士ですフヒヒ」とか言いつつ、ぞうきばやし、いま初めて知りましたよ。いやまてよ、数年前にもぞうきばやしで衝撃を受けた記憶がぼんやりあるぞ……。まあいいや、とにかく痒いです。でも昆虫やら葉っぱを撮っているときは幸せ。

ぼくは普段NEX-5Rか、旅行のときはRX-100M、これどっちも凄く良いカメラですけれども、それを使っています。でもやっぱり「写真」を撮るときはα700。昔中野の中古カメラ屋さんで買ったのですが、ほんとうに良いカメラです。さすがに何十年プログラマとして生きてきたので、コンピュータはメディアとしては限りなく透明になっていきます。特に気に入ったマシンであれば、向かい合うのはロジックでハードウェアではない。気に入らないマシンだともうぜんぜんダメですけれども。そして、同じくらい透明になる道具といえば、あとはカメラだけです。そういった意味ではα700みたいにファインダーを覗いて撮るというスタイルは絶対で、これがないとカメラを身体と一体化して扱えません。いや別に偉そうな話ではなくて、ただの素人の感覚のお話しです。第一、それをいったらプログラマとしてだってぼくはせいぜい2.5流といったところですし。でも、モニタを見ながらとか、あるいはいったんチップを通して補正された映像を観ながらとか、そういった形だと、ぼくにとってはどうしてもメディアは透明になりません。そもそも自分の目の位置と異なる位置にレンズがあるとそれだけでかなり「意識して撮る記録」になってしまいます。それはそれで意味はあるし面白いけれど。

ともかく、目とレンズの位置、撮影主体のお話なんていつかきちんと書きたいですね。そういえばこの前泣く泣くスマートフォンを買い替えたのですが、試しに写真を撮ってみたら補正がものすごくて、いやあこれは凄いけれど写真ではないわねと感じました。否定しているとかではなくて、時代は変わっていくねえ、ということ。

そんなこんなで最近はまた写真を撮るようになっています。でもってblueskyにアップする。昨日はクモの写真を撮って、自分としてはすごくクモの格好良さや可愛らしさ、一生懸命さだったりぼんやりさだったりが写せた気がしてblueskyにあっぷするでぇ! と思ったのですが、クモって苦手な方も多いですよね。ぼくも昔は多くの昆虫が苦手で、というよりも恐怖の対象で、蛾とかを見てしまうと腰を抜かしながら数十メートル這って逃げて、数日間は精神的に不調になって、動悸、息切れ、眩暈、救心! となっていましたが、いまこの年になると何もかもみな懐かしい。蛾も可愛い。人間って変わるものです。でもいまでもあのアレ、カタツムリから殻が取れた(取れたわけではないが)アレはダメで、カフェインを撒くと逃げると聞いて庭に撒いています。信条としては「できる範囲では不殺」ですので、殺す系の薬剤は使いません。なので、近所でコーヒーの粉などを安売りしているのを発見したら買ってきて、庭に防衛ラインを引く。粉を撒いているところをご近所さんに見られたら「いやね、コーヒー農家を始めようと思いまして(笑)」などと言いながら粉を撒く。「こっから生えるんですよ(笑)。生命って凄いですね(笑)」。何だか変質者みたいだ。だけれども何しろ農学博士です。ぼくはコーヒーについては詳しいんだ。

そうそう、クモの写真です。突然それが出てきたら嫌なひとに悪いので、せめてワンクリック挟んで写真が出るようにしようと思いました。でも、よく分からないのですが、どうも成人向け画像指定にしないとそういうのってできないようなのです。それで仕方なく「この写真は成人向けです。よろしいですか?」みたいな感じで指定しておきました。うーむ。クモだってびっくりですよ……。ぼくだってびっくりです。観る人だってびっくりです。何の意味があるんだ?

とにもかくにも写真のお話。やっぱり、そういう時間がある、というか無理やり作るのですが、それは必要ですよね。カメラを持って土のあるところに行くのは数少ない喜びです。あとは庭をぼんやり眺めているくらいしか趣味がない。庭といえばいまは庭を5分くらい眺めると必ずトカゲが見つかります。トカゲ天国。みんな一生懸命生きていて、そんならぼくももう少し一生懸命生きようかしら、という気持ちになります。でもよくよく見ているとトカゲもけっこうぼんやりしていることが多くて、小さな木から落ちたりしている。それならぼくもぼんやり生きるかしら、という気持ちにもなります。というか、たいていぼんやりしています。

ああでも、本は読んでいます。最近ではバトラーの『この世界はどんな世界か?』を読みました。やっぱりバトラーは素晴らしいですね。いろいろ、具体的なところでは同意できない点もありますが、それはアメリカと日本の状況が異なるからというのもあるし、そんなことはさておき、何のために考えるのか、どのように考えるのか、それをどのように言葉にするのかという点において、バトラーは変わらずぼくにとってもっとも尊敬できる哲学者です。今回も、まずはざっと読むかと思いながら職場への行き帰りで読んで、凄く良い箇所を見つけたのです。でも、帰ってきてから数日たってその場所を忘れてしまった。なので、きょうは原稿を書きながらゆっくりその場所を再発見しようかと思っています。そんな感じのGW。仕事も何も終わらないのですが、とにもかくにも(ぼんやり、というよりもはや放心しながら庭を眺めることも含めて)何かをやり続ければ、あとから振り返っても良い日々だったと思えるでしょう。

にょにょっと顔を出すニホントカゲくん。

そんな感じです。あとはそうですね、例によって眠るたびに地獄の夢を見ています。いわゆるそのままの意味での地獄の夢の場合もあるし、わあ地獄っぽいなあという状況の夢の場合もあります。昨晩は自分がちょっと中途半端な生首状態で、首の部分がやけに長くて、その切断面というのでしょうか、そこから少しずつ腐敗していく夢を見ました。目が覚めると、何だかやっぱり疲れます。諸々分析はできますが、それはぜんぶ戯言で、ほんとうの意味はぜんぜん別のところにある。まあでも、生きているものをぼんやり見ていると、心も和みます。例によって、そんなGWを過ごしています。

ライヒ的

在宅作業の良いところは家事をしっかりできるということです。基本的に家事は好きだし得意だと思います。いやどうかな……。考えてみると家事って何でしょうかね。掃除洗濯整理整頓メンテナンス金魚の世話などなどは完璧ですが、庭仕事はもうダメですし、食事には(皿洗いはライフワークと言っても良いほど好きですが)あまり関心がありません。研究や原稿のことを考えながら皿を洗ったり――だから食洗器を勧めてくる人間はぼくの敵です――雑巾がけをしたりするのは気分が良いけれども、原稿を書きたいときに食事の準備をするのは苦痛で、たぶん食事を作るって相当にクリエイティビティを要するものだからかもしれません。どのみちぼくに料理の才能はないけれど。

でもそんなことを言いつつ、ぼくが在宅で彼女が出勤のときに、彼女が帰ってくるまでに間に合うように独りで食事の準備をするのは嫌いではありません。何が作れるということもなくありきたりのものしかできませんが、ライヒを聴きながら踊りながら気分よく野菜を切ったりしています。とはいえぼくには運動の才能もなく、踊るといってもずたずたがしゃがしゃ、壊れた変質者のロボットみたいな感じ。ライヒは――もちろんこれはスティーブ・ライヒであって、ヴィルヘルム・ライヒではありません。とはいえヴィルヘルム・ライヒのクラウドバスターとか凄く面白いので、興味があったら検索してみてください。クラウドバスター。不思議な言葉ですね。ちなみに細野晴臣のアルバム『オムニ・サイト・シーイング』に収録されている「ORGONE BOX」はヴィルヘルム・ライヒとクラウドバスターについての曲です。これまた不思議な曲。ぼくは細野晴臣の音楽が好きなのですが、でも論文を書いたり料理をしたり何かをしたりするときに聴くのはやはりスティーブ・ライヒの曲。ぼくの魂と似ている形で、そこには論理と祈りがあるからだと思っています。

祈りのない言葉って、やっぱり糞ですよね。ぼくはそう思います。いわゆるアカデミズムが嫌になっちゃったのって、ぼくらが普通に研究者です~みたいな顔をしているときに読む/読まなければならない/付き合いで読まされる論文の大半に祈りがないからでした。変なことを言っているのは分かっているので大丈夫です。というか大丈夫ではないからこんな生き方になってしまっている訳ですが、でもまあ、実際には全然そのようなことはなくて、本当の研究書なら、祈りは常にある。その人に信仰心があるとか、具体的にどういった宗教を信じているとかとはまったく異なる次元において、祈りはある。ぼくの人生なので、そういったものだけを読んでいたいし、実際、読んでいて良いのです。

その祈りって、何なのでしょうね。言葉にするのは難しい、というよりも簡単すぎて却って伝わらない気がします。でもその表現の一つはライヒだし、あるいは、「銀河鉄道の夜〔初期形第三次稿〕」にある次の言葉、

みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももしおまえがほんとうに勉強して実験でちゃんとほんとうの考とうその考とを分けてしまえばその実験の方法さえきまればもう信仰も化学と同じようになる

宮沢賢治『ポラーノの広場』新潮文庫、1995年、p.323

などはまさにそれでしょう。どれだ!? ともかく、ぼくはそういう言葉を書きたいし、それはとても難しいのですが少なくともそれを目指したいし、そうでないものに、つき合うのは良いですし多少はつき合う必要でもあるのでしょうけれども、だけれど、嘘の言葉に人生を喰われるのはほんとうに嫌なのです。いや、ぼくは嘘ばっかりですよ。もちろん。言葉だけではなくて人生そのものが。道を歩いていて太陽に照らされて、道路に映る影でさえも嘘くさい。でも研究者を名乗る人間の、曲がりなりにも思想をやっている人間の言葉に信仰がなかったら、それ最悪の嘘ですよ。

あとですね、上記の引用、ますむらひろしのマンガもぜひお読みください。これ前にnoteでも書いたけれど、この箇所のコマ割りが凄いんです。このシーンだけでも、ますむらひろしの天才が表れている。そういえば映画『銀河鉄道の夜』のサントラも細野晴臣ですね。名画。

いま原稿について悩みに悩んで、というとちょっと違うな、楽しいことなので辛いとかではなくて、それでも負荷はかかり続けます。あとは仕事とかその他の私的な雑事とか、そっちは別段楽しくはないのですが、なんだかんだで耳がおかしくなっています。片耳に圧力がかかったような感じ。人間レベルでいえば困るのですが、でも、その人間を俯瞰で見下している魂は、その全体を楽しんでいます。祈りのないロジカルな言葉なんで、百万文字でも三秒で書けます。だからまあ、そういうことです。

頭痛箱、481、そしてブルブル。

驚くべき勢いで時間が経っています。年明け早々に体調を崩し、結局原因は分からなかったのですが、ひと月くらいそれで潰れました。実質ひと月半かな。夜中に突然頭痛が生じ、それがいままでにないくらいの激しさ。夢の中で「これは量子力学的頭痛だ」という謎のひらめきを得て、霧箱ってありますよね、あれぼくは凄く不思議だと思うのですが、あれの頭痛版を夢の中で作ったのです。木製。量子力学的頭痛を検知する木箱。意味が分かりませんが、めちゃくちゃはっきりした構造の道具で、目が覚めてもその頭痛は凄まじくまじめにちょっといろいろ考えてしまいつつ、これ凄い発明じゃ~んとか思っていたのです。

それはともかく、そんなこんなでいろいろ予定が狂ってしまいましたが、もともと人生そのものの調子が狂っているようなものなので、そこはそれ、なにはあれです。ある朝、いつも乗り換えるホーム、いつも立っている位置で、ぼくはこれまたいつも、線路の向こうにあるフェンスの網目の数を数えます。まあそんなもんです。ともかくそれは37×13マス。プログラマなんて数字に強いイメージがありますが、ぼくは未だに「三日後」とかいう言葉が理解できないレベルです。「一日後は明日、二日後は明後日、三日後は……」ともにょもにょ唱えてようやく分かります。0スタートか1スタート。C言語で生まれ育ったぼくは当然0スタート派。とにかく、電車が来るまでのあいだ、毎朝ぼくは37×13を計算します。「40×10と40×3を足して~、そこから39を引いて~」とか。ところがある朝、それが37×12になっていました。これはとても面白い。なめとこ山の熊のことなら面白い。面白い面白いと呟きつつ、いまだにぼくはこの世界を疑っています。もちろん、自分の頭は常に疑っています。

在宅勤務をしているとき、二階に上がるのが面倒くさくなり、最近は一階で仕事をしています。そうすると、窓の外にさまざまな小鳥たちが来るのが見えます。とはいえこの時期になるといつも来るのはヒヨくらい。そのうちの一羽は、窓枠の外にとまり、窓の中を覗き込んできます。それがとてもかわいい。何か言いたいことがあるのか、コンコンガラスを叩いてくることもあります。ところで、ヒヨドリって英語だとBrown-eared bulbulっていうんですね。ブルブル。

Brown-eared bulbul

昨日、昨年書いた論文がようやく公開されました。といってもこれたぶんその研究会の会員でないと読めないやつなのですが、そうとう面白いです。自画自賛。次に出す本のベースになるものです。そんな風に広告しつつ、いまだに原稿のとりまとめに苦労しています。でも、つらい苦労ではありません。当たり前ですね。好きでやっているのだから。きっと良い本になるでしょう。きょうはきょうで、ありがたいことに書評の依頼がありました。ほんとうにありがたいことです。

あとは……。何かものすごく面白くてげらげら笑ったことがあったのですが、忘れてしまいました。でも、忘れても、笑っていたぼくは確かに存在していたのだし、存在したその軌跡の先にいま・ここがあるわけだし、それで良いのです。そもそも、だいたいいつでもげらげら笑っている。そんな感じです。

確信

いま年末調整をしているのですが、でもって本当に大変なところはすべて会計事務所にお願いをしているのですが、しかしぼくはこういう作業が滅茶苦茶苦手で、法人を作ってから今回で二回目とはいえ何が何だか混乱したまま資料を探したり作ったりしています。けれども何より分からないのは、自分が何で食べているのかということです。もちろん、表面的にはプログラマとしての収入があって、あとはやればやるだけ赤字になる非常勤があって(赤字になるというのは、仕事をわざわざ休んで時間単価の低い講義をしたり、そもそも無給の時間で準備をしたりするからです)、だから数値的にはまあ分かります。でも感覚的に全然分からない。どのようにしてそれが可能なのかというよりも、なぜそれが可能なのか。そして分からないという感覚の方が恐らく正しくて、ぼくはとことん偶然に助けられて、いま、偶々食べることができているに過ぎないのだなと思うのです。いつ終わっても不思議はない偶然。

例えば『愛と栄光への日々』という映画があって、マイケル・J・フォックスとジョーン・ジェットが主演している。凄く良い映画なので(名画、という訳ではないが)ぜひ観ていただきたいのですが、それはともかくラストシーン、マイケル・J・フォックスがライブハウスで歌うのです。これが本当に上手いんですよ。ただテクニックがあるとかいうことではなく、ああ、歌っているなあという。マイケル・J・フォックスはシリアスな演技が素晴らしい。これぼくの逆鱗スイッチなのですが、マイケル・J・フォックスのシリアス演技を批判するひとって何故か居るんですよね。ぼくはね、そういう人はね、地獄に堕ちるべきだと思うんだけどね。まあともかく、『カジュアリティーズ』、『ブライトライツ・ビッグシティ』、そしてこの『愛と栄光への日々』、ぜひ観てください。ただ邦題は酷いですね。『愛と栄光への日々』の原題は『Light Of Day』で絶対このままが良いし、『ブライトライツ』なんて正確には『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』ですよ。「再会の街」どっから出てきたんだ。

で、ライブの話に戻しますが、彼が歌っている途中で姉役のジョーン・ジェットが現れて一緒に歌い始め、やがて彼女がメインで歌う。これが凄まじいパワーを感じさせるのです。マイケル・J・フォックスの歌もギターも良いんですよ。それは全然変わらない。でもジョーン・ジェットが一声出した瞬間、全然別のものだというのが分かる。マイケル・J・フォックスの場合は、彼が歌っている。それが凄く良い。でもジョーン・ジェットの場合は、そこに歌が在るんです。

ちょっと何を言っているか、例によって分からないかもしれませんが、ぼくにとってはこれがプロの在り方、スタイルとかではなくて存在そのもののことですけれども、それなんです。そして翻って自分自身を眺めてみると、全然、いかなるジャンルにおいてもそんな力は持っていない。要するにそれはぼくが凡人だという当たり前の事実を示しているに過ぎないのですが、でもそれだけではない。いや、というより、やっぱり自分がいま何とか生きていられるのが、ナイーヴな意味でではなくて、もっと恐ろしい意味で、ただ偶然に救われているからに過ぎないということ。それがジョーン・ジェットの歌によって逆照射される。

もしあれだけ歌えたら、それは当然才能とか天才とか運とか本人の努力とか人間性とか、そんなことはどうでもいいんです、とにかくあれだけ歌えたら、確かにそこには固有性を帯びた価値が生まれる。じゃあそれで食べていけるのかといえば、それはそれでそんな保証はどこにもありませんよ。もちろんです。だけれど、それなら余計にぼくはどうなるのか。卑下しているのではなく純然たる事実として、凡人たるぼくは置き換え可能でしかないのだから。悩んでいるとかではないです。そんな話ではない。本当に置き換え可能なものは自分のことで悩んだりはしません。だから繰り返すけれどもナイーブな意味ではまったくなくて、ただただ偶然生き残っているに過ぎないという事実そのもの、その圧倒的な確信ということです。

最初の、結局中退した大学で偶然プログラミング実習の講義に出て、ぼくがまじめに受けたのってそれだけだと思うのですが、それがなかったら間違いなく、これは心底間違いなく、ぼくはとっくにこの世界から退場していたと思います。にもかかわらず別段プログラミングの才能があるということでもなくて、特に仕事で要求される能力についていえば平々凡々というところ。2、3秒鍛えれば、誰だってできる仕事です。

ときおり、誰かさんたちが自分を規定する言葉を聞くと、うーん、どうなのかなと思います。何でも良いですが理系とか文系とかあるいは職業とか肩書とか。でも、たぶんそこにあまり意味はなくて、だって天才ではないのですから、そのレベルであれば、ぼくらは何だってできるはずです。傲岸なんだか謙虚なんだか分かりませんが。その程度でしかないし、だから明日をも知れないし、だから自由なのかもしれません。そう、callingなんてあったら、それこそ大変です。

ただそれはそれとして、自分で自分に出している給与明細を眺めつつ、こんなんで明日も食べていられるのかしらと、やっぱりそれは、いつでもまったく確信がありません。

まったく使っていなかったinstagramをやめて、blueskyを始めました。個人的なことはいっさいポストしなくて、ただ写真と本の短い紹介だけ。そもそもぼくは、固有であることを目指そうとする騒音にまみれたSNSって嫌いなのです。偏屈。でもまあ、置き換え可能であることを知っていれば、それはそれで、なかなか静かで良いのではないでしょうか。