何だか暗い話ばかりを書いて、精神状態を心配されてしまった。もちろん、そんなことはない。ぼくの心はいつだって絶好調だ。絶好調すぎてカーブを曲がれないくらいにアクセルを踏み続けている。そんなこんなで、これから数回は明るい話を書こうと思った。思うだけなら土星にだって行ける。PTPシートって、飲む分でペアになっていますよね。それで、横並びに2つペアの薬を飲むのですが、ふと気づくとそれを縦に(2回分にまたがって)薬を取りだしちゃったりしているんですね。頭痛で訳が分からないときにあわあわ薬を取りだしたりすると、そういうことになってしまって、あとになってそのPTPシートを眺めて何が可笑しいのかいひひひひひ、などと笑ってしまったりします。
こういうことを書くから暗いとか笑顔が不気味とか言われるわけですが、そういうつもりでもなくて、ぼくほど笑顔の爽やかな人間もそうはいないんじゃない? とは思っているけれどそういうことでもなくて、やっぱりそれは、けっこう楽しいことなんですね。そんな感じで、楽しい話でも書いてみようと思うのです。
ぼくはけっこう悪夢を見るほうだと思うのですが、それでも、幸いなことに、そのうちの幾つかは見たという感触だけが残り、その内容は目覚めれば消えてしまいます。けれども、この前、夢のなかで、形のない小さな機械をどこからか手に入れたのです。悪夢デコーダと呼ばれるそれは、目覚めたときにばらばらに砕けた悪夢の残滓を、再度完全に構築し直すことができるのです。真っ青に晴れた空いっぱいに、ぼくが見てきた無数の悪夢が、きらきらきらきら、妙にきれいに銀色に輝きながら、悪夢デコーダによって再生されます。そういう悪夢を見ました。目が覚めれば、既に明るく、そこではトナカイが空を飛んでいました。
けっこう、ぼくは悪夢を見るほうだと思います。でも、それは嫌なことばかりではありません。いま、どうして嫌なことばかりではないのかを書こうと思ったのですが、言葉にできないことに気づきました。要するに、それは体験それ自体、ということです。それそのもの。だからそれを表現するために、あらゆる迂回路を辿り、物語を書いていきます。けれども、言葉のプラス1次元にあるそれそのものは、無限に言葉の軸をずらしていっても、決して表現しきることはできません。だけれどもそれは断念でも諦念でも疲労でも絶望でもなく、だからこそそれは、楽しいものです。
神秘とか奇跡とか、そういう言葉を簡単に使うひとが嫌いです。キーボードに手を置いたときの姿勢。出涸らしのお茶を淹れるときの手つき。足下の蟻を避けるときのよろめき具合。そこに顕れている祈り、そこから顕れる奇跡、それは、美しいことでも正しいことでも善いことでもありません。あまりに巨大で寂しくなるほどどうしようもないぼくらの現実で、それらは単に、それそのものとしてそこにあるものです。悪夢を見て目が覚めて、普段は40bpmの脈拍数が軽く150bpmを超えるとき、やはりそこには、それそのものとしての祈りと奇跡が顕れています。その祈りと奇跡とは別のところにある空白を言葉で埋め、そうではないということでのみ、また新たな一歩を標します。その足跡がどこかへ向かっているものではないとしても、それはそれで、どうでも良いことです。
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言葉を使っているにもかかわらず、そうして、ぼくは自分なりに自分の言葉使いに誇りを持っているにもかかわらず、ほとんどの場合、何を言っているのか分からないと言われます。まあ、それはそれで良いかな、と思うのです。諦めということではなく、まったくそうではなく、伝わることであるのなら、最初から伝える必要などないと思うからです。相棒にはいつも、他人をひどく怖がるきみがどうしてコミュニケーションについて研究しているの、と訊かれます。それもきっと同じなのです。
できることはやる必要はありません。そしてできないことは、努力や運では、所詮できやしません。見えるものは見る必要がありません。見えないものは、けれど決して見えません。聴こえるもの、聴こえないもの。語れること、語れないもの。
訳の分からないその全体。何だか、少しばかり、楽しくなりませんか? ぼくは何だか、それが楽しいといっている滑稽で愚かな自分の姿そのものが、楽しいのです。