帰巣本能

ある新聞を取っているのだけれど、この新聞の美術欄がほんとうに嫌だ。何が嫌かというと、前にも書いたけれど、「シュルレアリスム」のことを「シュールレアリスム」などと書いている美術担当記者の無知無教養ぶりのことだ。ほんとうにこれ、美術を、それに関わってきた何人もの人びとのその歴史を、多少なりとも尊ぶ気持ちのある記者が書いているのだろうか。最近はもう目に触れるのも嫌なので、美術の特集がある曜日はその頁を開かないようにしている。こういう、言葉に対するいい加減さというのがほんとうに嫌だ。いやもちろんひとのことは言えない。ここでだってずいぶん誤字脱字があるし、誤った用法で言葉を用いていることも多々あるだろう。だけれど少なくとも自分が好きなものに対しては敬意を払いたい。

と、どうでも良いことを書くのは、このように書くことによって、「シュールレアリスム」などという言葉に対する違和感を少しでも伝えたいからだ。考えてみれば、いま(といってもあとどれくらいの間かは分からないけれど)ぼくが持っている表現方法のうち、いちばんひとの目に触れやすいのは論文なわけで、そうであれば「シュルレアリスム」をタイトルに冠したものを書いてみる、というのは良い考えかもしれない。美術史が専門、などということではまったくないので、それこそ専門の研究者に対して失礼になるようなものではどうしようもない。ただ、どのみちだいぶ準備は必要だけれど、自分の専門からのアプローチならいくらでも考えられるような気もする。資料も、大学生時代(早20年以上の昔!)から集めてきたものが多少はある。

昨日はとある学会の研究大会に参加してきた。何人かひさしぶりに会えた人たちもいたのでそれは良かったのだけれど、先週から体調を崩していて、帰ってからそれが悪化した。きょうは一日眠っていて、まだ少し身体がだるい。ともかく、その学会はだいぶ灰色だった。何かの比喩ではなく、会場全体の物理的な色合いが。あとで他のひとに訊ねたところ、やはり学会としてはだいぶ特殊で、あれが研究者一般の姿であるとは思わないでほしいとのことだった。同じようなことは別のひとにも言われたので、やはりそれなりに特殊なジャンルなのかもしれない。ぼくもこの学会に参加するのは2年ぶりくらいで、こんな感じだったっけかなと思いつつ、前の大会で見かけた名前も知らない研究者たちがまったく同じ髪型と服装でうろうろしていたので、それはそれで良いことだと思った。

とはいえ、やはり、こういう集団のなかに居ると(批判的な意味ではなく)自分が居るべき場所ではないなあ、というように感じる。もちろんそれは、自分が居るべきもっと良い場所があるとか、俺はハイグレードなステージにふさわしい人間だぜとか、そんなことではない。単に、在るべき場所というだけのこと。ぼくらは誰でも、本来であれば帰巣本能のようなものを持っている。それは過去の特定の場所、懐かしい場所とかではまったくない。帰ってみたら川の流れには逆らわなくてはならないし、クマには食べられるし、あげくに産卵したら自分は死ぬ、そんなのが帰巣本能であるとすれば、それを良いと思うひともいるだろうし、そうでないひともいるだろう。あまり、価値の話をしても仕方がない。いずれにせよ、放っておいても大局的には、ぼくらはみな最後には帰るべき場所に帰ることになる。

本能というのはいい加減な言葉だ。だけれども、これは嫌だなとか、これは分かるなとか、理屈で説明してもしようがないようなところで、ぼくらはけっこう、自分の進路を決めていく。もちろん、進みたい方向にばかり行けるということはない。むしろ、行きたいと思う方向にはまず進めないというのが大半だろう。無理やり行けば社会から落伍者、違反者の烙印をおされ、現実的に食べていく道を絶たれて野垂れ死ぬ。それでも、やはりひかれているのが分かる方向がある。地磁気のようなもの。北極星のようなもの。偏西風のようなもの。ただしそれは生物学的な機能ではなく、人間だけが持てる(それは人間の優位性ではない)、世界と言語のあわいに生まれたある種の狂気のようなものだ。それは誰にでも棲みついている。

その研究大会では、別の学会で知り合いの先生に、ぼくがこの前書いた論文について尋ねられた。何を書いているのかさっぱり分からないけれど、何やら面白そうな感じは受けるので、もう少し理解したい、そのために何かもう少し入り込みやすいようなちょうど良い文献はないか、とのことだった。それはそれでありがたい話で、少し考えてメールでお知らせしますよ、とお答えしたのだけれど、実はどうも思いつかない。もちろん方法論的なところやその理論的なベースというところであれば文献を示せるけれど、そんなことは向こうの方がぼくよりもはるかに理解している。ちょっと困った。いっそのこと、それを書きながら聴いていた音楽や、同時進行で読んでいたSF小説のことでも紹介しようかと思っている。ヘイヘイ、ダンシンダンシン!

今回の論文は意外にいろいろなところで面白かったという感想をもらえて、それは素直に嬉しい。それが職には決して結びつかないのは問題で、その問題具合は年々シビアさを増している。喰っていけなければ野垂れ死にで、それは抽象的な話ではなく、リアルに慎重に避けなければならない危険だ。

それでもまあ、帰巣本能だ。それはそれで、しかたがない。

ドリームピッチャー/キュウカイウラワンナウト

9月の一ヶ月間で、著者校正や学会発表用のレジュメや投稿論文や同人誌の原稿やらで、何だかんだで十万文字を超える原稿を書き、手を入れ、部屋のなかで踊りながら音読して、音読しながら踊り、踊り、踊り、踊っていた。さすがに少し空っぽになり、しばらくぼんやりしていた。いまはまた幾冊かの本を読み始めた。入力、処理、出力。繰り返して繰り返して、やがて寿命を迎える。存在するものはみなすべて同じだ。論文を書きながら聴いていたのは主にiLLで、そのリズムを織り込んでいたからきっと査読で落ちるだろう。どのみちぼくにはリズム感も音感もない。

日曜日にさ、と彼女に言われて、ああ、あの話かな、と思ったけれどそうではなく、ブログを書きなよ、といわれる。明るい話を。まかせてほしい、明るい話ならいくらでもある。

・・・何もなかった。特に苦しいことも悲しいことも楽しいことも嬉しいこともない。同人誌の原稿はなかなか良く書けた気がするので、機会があれば読んでいただければ幸い。これほど特徴のない文体もそうはないので、もしどこかで手に取ることがあれば、きっと分かると思う。論文も、いや論文にもなっていないかもしれないけれど、そうだこれ論文になっていないや。でも、けっこう面白いものが書けたと思う。これも、もしどこかの本屋できみの目に触れることがあれば、きっと伝わると思う。まったく同じリズム。まったく同じ文体。無色透明無害無個性無味無臭。でも、そこに誇りがあったりする。

仕事では、ここ数週間ずっとパルス出力のロジックを組んでいる。毎日何十万発、何百万発というパルスを流し、数を合わせる。もともと細かな計算に向いている性格ではないので、こういうのはなかなかに苦痛だ。だからもう聖霊が降りてくるのを待つ。ペンテコステ。頭の中に組んだロジックを、仮想のパルスの奔流が流れ落ちていく。帰りの電車のなかで論文について考える。切り替えがうまくいかず、口からパルスが流れ出す。家に帰って音楽を聴きながら踊りながらパルスの粒子を髪の毛から振り落とし、エアバラライカを狂ったようにかき鳴らしつつ論文を書く。こんな生活を続けるのはもう不可能に近いし、何も無理をしてまで続けるようなことでもない。

書くことが好きだ。他に、特に好きなことはない。いや、ただ生きているだけでも、すべてが楽しい。だから、別に、特に、何かが必要なわけではない。だからといって空っぽなわけではない。すべての瞬間瞬間がある。日々を生きること。平凡な奇跡の連続。

彼女が怪我をした動物を見つけて連れて帰ってきて、手当をして、またすぐに放した。元気になってくれれば良いけれど、ある一線を超えたら、もうそれはぼくらの手を離れてしまったことだ。彼女を見ていると、そういう、自然なバランスの良さがある。

そういうとき、ぼくは餌やりだけをみても、ものの役に立たない。だからといって、自分の性格に落ちこんだりなんてことはない。昔から、身体も性格も、所詮は乗り物だと思っていた。できが良かろうが悪かろうが、とにかくこの世界を走る限りにおいて、それに乗った何か大きな魂が喜んでいる。それはぼくではないけれど、でもぼくが感じることの根本にある何かだ。それはきっと真の意味で楽しいということで、真の意味で明るい話で、でもこの生活自体がどうということではない。

明日はとある大学の学会に少しだけ顔を出さなければならない。どう考えても睡眠時間が足りないが、眠れないので仕方がない。仕方がないことは、それは、もうほんとうに仕方がない。ぼくらはそれに折りあっていくしかない。それでも、最近、あまりにひどい悪夢を見なくなった。誕生日に彼女が手作りのドリームキャッチャーをくれた。きっとそれのおかげだろう。

ドリームキャッチャーにとらえられた悪夢はどこへ行くのかな、と彼女に訊ねた。分解されるんだよ、と彼女は答えた。そうなのかな、何だかあまりに自然科学。もっとこう、物語があるんじゃないかな、とも一瞬思ったけれど、案外、分解というのが、いちばん自然なことなのかもしれない。

カバの殺意とトマトの乗り心地

ひさびさに最悪に近い悪夢を見た。体感時間でたかだか十数秒の、だけれど、正気を疑われるような悪夢。曖昧にいえば、自分の病巣だらけの体内が空一杯に拡がっていた。分かったような顔をした連中は、けれどぼくがどんな夢を見たかをストレートに語ると、まるでぼくが異常であるかのような顔をする。まあそんなことはどうでも良い。悪夢を見た後、しばらく布団のなかでもぞもぞとしてから、いろいろ諦めもう一度眠った。するとぼくはサバンナに居て、一頭のカバが、何故かぼくを殺すつもりで迫ってきている。その目つきにはほんものの殺意がある。背中を見せないようにじぐざぐに後ずさりしつつ、けれどもカバの素早い追跡に、逃げ切る可能性が0であることをどうしようもなく理解する。こういう夢は、良いリハビリになる。いや、もちろん、ぼくだってカバに殺されたくはない。それでも、あの殺意に満ちた目つきは、現実には目にしたくなどないけれど、理解はできる。悪夢は悪夢でも、それはこの世界と地続きの悪夢で、だからどことなくユーモラスでもある。

お盆休みは、結局、まともに休めなかった。あとからあとから下らない学会仕事が積っていく。せいぜい、ぼんぼりを出したくらいしか、お盆らしいこともしなかった。そういえば、彼女は牛と馬を、茄子と胡瓜ではなくトマトと胡瓜で作ったらしい。何だかハイカラで、真ん丸で真っ赤な牛のことを思い浮かべると、とても微笑ましい。ご先祖様も、さぞや奇妙な気持ちで笑っていたことだろう。

頭痛が酷く、大量の保冷剤で身体を冷やす。しっかり冷凍保存ができるので、気分はもうレーニン。ぼくもそろそろレーニン廟をつくらなければならない。この前、音楽をやっている(音楽をやっている、というのもどこか乱暴な言い方だけれど)研究仲間が、ぼくの廟の前で音楽を捧げるよと言ってくれたので、だいぶ安心だ。動脈に保冷剤をあてながら、真暗ななか、その音楽を想像しながら天井を見上げる。

彼女が、どこからかお灸の話を聴いてきて、たまたまその日薬局へ行く用事があり、ぼくらはお灸を買った。初心者用の、いちばん弱いやつ。火をつけて、背中に乗せる。弱いだけあってほとんど何も感じないし、効いたのかどうかは分からない。けれども、何だか妙に面白い。子どものころから悪夢を見る才だけには恵まれていたけれど、考えてみれば、その当時は、こんな年になるまで生き延びて、背中にお灸を据えることになるなんて考えもしなかった。

ひとに話せば頭がどうかしたのかと思われるような奇想天外な悪夢でも、ぼくらが生きている日常生活の奇天烈さに比べれば、まあ、それほど大したものでもないのかもしれない。

猿

次世代ホラームービー

お盆休みなのに、頭痛と吐き気でまる一日を潰しました。癪なので、ブログを書きましょう。書くのです。頭がまったく働いていませんが、こういうときに書いた文章をあとで読み返してみると、意外に普段と変わらなかったりします。要するに、普段から頭を使っていないということですね。

* * *

大学で「情報社会が~」とか喋っていてしばしば感じるのは、学生さんたちの世代における、監視カメラに対する肯定感の強さです(否定感の強さではない)。正しい生活を送っている自分たちにとって、監視されることのデメリットはなく、むしろ悪いものからシステムが守ってくれるための心強い手段のひとつである、というのです。別段、それ自体はどうでも良いことです。監視社会は確かに怖ろしいものですが、既に、監視社会に対する直接的な批判自体はあまりに素朴で手遅れなものでしかありません。

これはあまり同意を得られないのですが、これからは、SNS、Lifelogと監視カメラ(といまぼくらが呼んでいるもの)が一体化したサービスが大きくなってくるでしょう。ああ、こういう、根拠のない怪しい話は楽しいなあ。

例えばどこかへお出かけしたとき、いまならiPhoneとかの内蔵カメラで写真を撮って、どこに行ったとか何を食べたとか誰と居たとかSNSに投稿するわけです。でも、スマートフォンで撮影できる写真は、基本、自画撮りか自分の観ている光景を別々に撮るしかありません(360°すべてを撮影するようなギミックもありますが、これも結局撮影者が中心にならざるを得ないという制限があります)。ぼくらがLifelogに望んでいるのは、この世界とこの世界のなかで生きているこのぼく、その双方が完全に統合されたものの永遠の記録ですから、自分の姿と自分の視界が分離した記録では不十分です。しかもその記録は、無意識レベルでなされなければなりません。わざわざスマートフォンを取り出して撮影アプリを立ち上げて取りたいものをフレームに入れて、などというのはあまりに自覚的で、意識のリソースを必要とします。

そこで、街中にはりめぐらされた監視カメラ網が役立ちます。とはいえ、それは現在よりもさらに密に配置され、高機能化された監視カメラ網です。それはサービスを提供する各企業によって、カバー率何%などと謳われるでしょう(ちょうど現在の携帯電話会社における人口カバー率のように)。そしてぼくらはそのサービスに加入し、GPSとRFIDでユーザ認証され、街中を歩くぼくら自身の姿の動画のアーカイブを手に入れることができます。プライバシー保護のため、非ユーザの姿にはモザイクがかけられるかもしれません。公開設定によっては、誰とでも、あるいはサービス利用者と、それとも友人のみと、自分の行動記録アーカイブを共有できます。自分が観た光景は、Google glass(そしてそれがさらに洗練されたウェアラブルデバイス)などによって記録されることになります。この動画もまた同様のサービス上で統合され、共有されるでしょう。すると、いかに密であれ固定点でしかない監視カメラだけではなく、路を往く同じサービスの利用者同士が互いに撮影し合った、撮影点がアクティブに変化する動画もまた、自らのLifelogとして利用されることになります。

こんなことに何の意味があるのかと思うのであれば、たぶん、あなたは「正常」です。けれども、「正常」であれば、そもそもブログもTwitterもFacebookもやりはしないでしょう。ぼくは、そういった世界に対して嫌悪感を抱くと同時に、それに惹かれる(恐らく人間にとって根源的な)欲求も十分に分かります。

そしてそうなったとき、もはやそこでは、パブリックとプライベート、デジタルと生、記録と記憶、そういった、いまぼくらが想定している(虚構としての)二元性など、まったく無意味なものになっています。それが、新しい現実のかたちです。

このようなサービスを実現するための技術は、既に目新しいものではまったくありません。法的云々な問題を表面的、形式的に引き起こしつつ、けれども必ずこのサービスは社会に浸透していきます。そしてやがて、そんなサービスがあることさえ(いまぼくらがGPSのことをさほど意識化しないままに暮らしているように)ぼくらは忘れ、忘れたままに日常生活としてそのなかを生きていくことになるでしょう。

* * *

さて、実はこんな話はどうでも良く、ぼくが書きたいのはブレア・ウィッチ・プロジェクトに対する怒りなのです。なぜ激しい頭痛と吐き気のなかでこんな下らないことを書いているのか自分でもよく分からないのですが、全身をつつむ悪寒のなかから発せられる言葉にこそ何らかの真理があるかもしれない。ないかもしれない。いやないですね。

お盆休みは特に楽しいイベントもなく、鬱々と過ごすわけです。それでは寂しいのでホラーDVDを観たりして独りでうひひ、とか笑って、おれの休日、超充実! などと何故かラップ調で叫んだりします。DVDは古本屋で買った安売りのやつ。それで、RECとかクローバー・フィールドとかダイアリー・オブ・ザ・デッドとか、そんなのを観たわけです。観すぎぃ!

で、観ていて、あまりの説得力のなさに発狂しそうになるのですが、そんな状況でビデオカメラ構えて撮影するわけないだろ! みたいなシーンが多すぎるのです。無論、物語はどんな虚構であってもかまわないのですが、虚構には虚構なりの必然性や正当性がなければなりません。あたりまえですね。何だかそこのところがあまりになおざりにされています。動画を撮影している、という自覚的な行為に対する動機づけがなさすぎる。その不整合さにばかり目が行ってしまって、もはやゾンビやモンスターが出てくると「邪魔するな、いま考えてんだよ!」と訳の分からない逆切れをしたりしてしまいます。YouTubeで怖い系の動画を観ても似たようなもののオンパレードで、もういやんなっちゃう。何かね、低コストでハイリターンを目指すぜ! みたいな、製作者のさもしい根性が透けて見えてしまうのです。

で、ブレアウィッチこそ、ホラー映画にこういう潮流をもたらした害悪の根源だとぼくは思うのです。とかいって、実は本家(だと勝手に思っている)ブレアウィッチを観たことがないので、これもう完全にいちゃもんですね。

* * *

さて、いつも変なことばかり書いている私ですが、いよいよほんとうに何を書いているのか分からなくなってきました。しかしそうではありません。きちんと筋は繋がっています。ブレアウィッチ的なものに対する違和感というのは、撮影方法が「自覚的に撮影しなければならない」ハンディカムという数十年昔からある旧世代のテクノロジーを使うことから生まれています。そうであるのなら、記録することに対する自覚的、能動的コストを限りなく下げていく、先に書いたようなサービスが一般化した社会のなかで撮られるホラー映画であれば、その違和感はなくなるのではないでしょうか。ただ、それは単に超越的な視点によって描かれる旧来の技法に戻る、ということではありません。消失するのはあくまで「撮影すること」に対する自覚性であって、「撮影されていること」はつねに最優先事項としてぼくらのなかにあります。そうでなければ、ぼくらはこの肥大化した承認欲求を満たすことなどできないからです。

けれども、放っておけば、そんな撮影記録など、無数の動画アーカイブの海に消えてしまってお終いです。ですから結果はどうであれ(大抵はうまくいかないでしょう)、ぼくらはその大海に沈まないように、突拍子もない行動をとり続けるしかありません。そうであれば、ゾンビとの対決はもってこいのシチュエーションとなるでしょう。

というわけで、次世代のホラームービーは、
撮影することを意識していない、けれど撮影されていることは呼吸のように必須である人類が、ただ承認欲求を満たすためだけに、常軌を逸した行動を以てゾンビやモンスターと対峙する
ようなものになるのです。

あまりに無茶苦茶な内容ですが、これもすべて頭痛のせいです。それではみなさんさようなら。

透明な影

友人に誘われ、山に登った。といっても、小学生でも走って登れるような低い山だ。余裕っすよ! とふんふん言いながら登り、途中で足を攣った。しばらく蹲ってうんうん唸り、あとはよちよちと登って下りた。思った以上に身体がなまっている。それでも、這いつくばってキノコを撮ったりしていると、何だかひどく平穏な気持ちになる。キノコがたくさん生えていた。イモムシもたくさんのたくっていた。山にはいろいろな音が満ちているし、いろいろな匂いや光があふれている。とはいえ、もちろん、そこはぼくが生きている場所ではないから、身勝手で重みのない意見であることは間違いない。せいぜい安全に余暇を楽しんで、麓の温泉でやれやれ、なんていいつつ汗を流して、風呂上りにトマトジュースを飲んでうぃーっ! とか叫んでお終いでしかない。

一日に二回電車に乗るのにはもう耐えられないので(普段は会社の行き帰りで乗っているけれど、たまのオフくらいはわがままをいいたい)、帰りは麓の宿に泊まりましょうよ、と友人に伝えたら、ちょっと病的だね、と素で返されつつも同意を得られたので、宿を予約した。夜には別の友人も泊まりにだけ合流して、ひさしぶりに気鬱の発作もなく過ごすことができた。

いうまでもなく、山は怖い。それは物理的な危険でもあるし、超越的なものへの畏怖でもある。街は、自分が生きる場所ではあるけれど、やはりおっかない。それは物理的な危険に対するおっかなさでもあるし、訳の分からない「人間」やシステムに対するおっかなさでもある。言葉で表してしまうとそれは山に対する怖さと何が違うのか、ということになるけれど、やはりそれは、まったく別のものだ。ぼくにとって山の怖さは、分からないことが分かる怖さで、街の怖さは、分かることが分からない怖さだ。

木々のなかを歩いていると、そこには正体不明のナニモノかの影が、時折ちらちらと視界を過る。それは影なのだけれど、でも、透明な影だ。街を歩いていると、目の前をあまりにも生々しく物事が行き交う。それはどぎつく着色された影だ。だけれども、それがぼくの生きる場で、それがぼくの生のリアリティだ。そことは別の場所に生きることをただ言葉だけで語る連中を、ぼくは軽蔑する。

会社に行く電車を待っているとき、ふと腕に奇妙な感触を覚え、見れば、そこにはしゃくとりむしが居た。どのみち不良社員で(そもそも社員ですらないが)毎朝重役出勤どころか大名出勤レベル。腕を怪しく振りながらしゃくとりむしに無限軌道を描かせつつ、途中の駅で降りて草叢に放した。

間違いなくぼく自身も化物のような何かでしかない。それでも、道を歩いていると、ふとしたところに穴が開いていて、その向こうに、時折透明な影が見えたりする。

intermission

彼女に何か楽しいことを書くよ、と言ったら、書けるのかな? 書けるのかな? と挑発するようにいわれた。ぼくは挑発に乗りやすい性格だ。楽しい話などいくらでも書けるさ、と答え、フィールドワークに行った彼女が戻ってくるまでに楽しい話を書こうと思ったが、頭痛でぶっ倒れているあいだにもうこんな時間になってしまった。最近、ひたすら良く眠る。起きていると頭痛が激しくなる一方だけれど、眠っているとだいぶましで、それでも頭が痛くて目が覚めたりする。大丈夫、ぼくは楽しい話を書ける。ちょっと待っていてくれれば、いくらでも楽しかった思い出が皮膚の下から湧いて出てくる。アル中の妄想のようだ。

非常勤講師をしている大学から連絡が来て、来年から講義名が変わるという。これでますます首を切られやすくなったが、でも、新しい講義名は嫌いではない。恐らく日本では他にないものなので、大学が求めているような温い講義のふりをしつつ、自分なりにアヴァンギャルドな講義にしていこうと思っている。アヴァンギャルドとか意味が分からないままに使うのがアヴァンギャルドっぽい。意味は分からないけれど。

非常勤講師というのは、けっこう、悪くない。喰っていかなくてはならないという点ではかなり問題ありだが、ぼくのように(自分ではそれほどでもないと思っているのだけれど、客観的にはそう判断するしかない)集団に属することが苦手な駄目人間にとって、気楽は気楽だ。もちろん、講義そのものは全力でやっている。それに、アカデミックな世界というのはほんとうに阿呆らしいもので、肩書がないと相手をしてもらえない。非常勤講師と言っておけば、まあ、その一角にこっそり忍びこんで壁に落書きをしてくるくらいのことはできる。

ただ、身分証明書と呼べるようなものがないのは辛い。運転免許証もなくパスポートの期限も切れてしまったので、いま職質を受ければかなり怪しい人物だ。もっとも、身分証明書などあったところで、ぼくが怪しいことに変わりはないのかもしれない。最近、人相が悪くなってきたのを感じる。

けれども、この前段ボールを買ったのだ。アマゾンで「フェローズ 703バンカーズBox A4ファイル用 黒 3枚パック 内箱 5段積重ね可能 対荷重30kg」というやつ(ちなみに、段ボール一杯に本を詰めるとだいたい30kgになるので、2段重ねしかできない)。山積みの本の埃を払い、ずんずん詰めていく。足りなくなったので追加注文をして、さらにずんずん詰める。再び足りなくなったので追加注文をして、日にち指定で配送を頼み、その日にベルが鳴ったので扉を開くとぼくにとっては望ましくない団体からの使いが居り、クラウドリーフさんは居ますか、と訊ねる。居ませんね、ええ居ませんとも、彼はインドに虎狩りに行って死にました、因果応報です南無阿弥陀仏と答えて扉を閉めて、まっとうな生活がしたいなあと神に祈る。とはいえ神はいないので、そのあとに届いた段ボールに再び本を詰める。ぼくの持ち物といえば、本と、あとは大量のクマのぬいぐるみくらいしかない。本さえ片づけてしまえば、ほんとうに驚くほどシンプルな生活だ。何だか自分の人生の後始末をつけているような気がしないでもないけれど、もちろんそれは諧謔で、本気ではない。まだまだ書きたいことはたくさんあるし、書きたいことがある限り、どれだけ卑怯な手段を使っても、きっと原稿を書いているだろう。

それでも、手持ちの段ボールをすべて使い切り、半分程度は本が片づいたあと、風呂に入りつつふと鏡を眺めると、いつもより少しだけ穏やかな表情をしている自分がいた。糞下らない学会仕事を睡眠時間を削りながら片づけ、それでも仕事が遅いと嫌味をいわれ、自分の部屋をみれば埃だらけになっていて、明らかに体調がおかしいけれど病院に行く時間もない。ひさしぶりに自分の部屋を整理して掃除機をかける。きれいになった部屋で、次に書こうと思っている論文の資料を読みながらお茶を飲む。たったそれだけのことで、少し、ましな人間になった気がする。

あまりひとには言わないけれど、他者が怖くて仕方のないぼくが講義に対しては心底好きだといえるのは、そのなかの一人か二人か、それともゼロ人でも良い、ともかく、昔ぼくがそうであったような誰かさんが居たとして、その子に、生き残る術を伝えたいからだ。それはマニュアルではないし、たぶん、言葉にできるものでもない。だから怪しげな動きと怪しげな語り口で、怪しげな講義をするしかない。けれども、そこには確かに何かがある。その他の生き残れる誰に通じなくても、それはかまわない。

毎日の食卓

ここ数か月、帰りの電車がいつも「××行き最終」とか、そんなふうになっている。よく働いている。他にやることがたくさんあるときに限って仕事も忙しくなる。けれども、こういった下らない忙しさがぼくのリアリティを支えているとも思う。彼女に会う時間が制約されるのは困ったものだけれど、それは残業で手に入る泡銭と気合と根性とストーカー紙一重の粘着気質でどうにかフォローする。そのほかのことは、基本、諦める。

それでも、先日、ひさしぶりに会社を早く上がり、八重洲ブックセンターに立ち寄った。最近は休日に東京に出るにしてもoazoの丸善に行くことが多かったので、ブックセンターはひさしぶりだ。oazoができる前は、三越前から歩いて丸善、明治屋、ブックセンターというのが散歩のお決まりルートだったけれど、どうしてだろうか、いまの日本橋丸善には、それほど魅力が感じられない。oazoの丸善だって似たようなものだけれど、結局、利便性を考えるとそちらになってしまう。明治屋も休業してしまった。

ともかく、八重洲ブックセンターだ。帰りに読む本が欲しかったので、一階の文学をうろうろした。昔とはやはりだいぶ本の並びが変わっている。海外SFの棚が縮小されたように感じる。幻想文学の棚にはバロウズがやけにたくさんある。ぼくが大学のころには、何だかちょっと格好をつけて(どう格好がついていたのかは知らないけれど)バロウズなんてよく読んだけれど、いま思えば、バロウズは空っぽで、文学的な価値などほとんどない。まあ、それはそれで、別に誰も困らないのだろう。

無駄なお金、ということでいえば、そもそもお金自体が無駄なものだ。高いハードカバーを買う気にならなかったのは、だから、その大きさと重さに耐え得るだけの魅力を持った本が見つからなかったからに過ぎない。心惹かれる本は、そもそも、既に持っているか読んだことがあるものばかりだ。結局、五階の文庫本のフロアに行き、村上春樹の東京何とかという短編集を買った。

村上春樹には興味がない。悪く言っているのではなく、単純に趣味ではないというだけだ。けれどいま参加している同人誌で村上春樹のある短編を読まなければならず、ぼくは意外にまじめなので、この機会に他の作品も読んでみようかと思った。内容は、やはり趣味ではなかった。ぼくにとってはバロウズ程度の意味しかなさそうだ。それでも、帰りの電車のなかをやりすごすには十分役立った。

外の世界は、まあ、だいたいにおいてハードすぎる。年をとるにつれて、それはどんどんきびしくなっていく。けれども彼女以外の誰に言っても、「きびしくなるね」というそのほんとうの意味は、伝わらない。

* * *

もうだいぶ前、彼女と、とあるホテルに泊まった。運よく部屋をグレードアップしてもらえ、ぼくらには分不相応な部屋に案内された。そこにはバルコニーのようなスペースがあり、こっそりふたりで頭を覗かせると、ロビーフロアを見下ろすことができる。広くて調度品も高級な部屋のなかも、自分たちの人生には何も関係がないという意味ではフィールドワーク的な面白さがあったけれど、その何もないバルコニーにこっそり隠れ、コンビニで買ったお菓子をもぐもぐもぞもぞと食べていると、何だか莫迦ばかしくも面白く、ふたりでくすくす笑っていた。

毎日の食卓

虫

龍神様