明るい話を書こうと思い、もうタイトルから失敗しているのですが、けれどもいちばん暗いところから始めればあとは明るくなるしかないわけです。まあ厳密に考えればそんなことは全然ないのですが、人生なんて厳密性のかけらもないぐやぐやのほにゃほにゃです。話はぐんぐん明るくなっていくのです。そうだ。もみあげの話をしましょう。言いたいことはもうタイトルで言ってしまったので、あとはもみあげです。
最初の大学に通っているころからでしょうか、ぼくはずっと自分で髪を切っていたのです。だって一回髪を切るだけで3,000円とかですよ。ハードカバーの本が1冊買えてしまいます。それで、何故かは分からないのですが、もみあげってものを、こう、用語が分からないのですが(人生分からないことばかりです)、とにかく切り落としてしまっていたのですね。切り落とすって、生々しいけれど。ぼたっ。改めて思えば、YMOの影響だったのでしょうか。テクノカット。いやそれはないか。そういえば、いまはもうYMOはまったく聴かなくなってしまいましたが、昔は好きだったのです。BGMとか良いアルバムですね。YMOではありませんがphilharmonyはいまでも稀に彼女と聴いたりします。名盤ですよね。とにかく、あれは20年くらい前でしょうか。YMOの「プロパガンダ」をどこかの小さな映画館でやっていて、相棒と、あと彼女の友人と3人で観にいった記憶があります。これ本当の記憶かな。まあいいや。立ち見まで出るくらいの混みぐあいで、田んぼしか見たことがなかったぼくは、都会人の生活っていうのはまあ凄いもんだね、などと思いつつ、暗く狭いなかでときおり彼女と肘が触れたりして、映像よりもそっちのほうが気になってどきどきしたのをよく覚えています。うん、これやっぱり偽の記憶だ。
話を戻せば、もみあげです。そんな感じでずっともみあげのない人生を過ごしていたのですが、最近、ふたたび床屋さんで切ってもらうようになったのです。穴の開いたジーンズに登山靴、洗いざらしのYシャツで会社に行っていると、世間様の目が厳しい。まして髪まで自分で切ったざんばら髪だと、これはもう不審者です。蔑むような他人様の目に、何だか新しい世界が拓けてきます。それにしても「せけんさま」とか「ひとさま」って、何だか嫌な言葉ですね。あすほう! と思うのです。
それで、床屋さんに行きますと、毎回、「もみあげありませんね、あなたもみあげありませんね、どうするつもりですか、これどう責任とりますか」と言われるのです。普段、ぼくは徹底的にぼんやり過ごしているので、そう詰問されても自動応答システムが「あっあっあっ、自然な感じで」などと、適当な相槌を打ってやりすごしていました。けれども、ある日、たまたま覚醒していたとき、「ああ、もみあげがないというのはこの世界ではおかしなことなんだ、生きている資格がないことなんだ」と気づきました。ぼくはこれから、世間様にも他人様にも恥じることのない髪形で生きていくことにしました。あすほう。
でも、もみあげって、伸びない(生えない?)ものですね。なかなか、普通の感じになりません。普通って、何でしょう。糞のようなものであることは確かです。いま思ったのですが、糞と翼って似ていますね。糞のようなもみあげを伸ばしやがてそれが翼となり、ぼくは夜のなか独り飛び立ち、
ああ、つらい、つらい。僕はもうもみあげを伸ばさないで餓えて死のう。いやその前にもう床屋が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。
そう思うのです。でも不思議なことに、右側のもみあげだけは元気に伸びる(生える?)んですね、これが。でもって左がぜんぜん育たない。右のもみあげだけが伸び地に垂れ地に栄え、まるで傾奇者です。世間様の目は相変わらず厳しくゴミを見るようで、知らない世界がどんどん拓けていきます。拓けた世界を満たすまで、産めよ、増やせよ、地に栄えよと、神のようにもみあげに呼びかけるのです。
正直何を書いているのかさっぱり分かりませんが、暗い話を書くの禁止命令は、まだしばらく続くのです。