そのホールケーキを丸ごと、こちらのお嬢さんに、丸ごと、丸ごと。

例えばですけれども、ぼくの枕元には父の遺影があるのです。それで、いまノートのモニタの光を最低にまで落としてプログラムを組んでいたりするのですが、どうも横目に見える遺影のあたりが不自然に明るい。何でしょうね。でも、ここでそれが超常的な云々、というのは莫迦も良いところです。この世に現れた時点で超常は日常でしかないし、そんな下らなさから絶対的に解放されたところにこそ死の超越性はある。だからといってその光を、いややはりモニタの光が反射してね、などと科学的に説明してしまうのも面白くない。面白いというのは、ぼくにとっては大事な言葉なんですけれども、あはは、ということではない。そのうえで、単に思考停止、ということではなくて、それそのものを受け止めること。そういう在り方が、ぼくは好きなのです。世界は謎に満ちています。それはそれだけのことで、騒ぎ立てるのは酷く品のないことです。でも同時に、その不思議さは凄え、凄えよと魂がひっくり返って喜ぶような途方もなさも持っています。

ほんとうは、自分の部屋の外になんて出たくはないんですよ。でも仕方がありません。義理も情も糞喰らえですが、凡人である以上、自分の天命から逃れることもできず、きょうものたのたと都心に出てひとはたらきしてきました。新宿四谷近辺は、会社と修士とあわせ彼是十数年通いましたが、塵のような街です。けれども、だからこそ、部屋に篭って本だけ読んでいれば幸せなぼくにとっては、謎に満ち、奇妙で、おどろおどろしくも美しいものであふれています。道を歩いているだけで、そういった無数のものごとに出会います。けれども、ああ、でもこれはみんなすぐに忘れるんだよなあ、とも思います。

――そうしていま、思ったとおり、そのほとんどすべてを忘れています。いま辛うじて覚えているのは、地面から唐突に生え、向かい合った青い排煙ダクトです。それがどうしてそのときのぼくに、世界の秘密に通じる鍵のように輝いて見えたのか、もう、ぼくには分かりません。もちろん、その場で言葉を記録することはできます。いまは便利なデバイスがいろいろありますよね。でもそんなことではないのです。そんなことではない。消えるなら、消えてしまって良いのです。忘れるなら、忘れてしまって良いのです。すべてを理解し、すべてを記録し、すべてを明るみに引きずりだすのは、これもまた、ひどく下品なことです。

ぼくがぼくにとっていちばん自然な言葉づかいで話すと、大抵のひとには眉を顰められ、きみはほんとうに無教養で粗野な人間だな、と言われます。それはそれで、正しいことです。だからぼくは、嘘の言葉づかいをいつでもしています。だいたい、ぼくの言葉というのは、これを読んでくださっているひとには伝わるでしょうが、とても嘘くさいものです。だけれど、嘘のない言葉はほんとうなのかといえば、ぼくはそうは思えません。嘘のある言葉が嘘なのかといえば、やはりそうとも思えないのです。ほんとうの言葉のほうが、時として、より救いようのない嘘であることもあります。自分にとっていちばん自然でいちばんほんとうの言葉づかいが、いちばん良いということはない。不思議なことですが。嘘くさい、嘘の言葉使いで、嘘をつく。けれども不思議に、そんなところにほんとうのことが宿ったりします。

何、と決めてしまうのは、けっこう簡単なことです。かといって、何、と決めないこともまた、簡単なことです。どこでもないところで、何とも言いようのないものをそれそのものとして受け止め続けること。きっと、それがいちばん難しいことです。だけれども、それを難しいことだと言うのは、決めたり決めなかったりするゲームのなかにおいてのみです。ぼくらの日常は、そんなルールとは無関係に続いていきます。ぼくらは、やろうと思えばけっこう簡単に、その混沌のなかで混沌を混沌そのものとして受け止め、生きていきます。そして最後に死にます。ほんの一瞬の生のなかで、ぼくらは何も理解する時間はありません。それでも、理解できないその何かの全体を、ぼくらは丸ごと飲み込んでいます。そんなふうに、けっこうぼくらは生きていきます。生きていけます。生きています。

生きています。

ぼくにとってのリアル

数か月前になるのでしょうか、よく覚えていないのですが、博士課程で在籍していた大学の集中講義で、一時限分だけ話す機会をもらったのです。そのときはオムニバスっぽい感じで、研究室が一緒だった人たち(いまはみなそれぞれに非常勤で教えています)の講義を聴講することもできて、いろいろと学ぶことがありました。何よりも、ああ、俺の講義はぜんぜん講義っぽくなくてダメだな! というのを再認識できたのがいちばんの収穫でした。やはり、大学時代にまともに講義なんて聴いていないと、こういうことになります。

ともかく、そのときは何がリアルで何がヴァーチャルか、みたいなことをだらだらと話したのですが、基本的にぼくの立ち位置というのは、ヴァーチャルと呼ばれるものにだってリアルはあるじゃない、というものです。まあでもこれはけっこう賛否があって、こうやってブログを書くということをとっても、そこに現れる誰かさんとの関係性を感じ取れるか取れないかっていうのは(善悪ではなく)そのひとの才能の問題ですから、そういうのがないひとには、幾ら話しても伝わらない。それでも話してしまうのは、そこにぼくのリアルがかかっているからです。リアルっていうのは要するに自分が生きている場そのものですから、まあね、とかいって済ませるわけにもなかなかいきません。

しかし、さすがに農学をメインにやっている学生さんたちだけはあって、やはりヴァーチャルはヴァーチャルじゃん、という雰囲気が強い。土がない! みたいな。いや分かりませんが。でも、繰り返しますが、別段、これは善悪の問題ではないのです。ただ、ぼくみたいに変に絡んでくる講師がいると、自分にとってのリアルというのを改めて考える機会になる。講義なんていうのはそれで十分なわけです。

それで、そのときにぼくが面白いなと感じたことがひとつありました。ネット越しに現れる他者と、真に関わり合うことができるか否か、みたいなことを訊いたとき、ひとりの生徒さんが、それはできない、なぜならそこには殴ったり殴られたりという痛みがないからだ、と答えたのです。

これは、とても良く分かる話です。でも同時に、うーん、どうだろうかな、とも思います。技術さえ発展すれば、実際に痛みを与えることなんて、恐らく簡単にできてしまいます。例えば遠隔操作できるロボットのようなものがあれば、ネットの向こうでグローブをはめて殴ると、その通りにロボットが動き、画面の向こうの誰かさんを殴る。あるいは頭蓋ジャックか何かによって脳に電気信号を流し、殴るという動作をネット越しに電気信号として送り、相手に直接的に痛みを与える。そういう技術ができれば、そこには他者とのほんとうの関係性が生まれるのかといえば、けれどももちろん、そんなはずはないですよね。これはただの莫迦莫迦しい技術論でしかありません。もちろん、その生徒さんが言いたかったことも、そういうことではないはずです。直接的な対面関係がない、ということを、「殴ったり殴られたり」によって表現したかったのではないかと思います。

だけれども、直接的な対面関係のみがぼくときみの関係性を可能にしているなんてことは、もちろんありません。昔誰かさんが書いた言葉を読んでぼくらは感動するし、遠くにいる恋人の声を電話越しに聴いてほっとするし、川の流れを眺めては下流にいる誰かさんを思い浮かべてその生活を想像したりするわけです。それらはみんな、単なる妄想ではないし、独り言でもありません。そこには確かに、リアルな他者との関係性が生まれているわけで、それを否定してしまったら、ぼくら人間の生活というものは、とんでもなく閉鎖的で、かつ極めて他者に対して残酷なものになってしまう。他者との関係性を大切に思うのは分かりますが、その思いが強いあまり、新しいコミュニケーション形態に対する訳の分からない嫌悪感や忌避感が強まってしまう人びとが多いのは、残念なことです。ぼくらの生活なんてものは、そんな小難しい理屈によって動いているものではないのですから、もっとシンプルに考えれば良い。ぼくはそう思います。まあ、シンプルなことを表現するのはこれまた難しいことでもあるのですが……。

ともかく、話を戻しますと、その学生さんの話を聴いていていちばん違和感を覚えたのは、痛みって物理的なものだけなの? ということでした。他者との関係性の基盤に痛みがあるというのは同意します。まあだいたい、痛みしかありませんよね!(極論) でも、その痛みって、そんな、物理! みたいなことだけではなくて、普通に精神的な苦痛も含まれるのではないでしょうか。電話越しにだって、フラれたら泣くんですよ。胸が痛くて。それ、別に心筋梗塞になっているわけではない。あたりまえですけれども、そのあたりまえが大事なのです。だってぼくらの日常って、あたりまえのことの連続でなりたっているんですから。(いうまでもありませんが、だからつまらないとか、だから退屈だなんてことにはまったくなりません。あたりまえっていうのは、途轍もないことです。)

だからちょっと話はずれますが、例えば映画で3Dとか最近いっていますけれど、別段、あんなんどうだって良いんです。それによって表現されるものが(ある次元においては)リアルに近づくわけではまったくない。いやそれはそれで興味深い変化はあるのでしょうし、良い面も悪い面も生まれてくるのでしょう。ぼくはいまのところ3Dの映画など興味はありませんが、だからといって昔のサイレント時代が良かったと思っているわけでもありません。でも、ぼくが思うのは、どんなメディア形態であっても、そこにはぼくらが通常使っているのとは異なるレイヤーで”リアル”と”ヴァーチャル”のせめぎ合いがあるし、それに注意深くなければならない、そうでないと、ぼくらはぼくらの生きている現代社会において、他者と真の関わりを持つことができなくなる危険性があるよ、ということなのです。

うわあ、さすがにこんな時間に書いていると、内容がぐだぐだですね。しかも明日は早朝から会議だというのに……。まあでも、こうやって話すことで、憂鬱な心持というのが少し和らいだりする。ようやく眠気が訪れたりもする。それはやっぱり、ただの独り言ではできないことなんですよね。やっぱり、そこには誰かさんと誰かさんのつながりがある。そんなふうに思います。ぼくにとってのリアル。

地面に耳を押し当てる。何かが近づいてきている。

眠れないからブログを開いただけで、書くことなんて何もないんですけれども、でもほんとうはそんなことってあり得ませんよね。死体にでもならない限り、ぼくらには必ず書くべきことがあるはずです。そうしてたぶん、ぼくらは死体になったって、書くべきことがあり続けるんです。どうなんでしょう、暗闇とか墓地とか、一般的に怖いみたいにいわれているものを、ぼくはあまり恐れる感覚がありません。威張っていっているのではなくて、まあ、根暗、みたいなものです。でも、そういったところで耳を澄ませてみてください。死者たちが何かを書くかりかりかりかりという音が、きっと聴こえてくるはずです。ぼくは、その密やかな音に耳を澄ませるのが好きなのです。

生きている人間の発する音というのは、どうにも大きすぎて、大変です。良いのか悪いのかは置いておき(けれども、自分の声の大きさを自覚できないのだとすれば、それは悪ですらなく、単なる愚です)、純粋にぼくの性質として、だいぶつらいのです。相棒は、街に流れる屑のような音楽を耳にすると、それをすぐに覚えてしまい、長く苦しみます。ぼくはまったくそういうことがなく、そもそも関心のない音楽は聴こえませんし、仮に聴いても、覚えていられません。けれども、ある種のひとびとが発する音――それは声だけではなく、身振りや表情の変化から生まれる空気の振動も含めてですが――の大きさには、ほんとうにダメージを受けます。

ノイズキャンセラーつきのヘッドフォンを持ってはいるのですが、でも、あれは音を消してくれるのではなくて、何ていうのかな、空間全体をのっぺりと塗りつぶしてしまうだけなのです。だから、ぎりぎりのとき以外は、あまり使う気にはなれません。

そういうわけで、ぼくは夜が好きです。山のふもとから風に乗って届く、資本主義市場経済システムが作りだしたバイクに乗りながら反体制だぜなどと阿呆くさくも思い込んでいる阿呆どもの撒き散らす騒音も、夜の静けさをいっそう強調するにすぎません。一万年以上昔から人びとが住んでいたこの土地では、過去の死者たちが地層のように透明に重なり、みな、かさかさかさかさ、秘めやかに何かを書きつらねているのが聴こえてきます。

いったい、死者たちは何を書いているのでしょうか。分かるはずもありませんが、だからこそ、耳を澄ませるたびに、ぼくらは無数の異なる物語を聴くことができるのです。そして、その物語はただの想像などではなく、確かに、その死者たちの地層の上で生きているぼくらにとってのリアルなのです。

だから、眠れないからブログを開いただけで、書くことなんて何もないなんて、そんなこと、あり得るはずがないのです。

朝にperformance shellのジャケットを着れば

marmotのGORE-TEX performance shellのジャケットを着ているんですけれど、なかなか良いんですよ。もともとperformance shellですし、しかも型落ちで買ったので、値段もそれほど高くはありませんでしたし、もう数年は着ているのですが(いやもちろん、印度の行者でもあるまいし、数年間脱がずに着続けているわけではありません)、だいぶお気に入りです。

何かね、ああ、もう死んでも良いなあ、って思うんですよ。そういうことってありませんか? こう、良い音楽を聴いたり、温かいお湯を飲んでほっと息をついたり、やけに綺麗な夕日を見たり、道を歩いている蟻を眺めたり、performance shellを着て、雪のなかを歩いているのに身体はぽかぽか暖かかったり。もう、そういう一瞬が一度でもあったら、いまこの瞬間、スイッチを切ってしまっても良いかな、と思ったりするのです。それはちょっとしたプラスのお話だけれど、マイナスでも同じだと思うんです。ああ、頭が痛いな、吐きそうだな、いまちょっと吐いたな、飲み込みなおしたは良いけど喉が焼けそうだな、とか。何だか、そんな瞬間が妙に愛しくて可笑しくてってこと、ないでしょうか。

ちょっと飛ぶけど、自我って、たぶん、そんなに大したもんでもないんですよ。もちろん、だからって悟ったりできる訳ではないし、いろいろ苦しんだり恐れたり悲しんだり悩んだりするし、下らない、価値のない自我なんてものに引きずられる、そんな矮小な在り方にこそ愛しさを感じたりもするんですけど。でも、やっぱりそんな大したもんじゃない。だから、一つでも何か、ああ、良いなあ、という一瞬があったら、いや、ただ「ああ」っていう一瞬があったら、それでけっこう、存在したことに対するつり合いは取れるのかなあなんて思います。

生きていることの喜びって何でしょうね。けっこう、生きているってしんどいですよね。罰ゲームだから投げだすわけにはいかないけれど、それにしても、いろいろ勘弁してくれよ、と正直思うことばかりです。だから、ぼくらは偽物の救いとやらを持ちだしてくる。そしてもちろん、偽物の救いなんて何の役にも立ちはしません。だいたい、ぼくらの争いなんて、この偽物の神をぶつけ合うことでしかなかったりします。でもそれなら、ほんとうの救いって何でしょう。ぼくは、それは存在することそれ自体のよろこびだと思うんです。砂漠で水がなくて太陽に焦がされて、ああ、俺は水がなければ生きていられないんだな、凄いな、大したもんだな、面白いな! と思って死ぬこと。それが存在することの喜びです。

存在しないことへの恐怖を超えてぼくらに与えられるのは、存在が必ず失われることへの恐怖です。救いなんて、最初から最後まで、どこにもありはしません。にもかかわらず、ああ、俺は確かに在ったんだ! という驚き、その眩く燃え上がる0次元のきらめきにこそ、存在するぼくらの救いはあります。

まあ、それが真実だとかいうつもりはなくて、それが真実だと思っている訳でもなくて、だけれども、まだ暗いうちにperformance shellのジャケットで身を固めて外へ出て、吐く息が白かったりして、でも身体は暖かかったりすると、どこかで笑いながら、夕べに死すとも可なり! なんて思ったりするのも確かなのです。

老象のように

××先生、などと書かれたメールに添付されたレポートを受け取り、他人を偉そうに評価をする。正直、そんなことを平常心でやれるような人間は、みなどこか異常だとぼくは思います。もちろん、それでお金をもらう以上、ぼくだってプロとしてきちんと仕事はこなします。けれども、やはり、反吐を吐きそうになります。では、評価などやめて、全員に優をつければ良いのかといえば、そういうことでもないのです。

ルールを表面的には莫迦にしつつ、結局のところ、そんなルールによって成立しているこの社会で自分が生きていることに何の疑問も感じない。もらえて当然のクリスマスプレゼントのような人生。気に入らないプレゼントであればサンタが悪い自分の人生。そんな連中には、ただひたすら、嫌悪感しか覚えません。

ぼくは、下らないルールだと分かっていて、なおそのルールに自分を合わせ、所詮はゲームだよなどと嘯きつつも適当に、あまりにも軽々と自分を合わせ、けれども内臓は捻じれて腐って、それでもへらへら笑いながら生き残っていく誰かさんが好きです。ぼくは、下らないルールを軽蔑し、憤怒と諦念をもって自らをシステムから排斥し、やがて老象のように誰も知らないどこかへと消えていく誰それさんが好きです。

評価などやめ、いっそのこと全員を不可にしてしまう。あるいは全員を優にしてしまう。それはそれで、お話としてはおもしろいかもしれません。だけれども、所詮、そんなことをしても、それはこのぼくの物語にしかなり得ません。ぼくは、単なる舞台背景に過ぎない。だからけっこう、反吐を吐きつつ、極々常識的に成績をつけたりします。けれども、勝手な言いぐさであることは承知でいえば、優がつこうが不可がつこうが、そんなことは、みな、些事です。

けれども、もしほんとうにそれが些事なら、なぜぼくは反吐が出そうになるのでしょう。思うにそれは、つまるところ生きるということは、些事の連続で、しかし同時に反吐が出るようなことの連続でもあるからです。

* * *

ずっと昔、最初の大学にいたころ、定期試験のときに、ふと、すべてが莫迦莫迦しくなったのです。その講義の先生が、テスト用紙を抱えて大教室に入ってきたとき、ぼくは隣に座っていた相棒に、――ああ、えっと、俺、帰るよ。と言いました。そうして先生と入れ違いで教室を出て行き、

……出て行き、結局いまだに、どこかをうろうろと歩き回っています。

シャッターを切る

街に出るたびに、そこに氾濫する暴力的に発信される暴力的な内容の信号に撃たれ続け、心身ともに疲れ果てます。疲れ果てますが、疲れた部分を遮断してしまえば、自分の内側は守ることができます。でも、「内側」なんてほんとうにあるのでしょうか? 無いような気もします。無いような気がしつつ、それでも「外側」を切り離していくうちに、いずれはすべてがなくなってしまいます。基本的に、ぼくは人間を信用していません。生きるのって大変よね、などと口で言っても、所詮はまともに就職をしてまともに結婚をして、あるいはまともに表通りを歩ける連中など、糞のようなものです。そしてもちろん、何だかんだと言いつつも、へらへら笑って生き残っているこのぼくもまた、同じように糞野郎です。

糞野郎同士、仲良くしなければなりません。仲良きことは美しきかな、です。白樺派だってそういっています。A面B面。クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。

けれども、ただへらへら笑っているだけではありません。最近疲れてしまっていたので、しばらく研究もお休みしようかな、などと思っていたのですが、どうもなかなか、そんなに甘くはありません。ここ数年、自分が追いかけているナニモノかに対して名前をつけようと苦労していたのですが、ほんの数日前、それをようやく見つけることができました。これでまたしばらくは、研究を続けるしかないようです。

研究なんていうものは、いつも書いていることですが、魔術と同じです。魔法を使えない人間、ただ知識とロジックを弄ることができるだけの人間に、研究などできるはずもありません。そうして、もしそれが魔術であるのなら、相手の真の名前さえ知ってしまえば、そこで勝負はついたも同然です。

とはいえ、問題は、相手もまた、ぼくら人間の真の名前を知っているというところにあります。

* * *

とてもあたりまえのことだけれど、最近、あらためて腑に落ちたこと。

多くの人びとが、パシャパシャパシャパシャ、あらゆる眼前のものごとを写真に撮っていきます。それは、時折いわれるようにその対象を所有するためなのでしょうか。どうも違うのではないかと感じるのです。撮った写真は、永遠に残ります。しかしそれは、被写体を永遠に所有したいということの表れではなく、その永遠性を反射させ、「撮っている自分」に永遠性を付与しようという欲望の表れなのではないでしょうか。撮ってしまった写真を多くの場合見返すことがないのは、ぼくらが撮っているものが、本当はそれを撮っているぼくらでしかないからなのかもしれません。

けれど、そんな永遠性など、所詮まやかしにすぎません。だからぼくらは、その幻影が薄れてしまわないように、不死への欲望に突き動かされ、シャッターを切る指を止めることができなくなります。一口飲めば、一秒命が伸びる生命の水。それが事実だとしても、そうであれば、ぼくらの不死の生は、ただひたすら生命の水を飲み続けることに費やさなければならなくなります。

シャッターを切るとき、写真がぼくらに与えてくれるのは、ほんとうは、死です。世界に向けてシャッターを切るたびに、世界は死んでいきます。撮っているぼくらも死んでいきます。シャッターを切るたびに、ぼくらは何度でも新たに死に直しています。だけれども、それもまた正しくはない。生も死も、所詮は言葉でしかありません。二元論というのは、どうにも胡散臭い印象をぼくらに与えます。シャッターを切るときのカシャッという音。それが、その薄っぺらい二元論をぺしゃんと押しつぶし、その瞬間だけ、生と死がぐるぐると煉りこまれ一様になりけれど無限の複雑さを秘めた、世界のほんとうの姿をぼくらに垣間見せるのです。ぼくのいうコミュニケーションというのは、要するにそういうもので、要するに、それだけのものです。

クラウドリーフ君っていつも何言っているのかよく分からないけれど義理でつき合ってあげているのよ。どうもありがとう。

calling

仕事を終えて家に帰り少し身体を休めると、別の仕事を片づけ始める。0時を過ぎ、気がつけば1時を過ぎている。2時になり、眠気を覚ますために洗面所へ行き、電気もつけないまま凍るような水で顔を洗う。そのまま、窓越しに届く街灯の微かな灯りに浮かび上がる、鏡に映った自分の輪郭を眺めている。3時を過ぎ、布団に潜りこむと、しばらく真暗な天井に向けて突きだした手の甲を眺め、それから、ほんの少しだけ眠りにつく。

目覚ましをかけた3分前に、必ず目が覚める。枕元の湯冷ましで頭痛薬を飲む。脳に痛みを感じる神経はない、と、いつかどこかで読んだ、嘘か本当かも分からない言葉を思いだす。いつもと変わらない朝。けれども、そろそろ、いろいろな嘘が破綻しているのを感じる朝。

存在しない神からの召命がある限り、きみの身体にはどこからか熱が流し込まれ続ける。熱がある限りきみは動き続ける。そしてそれはもちろん祝福では、ない。

* * *

ひさしぶりにぼくは、コーヒーを飲みたくなる。本物のコーヒーではなく、インスタントの、甘くてぬるい、絵具のような泥水のような、あれだ。けれども風邪をひいてしまい、裏手の山を登ったところにあるコンビニまで行く気力がない。身体のなかで熱をおこせない。古いセーターを二枚重ねて着、しかたなく本物の コーヒーなどを飲みながら、紙のノートに鉛筆で字を書いていく。誰にも届かない呼びかけ。ぼくが書きたいのは、どこにも届かないことでよってのみどこからも届かなかったところへ届く言葉だ。本物のコーヒーは熱いほどだけれど、ぼくの望む味ではない。

手元においたPHSが着信を告げ、震える。かかってくるはずのない相手からの、数年ぶりの着信。通話ボタンをそっと押す。スピーカーの向こうから届くホワイトノイズ。無言で耳を澄ませ、数分後にそっと切る。

* * *

ぼくはきみにはなれない。きみはもう誰にもなれない。きみに呼ばれなかったぼくが、いつまでもきみの呼び声でない呼び声に耳を澄ませている。身体のなかからとっくに熱は失われているけれど、存在しない神に対する戦いにおいては、すべてが逆転する。

だから、届かない声は、きっときみに届く。きみではない誰かから、ぼくではない誰かに。