明日は小規模な研究会で、少しばかりお話をする時間をもらえたのですが、さきほどようやく発表原稿を作り終えました。発表原稿といっても、今回はほんとうにラフな感じのものです。もうSFとか引用しちゃっている。でもまあ、良いんですよ、好きなことを書いてしまって。だって、書きたくないことを書こうが書きたいことを書こうが、どのみち、当たり前ですが、ぼく以外の誰もぼくの研究に対して責任なんて取れないんですから。自分の人生を賭けてやっているのだから、自分の好きにやって、好きに失敗して、好きに消えていけば良いんです。おっと、また暗い感じになっていますね。明るいお話をしましょう。
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昨晩仕事帰りに、例によって生き物を踏まないように俯いて暗い道を歩いていると、小さなアマガエルが街に向かってぴょこっ、ぴょこっと跳ねているのを見つけました。街といっても田舎町ですが、それでも、碌なものではありません。ですので、おせっかいは承知で、嫌がるカエルくんを掬い上げ、少し戻って裏の田んぼへ放してきました。田んぼはいま、夜になればカエルたちの大合唱です。カエルくんを田んぼに追いやってから手のひらをみると、ウンチをされていました。そういうのって、何だか、幸せになりますよね。
幸せって不思議なものです。明日の研究会に履いていくジーンズがないこと。被るたびに変質者にしか見えないからやめろと言われる帽子しか、あす身につけるものがないこと。裸に帽子だけだと、ダブルで変質者に見えること。そういった諸々のことを眠れないままにつらつら考えていると、それだけで妙に可笑しくって、やっぱり何だか幸せだなあと思うのです。
PHSで彼女と話をしていると、時折、雨が降っているような幽かなノイズが聴こえてきます。夜中、暗いなかでじっとしていると、同じようなノイズが聴こえてきて、それが幻聴なのかほんとうに外では雨が降っているのか、分からないと分かりきっているのに考えたりします。雨音はきらいなのですが、けれどもそうやって過ぎていくぼくの周りの小さな夜の時間、それもまた、ひとつのささやかな、けれどかけがえのない幸せのように思います。
そんな、他のひとが聞いたら、こいつは何を言っているんだと思われるような、たくさんの小さな幸せがあります。それはでも、決して、やっぱり日々の生活が大事よね、とか、そういうことではないのです。おしるこ万才には、ほんとうにほんとうに嫌悪と憎悪しか感じません。「日々の生活」というときの、その「日々」に対する愚鈍で傲慢な信仰が、ぼくは嫌なのです。一瞬先の生に対する小児的な信頼感。その日々が偶然としてしかあり得ない日々だからこそ、あり得ない奇跡としての一瞬一瞬がぼくらに幸福を与えるのではないでしょうか。そこにはつねに、すべてが失われることに対する覚悟が……いえ、覚悟ですらなく、単なる事実として失われるのを知っているということのみが、ただの平凡な光景に美しさと尊さを与えます。
ん? 何だか暗い雰囲気になっているでしょうか。おかしいですね。明るい話をしていたはずなのに。きっと雨音のせいでしょう。ぼくはほんとうに雨音が嫌いなのです。でも、雨はいやじゃいやじゃと真暗ななか布団を被って丸まっている自分を俯瞰してみると、昨晩手のひらに包んでウンチをされたカエルくんを思いだしたりして、そしてそこには、どうしようもなくユーモラスで愚かで愛しい何かがあったりして、その全体が、やっぱり幸せなんだよなあ、などと思ったりするのです。
いま、雨は降っていますか? 耳を澄ませれば、雨音の向こうから、その答えが聴こえてきます。