雨は降っていますか?

明日は小規模な研究会で、少しばかりお話をする時間をもらえたのですが、さきほどようやく発表原稿を作り終えました。発表原稿といっても、今回はほんとうにラフな感じのものです。もうSFとか引用しちゃっている。でもまあ、良いんですよ、好きなことを書いてしまって。だって、書きたくないことを書こうが書きたいことを書こうが、どのみち、当たり前ですが、ぼく以外の誰もぼくの研究に対して責任なんて取れないんですから。自分の人生を賭けてやっているのだから、自分の好きにやって、好きに失敗して、好きに消えていけば良いんです。おっと、また暗い感じになっていますね。明るいお話をしましょう。

* * *

昨晩仕事帰りに、例によって生き物を踏まないように俯いて暗い道を歩いていると、小さなアマガエルが街に向かってぴょこっ、ぴょこっと跳ねているのを見つけました。街といっても田舎町ですが、それでも、碌なものではありません。ですので、おせっかいは承知で、嫌がるカエルくんを掬い上げ、少し戻って裏の田んぼへ放してきました。田んぼはいま、夜になればカエルたちの大合唱です。カエルくんを田んぼに追いやってから手のひらをみると、ウンチをされていました。そういうのって、何だか、幸せになりますよね。

幸せって不思議なものです。明日の研究会に履いていくジーンズがないこと。被るたびに変質者にしか見えないからやめろと言われる帽子しか、あす身につけるものがないこと。裸に帽子だけだと、ダブルで変質者に見えること。そういった諸々のことを眠れないままにつらつら考えていると、それだけで妙に可笑しくって、やっぱり何だか幸せだなあと思うのです。

PHSで彼女と話をしていると、時折、雨が降っているような幽かなノイズが聴こえてきます。夜中、暗いなかでじっとしていると、同じようなノイズが聴こえてきて、それが幻聴なのかほんとうに外では雨が降っているのか、分からないと分かりきっているのに考えたりします。雨音はきらいなのですが、けれどもそうやって過ぎていくぼくの周りの小さな夜の時間、それもまた、ひとつのささやかな、けれどかけがえのない幸せのように思います。

そんな、他のひとが聞いたら、こいつは何を言っているんだと思われるような、たくさんの小さな幸せがあります。それはでも、決して、やっぱり日々の生活が大事よね、とか、そういうことではないのです。おしるこ万才には、ほんとうにほんとうに嫌悪と憎悪しか感じません。「日々の生活」というときの、その「日々」に対する愚鈍で傲慢な信仰が、ぼくは嫌なのです。一瞬先の生に対する小児的な信頼感。その日々が偶然としてしかあり得ない日々だからこそ、あり得ない奇跡としての一瞬一瞬がぼくらに幸福を与えるのではないでしょうか。そこにはつねに、すべてが失われることに対する覚悟が……いえ、覚悟ですらなく、単なる事実として失われるのを知っているということのみが、ただの平凡な光景に美しさと尊さを与えます。

ん? 何だか暗い雰囲気になっているでしょうか。おかしいですね。明るい話をしていたはずなのに。きっと雨音のせいでしょう。ぼくはほんとうに雨音が嫌いなのです。でも、雨はいやじゃいやじゃと真暗ななか布団を被って丸まっている自分を俯瞰してみると、昨晩手のひらに包んでウンチをされたカエルくんを思いだしたりして、そしてそこには、どうしようもなくユーモラスで愚かで愛しい何かがあったりして、その全体が、やっぱり幸せなんだよなあ、などと思ったりするのです。

いま、雨は降っていますか? 耳を澄ませれば、雨音の向こうから、その答えが聴こえてきます。

生きているだけできみは憎悪の対象さ

明るい話を書こうと思い、もうタイトルから失敗しているのですが、けれどもいちばん暗いところから始めればあとは明るくなるしかないわけです。まあ厳密に考えればそんなことは全然ないのですが、人生なんて厳密性のかけらもないぐやぐやのほにゃほにゃです。話はぐんぐん明るくなっていくのです。そうだ。もみあげの話をしましょう。言いたいことはもうタイトルで言ってしまったので、あとはもみあげです。

最初の大学に通っているころからでしょうか、ぼくはずっと自分で髪を切っていたのです。だって一回髪を切るだけで3,000円とかですよ。ハードカバーの本が1冊買えてしまいます。それで、何故かは分からないのですが、もみあげってものを、こう、用語が分からないのですが(人生分からないことばかりです)、とにかく切り落としてしまっていたのですね。切り落とすって、生々しいけれど。ぼたっ。改めて思えば、YMOの影響だったのでしょうか。テクノカット。いやそれはないか。そういえば、いまはもうYMOはまったく聴かなくなってしまいましたが、昔は好きだったのです。BGMとか良いアルバムですね。YMOではありませんがphilharmonyはいまでも稀に彼女と聴いたりします。名盤ですよね。とにかく、あれは20年くらい前でしょうか。YMOの「プロパガンダ」をどこかの小さな映画館でやっていて、相棒と、あと彼女の友人と3人で観にいった記憶があります。これ本当の記憶かな。まあいいや。立ち見まで出るくらいの混みぐあいで、田んぼしか見たことがなかったぼくは、都会人の生活っていうのはまあ凄いもんだね、などと思いつつ、暗く狭いなかでときおり彼女と肘が触れたりして、映像よりもそっちのほうが気になってどきどきしたのをよく覚えています。うん、これやっぱり偽の記憶だ。

話を戻せば、もみあげです。そんな感じでずっともみあげのない人生を過ごしていたのですが、最近、ふたたび床屋さんで切ってもらうようになったのです。穴の開いたジーンズに登山靴、洗いざらしのYシャツで会社に行っていると、世間様の目が厳しい。まして髪まで自分で切ったざんばら髪だと、これはもう不審者です。蔑むような他人様の目に、何だか新しい世界が拓けてきます。それにしても「せけんさま」とか「ひとさま」って、何だか嫌な言葉ですね。あすほう! と思うのです。

それで、床屋さんに行きますと、毎回、「もみあげありませんね、あなたもみあげありませんね、どうするつもりですか、これどう責任とりますか」と言われるのです。普段、ぼくは徹底的にぼんやり過ごしているので、そう詰問されても自動応答システムが「あっあっあっ、自然な感じで」などと、適当な相槌を打ってやりすごしていました。けれども、ある日、たまたま覚醒していたとき、「ああ、もみあげがないというのはこの世界ではおかしなことなんだ、生きている資格がないことなんだ」と気づきました。ぼくはこれから、世間様にも他人様にも恥じることのない髪形で生きていくことにしました。あすほう。

でも、もみあげって、伸びない(生えない?)ものですね。なかなか、普通の感じになりません。普通って、何でしょう。糞のようなものであることは確かです。いま思ったのですが、糞と翼って似ていますね。糞のようなもみあげを伸ばしやがてそれが翼となり、ぼくは夜のなか独り飛び立ち、

ああ、つらい、つらい。僕はもうもみあげを伸ばさないで餓えて死のう。いやその前にもう床屋が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。

そう思うのです。でも不思議なことに、右側のもみあげだけは元気に伸びる(生える?)んですね、これが。でもって左がぜんぜん育たない。右のもみあげだけが伸び地に垂れ地に栄え、まるで傾奇者です。世間様の目は相変わらず厳しくゴミを見るようで、知らない世界がどんどん拓けていきます。拓けた世界を満たすまで、産めよ、増やせよ、地に栄えよと、神のようにもみあげに呼びかけるのです。

正直何を書いているのかさっぱり分かりませんが、暗い話を書くの禁止命令は、まだしばらく続くのです。

悪夢デコーダ

何だか暗い話ばかりを書いて、精神状態を心配されてしまった。もちろん、そんなことはない。ぼくの心はいつだって絶好調だ。絶好調すぎてカーブを曲がれないくらいにアクセルを踏み続けている。そんなこんなで、これから数回は明るい話を書こうと思った。思うだけなら土星にだって行ける。PTPシートって、飲む分でペアになっていますよね。それで、横並びに2つペアの薬を飲むのですが、ふと気づくとそれを縦に(2回分にまたがって)薬を取りだしちゃったりしているんですね。頭痛で訳が分からないときにあわあわ薬を取りだしたりすると、そういうことになってしまって、あとになってそのPTPシートを眺めて何が可笑しいのかいひひひひひ、などと笑ってしまったりします。

こういうことを書くから暗いとか笑顔が不気味とか言われるわけですが、そういうつもりでもなくて、ぼくほど笑顔の爽やかな人間もそうはいないんじゃない? とは思っているけれどそういうことでもなくて、やっぱりそれは、けっこう楽しいことなんですね。そんな感じで、楽しい話でも書いてみようと思うのです。

ぼくはけっこう悪夢を見るほうだと思うのですが、それでも、幸いなことに、そのうちの幾つかは見たという感触だけが残り、その内容は目覚めれば消えてしまいます。けれども、この前、夢のなかで、形のない小さな機械をどこからか手に入れたのです。悪夢デコーダと呼ばれるそれは、目覚めたときにばらばらに砕けた悪夢の残滓を、再度完全に構築し直すことができるのです。真っ青に晴れた空いっぱいに、ぼくが見てきた無数の悪夢が、きらきらきらきら、妙にきれいに銀色に輝きながら、悪夢デコーダによって再生されます。そういう悪夢を見ました。目が覚めれば、既に明るく、そこではトナカイが空を飛んでいました。

けっこう、ぼくは悪夢を見るほうだと思います。でも、それは嫌なことばかりではありません。いま、どうして嫌なことばかりではないのかを書こうと思ったのですが、言葉にできないことに気づきました。要するに、それは体験それ自体、ということです。それそのもの。だからそれを表現するために、あらゆる迂回路を辿り、物語を書いていきます。けれども、言葉のプラス1次元にあるそれそのものは、無限に言葉の軸をずらしていっても、決して表現しきることはできません。だけれどもそれは断念でも諦念でも疲労でも絶望でもなく、だからこそそれは、楽しいものです。

神秘とか奇跡とか、そういう言葉を簡単に使うひとが嫌いです。キーボードに手を置いたときの姿勢。出涸らしのお茶を淹れるときの手つき。足下の蟻を避けるときのよろめき具合。そこに顕れている祈り、そこから顕れる奇跡、それは、美しいことでも正しいことでも善いことでもありません。あまりに巨大で寂しくなるほどどうしようもないぼくらの現実で、それらは単に、それそのものとしてそこにあるものです。悪夢を見て目が覚めて、普段は40bpmの脈拍数が軽く150bpmを超えるとき、やはりそこには、それそのものとしての祈りと奇跡が顕れています。その祈りと奇跡とは別のところにある空白を言葉で埋め、そうではないということでのみ、また新たな一歩を標します。その足跡がどこかへ向かっているものではないとしても、それはそれで、どうでも良いことです。

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言葉を使っているにもかかわらず、そうして、ぼくは自分なりに自分の言葉使いに誇りを持っているにもかかわらず、ほとんどの場合、何を言っているのか分からないと言われます。まあ、それはそれで良いかな、と思うのです。諦めということではなく、まったくそうではなく、伝わることであるのなら、最初から伝える必要などないと思うからです。相棒にはいつも、他人をひどく怖がるきみがどうしてコミュニケーションについて研究しているの、と訊かれます。それもきっと同じなのです。

できることはやる必要はありません。そしてできないことは、努力や運では、所詮できやしません。見えるものは見る必要がありません。見えないものは、けれど決して見えません。聴こえるもの、聴こえないもの。語れること、語れないもの。

訳の分からないその全体。何だか、少しばかり、楽しくなりませんか? ぼくは何だか、それが楽しいといっている滑稽で愚かな自分の姿そのものが、楽しいのです。

嘘っぽいけど

昨日、相棒とふたりで、ひさしぶりに彼女の地元を歩いた。ほんの二、三年行っていなかった場所を歩いてみると、ぼくらの頭のなかにあった地図はすべて古くなっていた。ものごとというのは、大抵の場合悪い方向へと転がっていく。けれども無限音階のようなもので、悪くなり続けつつ、いつまでたっても底に辿りつかず、現在に留まっていたりもする。何となく漠然としんどさが続き、へとへとになっても終わりは見えてこない。それでも、ふと気づくとぼくの服の上をしゃくとりむしがえっちらおっちら這っていたり、道の脇を唐突にカモのつがいがよちよち歩いていたり、そういったものに触れて、強ばっていた心が和らいだりもする。昨日は今年になって初めて天道虫を見つけた。クロアゲハが飛び、雨が近づけばアマガエルが鳴き、そして、そうだ、最近では、これはぼくの地元だけれども、夜通しふくろうが鳴いたりもする。散歩に出かけ、夜もうるさい車通りを離れ、真暗ななかに立って彼女にPHSをかける。小さな森のなかから届くふくろうの声を、彼女に届けたりする。

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あるとき、ふと、眼の前に小さな惑星が浮かんでいた。サン・テグジュペリが好きだというから何がと訊くと星の王子さましか読んでいないような連中がぼくはほんとうに嫌だ。けれども、無論、星の王子さま自体が嫌いなわけではない。むしろ逆だ。ともかく、あれをイメージしてもらえれば近いかもしれない。小さな惑星の上には、縮尺的につりあわないくらい大きなビルが林立している。林立といっても、惑星の表面自体が狭いものだから、せいぜい数十といったところだろう。そうして、そのひとつひとつに、ちょっとうまく説明できないのだけれど、ぼくの心のなかにある感情のひとつひとつが対応していた。眼の前に浮かんだ惑星のうえで、いちばん大きく建っていたのは(ただし聳える、という感じではなかった。それはひどく精細でありながらも、ミニチュアの可愛らしさを持っていたから)「死にたい」という名前のビルだった。しばらくそれを眺めて、瞬きをしたら消えていた。

こういうことを書くと、何だかネガティブだなあ、とか、こいつ大丈夫かなあ、とか思われるかもしれない。あるいは、よく分からないけれども格好つけ、とか。だけれど、そういうことではない。それは単にそれだけのことで、たいして意味があるわけでもない。むしろそういった感情がありつつ、どうして生きているのかというほうにこそ、ぼくは意味があると思うし、関心もある。ただぼんやりと生きていて、それが生きていることなのなら、いうまでもなく、別段、ぼくらは生を問う必要などない。それはそれで幸福なのかもしれないけれど、そうであるのなら、これもまた、ぼくらは幸福を問う必要などない。

「死にたい」というと、何だか変な前提や変な思い込みや変な押しつけをされてしまい、話ができなくなる。それは面倒くさいので、適当にお話を作り、適当にお話をする。何だかマッチョなひとたちだなあ、と、ぼんやり思う。そのマッチョさというのは、要するに、おしるこ万才の持つ鈍感さ、愚鈍さだ。ぼくはそれを嫌悪する。

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奇妙な――といってもそれほど奇妙な話でもないけれど――ものが見えるということであれば、最近、もうひとつあった。会社でパソコンのモニタを眺めていたら、ふとコーディング中のプログラムの向こうに、その文字列を押しのけるように、とある景色が現れた。これもまた正確には表現できないのだけれど、それは、ぼくが知っていたあるご老人の、そのひとがまだ若かったころによく眺めていた光景だった。その老人は既に亡くなっているし、生前、そのひとからぼくがその光景について聴いたこともなかった。それでも、ぼくには「分かった」。それがいわゆる事実かどうかということでいえば、無論、答えるのも阿呆らしい。でもそれは、事実ではないという当たり前すぎることだから阿呆らしいのではない。問うべき軸がずれすぎていて、阿呆らしいということだ。

しばらくその光景を眺めてから、キーボードを叩き、それを消した。

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この社会(どの社会?)が持つ残酷さというものがある。そしてぼくはぼくなりの残酷さを持って、自分にとって嫌悪すべきものを嫌悪する。その残酷さのベクトルが異なっているから、ぼくはぼくなりにシステムに妥協して生きていけるし、システムもシステムなりに妥協して、ぼくのような存在を――何らかの使い道がある限りにおいて――見逃している。システムには無数の、ぼくとは異なるという意味においてぼくと似ている誰かさんたちがもぐりこんでいる。ぽこぽこぽこぽこ、偶発的に必然的にシステムの内部で生まれつつ、ぽろぽろぽろぽろ、システムにとっての有用性を失って虚空へと捨てられていく。それは例外的存在などではなくて、そういったヴィジョンそのものに、あるいはそこのみに、この世界のリアルさがあるとぼくは思っている。

I remember it very, very clearly.

ベーコン展を観てきました。特に衝撃を受けるということもなかったのですが、それなりに観る価値のある(金銭換算して価値がある、ということではありません)絵が幾つかあったと思います。酷かったのはキャプションで、どのみちぼくはほとんど読まないのですが、時折目を通すと妙に押しつけがましい「解説」が書いてあったりして、これには少々辟易しました。作品としては、タイトルは分かりませんが、犬を描いたものはやはり良かったですね。あと、土方の舞踏の映像を流しているのも、ベーコンに影響を受けているからというにはあまりに唐突な感じがしますが、普段そうそう目にするものでもないので、それはそれで面白かったです。

壁に、ベーコンの言葉が書いてありました。17歳のときに犬の糞を見て、その瞬間、人生ってこういうものだと思ったのを克明に覚えているよ、みたい内容でした。どうにも、その展示方法のいやらしさが鼻につくのですが、ベーコンが言っていること自体はよく分かります。まあ、彼ほどの画家だからこそなるほどと感心されるわけでして、ぼくなんかが言っても苦笑いをされるだけですが、けれども、それは半分は、極めて同意できる感覚だと思います。なぜ半分かといえば、全部がその言葉で表現できてしまうのであれば、彼だって17歳を過ぎてまで生き延びて、わざわざ絵を描く必要などなかったからです。そうして、その犬の糞のただなかを生きて通り抜けてきたからこそ、”I remember it very, very clearly.“という言葉に意味が与えられる。意味があるのは、犬の糞の方ではないと、ぼくは思います。

ぼくが美術館に行って衝撃を受けたといえるのは、シーレくらいです。ベーコンは、正直なところ、それほどではありませんでした。下らない、ということではまったくなく、単純に、ぼくと波長が合わなかったということでしかありません。少なくとも、(展示のことはさておき)観て不快になるということがないというだけでも、それが優れた芸術であることが分かります。不快さとは、己に囚われ過ぎて己が破れ、どこかに向かって何かが流出していってしまうような、そういう、「どうしようもなく超えてしまった何か」がない(にも拘らず芸術を名乗る、あるいはだからこそ芸術を名乗る)ものに対して抱く感情です。ベーコンは、偉そうな言い方になってしまいますが、それが芸術かどうかはともかくとして、やはり芸術であったように感じました。

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ベーコンの作品の良いところは、ガラスで覆われたものが多いことです。ガラスの表面に、展示室のなかが映ります。普段、ぼくは、美術館に行っても、絵を観ている相棒をしか観ていなかったりします。きょうは、絵を観ている相棒を観ているぼくもまたガラスに映り込んでいて、ぼくは絵を観ている相棒を観ているぼくを観ているぼくを観たりして過ごしていました。彼女よりも頭ひとつぶん背の高い、ぼさぼさ髪でぼんやりした顔をした誰かさんが、ガラスの向こうからぼくを観ています。

金曜日は遅くまでやっているので、彼女のペースで常設展まで観て回り、美術館を出るころには、もう辺りはすっかり暗くなっています。美術館の外には、木でできた遊具のようなものが設置してあります。これも何かの作品のようです。どこかに説明はあるのかもしれませんが、最初から、そんなものを探すつもりはありません。相棒とふたりで、高いところに登ったり、ブランコに乗ったりしました。

平日、働きもせず、美術館に行く。ただそんなことのためだけに、まっとうな人生を棒に振ったりするわけです。いえもちろん、棒に振らなくたってそんなことはできるのですが、そういうことではない。何だかんだで、まっとうな人たちと話すのは、とてもしんどいことです。最近、とみにそれを感じています。

よっちらさ


というわけで、Kindle Fire HDを買いました。下働きをしている学会で、いま学会誌を電子ジャーナル化しようとしているのですが、せっかくだからこういったデバイスでも無理なく読めるようなデザインにしようと思ったのです。別にamazonには何の義理もないですし、プライバシーとか考えると気味が悪いのですが、まあ、値段的にもこのくらいなら仕方がないという感じです。というより、個人情報をダダ漏れにすることに対して自らお金を払うということ自体が、ほんとうはそもそもおかしいんですよね。でも、最近はメディア論も意識しているので、そういったおかしさも含めて、けっこう自分の研究に役立ったりもするのです。実証主義! でも、これだって研究の一環なんだよう、と相棒にいっても、またムダ金使いやがって、みたいな目をされるのです。研究は、孤独です。

最近は風邪のような症状が長く続いてるので、マスクをすることが多いのです。いままではマスクなんてすることもあまりなかったのですが、彼女はけっこうマスクをするほうで、そうすると、ふたりでマスクをした顔を突き合わせたりすると、何となく面白いですね。なめとこ山の熊のことなら面白い。しかしこの、マスクというのは、眼鏡が曇るものです。ぼくの地元は車のブレーキは踏まない、みたいな変な宗教の信者が多いので、曇るのはとても危険です。そこで、どうすれば曇らないのか、さまざまに研究をしています。最初から顔にぴったりしてくれれば問題ないのですが、なかなか、そうはいきません。強く息を吐き出したり、横に吹いてみたり、いろいろしたのですが、やはりダメです。どうしても上に息が漏れて、眼鏡が曇る。そこで、そうだ、マスクの中で舌を突きだして高速回転をさせたら、湿った空気がこう何か攪乱? とかされて、どうにかなるんじゃない? などと適当なことを思いつきました。ですので、仕事中ですが、早速やってみました。ぐるんぐるん。ぐるんぐるんぐるん。何だかひんやりするな、オレ天才だな、などと思っていると、隣の席の上司がぼくを凝視しています。マスクの脇が捲れ、天才的な舌捌きが丸見えだったのです。へへへ。ぼくはちょっと危ないひとのような顔をします。よくいますよね、ナイフを舐めたりする、登場して1分でやられる下っ端。あんな感じで、エアーナイフです。上司はまじまじとぼくを凝視しています。

今朝は、頭痛と吐き気で、しばらく起き上がれませんでした。枕元のマグに残っている白湯で薬を飲み、また布団に潜りこみます。数か月前から、少しでも頭痛薬の量を減らそうと思い、飲んだ薬のPTPシートを保存しておくことにしたのです。その量に自分でびっくりすれば、薬の量も自ずと減るであろう、という感じですね。けれども、いま、大きめの封筒一杯にじゃらじゃら溜まっているのですが、ここまでくると、少しくらい飲もうがどうしようが、全体量に与える変化というのはほとんど視認できなくなってきます。意味があるのでしょうか、などと自問自答しつつ、既にバザーで売れば200円くらいなら誰か買ってくれるのではないか、というくらいに育ちました。この方法は、どうもダメなようです。頭痛が引かないまま、ぼんやり、写真を撮ったりして、午前中を過ごしました。

ぼくは、たぶん正直にお話をすると、みんさんが呆れるのを通り越して軽蔑をするほど、生活能力のない人間です。いえ、家事であれば、やらせてみると、なかなかのものです。最近はめっきり体調を崩しているのであまりできませんが、掃除をさせれば手早く丁寧ですし、料理だって手を抜きません。先日、相棒に言われてきんぴらごぼうを作ったのですが(いや、味付けは彼女がしたな)、ニンジンとごぼうの丁寧な細かい切り具合ときたら、ちょっと病的なくらいです。だけれども、生活って、そういうことではないですよね。いやそういうこともあるけれど、それだけではない。人間として――というより、「生活人」として当たり前のことが、ぼくにはまったくできません。10年後の自分どころか、5年後の自分でさえ、まだ辻褄合わせと嘘で、この世界の片隅に居場所をこっそり確保できているかどうか、まったく自信はないのです。

会社に行くとき、電車のなかで読む本が決まらないと、ほんとうに、家から出たくないのです。朝、うじうじ考え続け、けっきょく決めることができず、ふと部屋を眺めると、父の本棚に、講談社文芸文庫の『鳴るは風鈴』(木山捷平)がありました。仕方なくそれを読むことにしたのですが、これがなかなかに良かったのです。最初の、太宰の桜桃忌にまつわる話も良かったのですが、作品とは別に、筆者が亡くなったあとにその結婚相手が書いたあとがきがすばらしかった。ちょっと引用してみましょう。

坂の道を老婆がそろりそろりのぼっている影があります。この影は九十の坂を越えた現実の私の姿です。
長い間私は捷平の影を見つめて生きていました。いろいろな文学的なことの影ではありません。日常の生活の影です。かんしゃく持ちの捷平のうしろにいて、ほんとうに人間として影の人生でした。この影をひきずって生きて、今は自分の影を生きています。おぼつかなく力なく、ともかく生きています。
長い間貧乏ぐらしの私達をいろんな方が救ってくださいました。私は合掌しています。あとずさりするたびに両手でしっかりつかんで引っ張りあげていただきました。それが私達の人生でありました。ご恩をありがたく思います。人間ぼけても心の中に形にしてしっかり埋めこんで、忘れてはならないものがご恩です。
今よい知恵も工夫もありませんが、ずるりずるりあとずさりしないよう、ころばないよう必死でそろりそろり坂道をのぼっています。(「著者に代わって読者へ あとがき」木山みさを『鳴るは風鈴』木山捷平、講談社文芸文庫、2001、pp262-265より)

よっちらさ! と坂道を登り続けること。なかなか、大変です。けれどもまあ、ぼくのなかに、つねにどうしようもなく楽天的なぼくが居る限り、どうにかなるさ、と、また別のぼくもそう感じたりするのです。

縁側でぼんやり、地を這う虫を眺めている、いつか。

下働きをしている、とある学会の委員会が毎月あるのですが、終わると、大抵、ぼくらは近くの中華料理屋さんに行きます。夕飯を食べながら、ああだこうだという先生方のお話を聴いて、にこにこして、紹興酒を飲み、解散をします。先日、その席でとある先生に、ぼくの最近の論文について、いままであまり読んだことがないタイプの論文だね、と、これは褒める感じでも悪く言う感じでもなく、純粋に困惑しているふうに言われました。

たぶん、ぼくは研究者には向いていないのです。

1曲の音楽を聴いて、ぼくらは感動したり涙を流したり考えたり生きようと思ったりします。ぼくは、ぼくなりのかたちで、もう二十年近くに渡り、ただひとつのことを表現しようとしてきました。ここ十年は、それをアカデミズムのなかでやってみようと試行錯誤をしてきました。けれども、その結果書き上げたひとつの論文(もちろん、書いてきた論文はひとつではありませんが)で、いったいどれだけの人びとに触れることができたのかといえば、これはちょっと、愕然とするよりほかはありません。

そして、いまだに、ぼくは自分が言いたいことを伝えられないでいます。世界には救いも希望もなく、生きるということは恐れと痛みと悲しみの連続であり、にもかかわらずそのなかにしかぼくらは存在せず、その恐れと痛みと悲しみのなかにこそぼくときみのつながりがあり、存在のよろこびがある。そんなことさえ、ぼくは表現できていないようです。

何だか奇妙な論文だよねといわれ、それはそうだと思うのです。なぜなら、最初から、ぼくは論文などを書いてはいないからです。論文の書き方など、実は、何も知りません。実は、書きたいとも、思っていません。

研究の世界でつきあうひとびとは、ぼくのプログラミングの才能(嘘をつくことを除けば、それはほとんど唯一のぼくの才能です)のことを、何も知りません。仕事の世界でつきあうひとびとは、ぼくの研究のことを何も知りません。それは、いうまでもなく誰が悪いのでもなく、このぼく自身が、どこにも属していない糞野郎であるからにほかなりません。

明日も普通に会社です。にもかかわらず、あるいはだからこそ、眠ることができません。可笑しな足し算をして、自分の身体を宥めます。あれは昨日だか一昨日だか、駅のホームで、小さな小さなトカゲが、ぐるぐるぐるぐる、回っていました。誰かに踏まれるしかなさそうなそのトカゲを掬いあげ、線路の逆側の土手に放り投げます。近くを歩いていた女の子が、薄気味悪そうにぼくを遠回りにしていきます。

ぼくが書きたいのは、そういうことの全体なんですよ、と、ぼくはネットのなかに、独り言をそっと、送りこみます。ほんの少しの穏やかな眠気が、どこからか送り返されてきます。