よっちらさ


というわけで、Kindle Fire HDを買いました。下働きをしている学会で、いま学会誌を電子ジャーナル化しようとしているのですが、せっかくだからこういったデバイスでも無理なく読めるようなデザインにしようと思ったのです。別にamazonには何の義理もないですし、プライバシーとか考えると気味が悪いのですが、まあ、値段的にもこのくらいなら仕方がないという感じです。というより、個人情報をダダ漏れにすることに対して自らお金を払うということ自体が、ほんとうはそもそもおかしいんですよね。でも、最近はメディア論も意識しているので、そういったおかしさも含めて、けっこう自分の研究に役立ったりもするのです。実証主義! でも、これだって研究の一環なんだよう、と相棒にいっても、またムダ金使いやがって、みたいな目をされるのです。研究は、孤独です。

最近は風邪のような症状が長く続いてるので、マスクをすることが多いのです。いままではマスクなんてすることもあまりなかったのですが、彼女はけっこうマスクをするほうで、そうすると、ふたりでマスクをした顔を突き合わせたりすると、何となく面白いですね。なめとこ山の熊のことなら面白い。しかしこの、マスクというのは、眼鏡が曇るものです。ぼくの地元は車のブレーキは踏まない、みたいな変な宗教の信者が多いので、曇るのはとても危険です。そこで、どうすれば曇らないのか、さまざまに研究をしています。最初から顔にぴったりしてくれれば問題ないのですが、なかなか、そうはいきません。強く息を吐き出したり、横に吹いてみたり、いろいろしたのですが、やはりダメです。どうしても上に息が漏れて、眼鏡が曇る。そこで、そうだ、マスクの中で舌を突きだして高速回転をさせたら、湿った空気がこう何か攪乱? とかされて、どうにかなるんじゃない? などと適当なことを思いつきました。ですので、仕事中ですが、早速やってみました。ぐるんぐるん。ぐるんぐるんぐるん。何だかひんやりするな、オレ天才だな、などと思っていると、隣の席の上司がぼくを凝視しています。マスクの脇が捲れ、天才的な舌捌きが丸見えだったのです。へへへ。ぼくはちょっと危ないひとのような顔をします。よくいますよね、ナイフを舐めたりする、登場して1分でやられる下っ端。あんな感じで、エアーナイフです。上司はまじまじとぼくを凝視しています。

今朝は、頭痛と吐き気で、しばらく起き上がれませんでした。枕元のマグに残っている白湯で薬を飲み、また布団に潜りこみます。数か月前から、少しでも頭痛薬の量を減らそうと思い、飲んだ薬のPTPシートを保存しておくことにしたのです。その量に自分でびっくりすれば、薬の量も自ずと減るであろう、という感じですね。けれども、いま、大きめの封筒一杯にじゃらじゃら溜まっているのですが、ここまでくると、少しくらい飲もうがどうしようが、全体量に与える変化というのはほとんど視認できなくなってきます。意味があるのでしょうか、などと自問自答しつつ、既にバザーで売れば200円くらいなら誰か買ってくれるのではないか、というくらいに育ちました。この方法は、どうもダメなようです。頭痛が引かないまま、ぼんやり、写真を撮ったりして、午前中を過ごしました。

ぼくは、たぶん正直にお話をすると、みんさんが呆れるのを通り越して軽蔑をするほど、生活能力のない人間です。いえ、家事であれば、やらせてみると、なかなかのものです。最近はめっきり体調を崩しているのであまりできませんが、掃除をさせれば手早く丁寧ですし、料理だって手を抜きません。先日、相棒に言われてきんぴらごぼうを作ったのですが(いや、味付けは彼女がしたな)、ニンジンとごぼうの丁寧な細かい切り具合ときたら、ちょっと病的なくらいです。だけれども、生活って、そういうことではないですよね。いやそういうこともあるけれど、それだけではない。人間として――というより、「生活人」として当たり前のことが、ぼくにはまったくできません。10年後の自分どころか、5年後の自分でさえ、まだ辻褄合わせと嘘で、この世界の片隅に居場所をこっそり確保できているかどうか、まったく自信はないのです。

会社に行くとき、電車のなかで読む本が決まらないと、ほんとうに、家から出たくないのです。朝、うじうじ考え続け、けっきょく決めることができず、ふと部屋を眺めると、父の本棚に、講談社文芸文庫の『鳴るは風鈴』(木山捷平)がありました。仕方なくそれを読むことにしたのですが、これがなかなかに良かったのです。最初の、太宰の桜桃忌にまつわる話も良かったのですが、作品とは別に、筆者が亡くなったあとにその結婚相手が書いたあとがきがすばらしかった。ちょっと引用してみましょう。

坂の道を老婆がそろりそろりのぼっている影があります。この影は九十の坂を越えた現実の私の姿です。
長い間私は捷平の影を見つめて生きていました。いろいろな文学的なことの影ではありません。日常の生活の影です。かんしゃく持ちの捷平のうしろにいて、ほんとうに人間として影の人生でした。この影をひきずって生きて、今は自分の影を生きています。おぼつかなく力なく、ともかく生きています。
長い間貧乏ぐらしの私達をいろんな方が救ってくださいました。私は合掌しています。あとずさりするたびに両手でしっかりつかんで引っ張りあげていただきました。それが私達の人生でありました。ご恩をありがたく思います。人間ぼけても心の中に形にしてしっかり埋めこんで、忘れてはならないものがご恩です。
今よい知恵も工夫もありませんが、ずるりずるりあとずさりしないよう、ころばないよう必死でそろりそろり坂道をのぼっています。(「著者に代わって読者へ あとがき」木山みさを『鳴るは風鈴』木山捷平、講談社文芸文庫、2001、pp262-265より)

よっちらさ! と坂道を登り続けること。なかなか、大変です。けれどもまあ、ぼくのなかに、つねにどうしようもなく楽天的なぼくが居る限り、どうにかなるさ、と、また別のぼくもそう感じたりするのです。

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