縁側でぼんやり、地を這う虫を眺めている、いつか。

下働きをしている、とある学会の委員会が毎月あるのですが、終わると、大抵、ぼくらは近くの中華料理屋さんに行きます。夕飯を食べながら、ああだこうだという先生方のお話を聴いて、にこにこして、紹興酒を飲み、解散をします。先日、その席でとある先生に、ぼくの最近の論文について、いままであまり読んだことがないタイプの論文だね、と、これは褒める感じでも悪く言う感じでもなく、純粋に困惑しているふうに言われました。

たぶん、ぼくは研究者には向いていないのです。

1曲の音楽を聴いて、ぼくらは感動したり涙を流したり考えたり生きようと思ったりします。ぼくは、ぼくなりのかたちで、もう二十年近くに渡り、ただひとつのことを表現しようとしてきました。ここ十年は、それをアカデミズムのなかでやってみようと試行錯誤をしてきました。けれども、その結果書き上げたひとつの論文(もちろん、書いてきた論文はひとつではありませんが)で、いったいどれだけの人びとに触れることができたのかといえば、これはちょっと、愕然とするよりほかはありません。

そして、いまだに、ぼくは自分が言いたいことを伝えられないでいます。世界には救いも希望もなく、生きるということは恐れと痛みと悲しみの連続であり、にもかかわらずそのなかにしかぼくらは存在せず、その恐れと痛みと悲しみのなかにこそぼくときみのつながりがあり、存在のよろこびがある。そんなことさえ、ぼくは表現できていないようです。

何だか奇妙な論文だよねといわれ、それはそうだと思うのです。なぜなら、最初から、ぼくは論文などを書いてはいないからです。論文の書き方など、実は、何も知りません。実は、書きたいとも、思っていません。

研究の世界でつきあうひとびとは、ぼくのプログラミングの才能(嘘をつくことを除けば、それはほとんど唯一のぼくの才能です)のことを、何も知りません。仕事の世界でつきあうひとびとは、ぼくの研究のことを何も知りません。それは、いうまでもなく誰が悪いのでもなく、このぼく自身が、どこにも属していない糞野郎であるからにほかなりません。

明日も普通に会社です。にもかかわらず、あるいはだからこそ、眠ることができません。可笑しな足し算をして、自分の身体を宥めます。あれは昨日だか一昨日だか、駅のホームで、小さな小さなトカゲが、ぐるぐるぐるぐる、回っていました。誰かに踏まれるしかなさそうなそのトカゲを掬いあげ、線路の逆側の土手に放り投げます。近くを歩いていた女の子が、薄気味悪そうにぼくを遠回りにしていきます。

ぼくが書きたいのは、そういうことの全体なんですよ、と、ぼくはネットのなかに、独り言をそっと、送りこみます。ほんの少しの穏やかな眠気が、どこからか送り返されてきます。

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