毎日がお祝いさ

今年最後の講義を無事に終えました。来年度から講義名が変わるのですが、そちらも引き続き担当させてもらえるとのこと。いままではずっと一限だったのが三限になるので、気持ち的にはだいぶ楽になります。早起きは苦手です。ともかくこの四年間(まだ今年度ということでは二回残っていますが)一度も遅刻せずに一限の講義をし続けたので、ものぐさなまけものの私にしてはずいぶんがんばったのではないかと思います。もっとも、学生からすれば、たまには講師が遅れてくるくらいの方が良い、ということもあるかもしれませんね。

だいぶ冬も深まってきて、彼女のフィールドワークも今年は冬仕舞いです。明日はいろいろ無事に終わったお祝いをしようね、と彼女に言います。何だか最近、会うたびにお祝いをしているね、と返されて、そういえばそうだなあと思いました。

人生はRPGではない。あたりまえですが、それにしては、こちらがレベルアップしていないにもかかわらず、現れる敵はどんどん強くなっていきます。これはまったく困りもの。それでもどうにかきょうを生き終え、そうしたら、それはやっぱりお祝いしなくてはなりません。

投稿していた論文は、めずらしくほとんど修正なしに査読が通りました。でも、それは一長一短で、いまの研究テーマが深まってきたということでもある一方で、慣れてきてしまった、ということでもあるかもしれません。最近は、まっとうな研究者からすれば少し眉を顰められそうなテーマやつながりのなかで何かをする、ということが増えてきているので、ここらでちょっとばかり道をずらしてみるか、という気もしています。どのみち臆病なのでそうそう簡単に道を外れることはできませんし、同時に、どのみち敵を作ってしまう性格なので放っておいても道から追い出されはするのでしょう。要するに、先はまったく分かりません。でも、何だか面白いなあと思うのです。

論文では顔の話をたまに書きます。レヴィナス。剥き出しの顔。別に関係がないのですが、顔を見られるのも顔を見るのも苦手です。ひとの顔、特に目を見ると、自分の目を抉られるような痛みを感じます。それは仮想の痛みなので、いっさいの媒介項なしに直接的な痛みとして脳に響き、発狂しそうになります。でも、所詮それは仮想の痛みでしかないので、自分の指で目を強く抑え、現実の痛みで上書きをします。

講義が終わると、いろいろな子が来ます。まったく話が分からないという子、出席少ないけれどどうしましょうという子。目を合わせると痛みが来るので、目をきょどきょどと逸らしつつ、息を荒げ(苦痛の予感を必死に抑えている)、あへあへ、と返事をします。こんな人間でも、それなりにこんな年になるまで生きている。そういう現実こそが、きっと彼女たちにとっていちばん役立つ知識になるのではないでしょうか。なりませんね。

講義では、Youtubeやドキュメンタリーや、ネット上の様々なデータを使って、現代におけるメディアの機能や特性を話します。でもまあ、やっぱり教室のなかだけじゃね、と思ったりもします。あれは数か月前だったでしょうか。どこかに行く彼女を送って、夜の羽田空港に行きました。ふたりで滑走路を見下ろすテラスに行きました。驚くほど短い間隔で、いつまでもいつまでも飛行機が離着陸を繰り返しています。ただそれだけの光景なのですが、ぼくが語る千の言葉のその千倍、ぼくらが観ていたあの光景は、直観を通してぼくらに巨大な何かを伝えてくれます。その巨大さとは、要するに、ぼくらが生きている現代それ自体の巨大さです。善悪などという下らない尺度を超えたその巨大さ。

だからさ、みんなで羽田へ夜景を観にいこうよ。講義を受けている女子大生たちにあへあへと声をかけ、職を失い、新聞に名前が載り、警察に捕まります。そんなことにならなかったので、やっぱり、無事に講義を終えたお祝いをしなくてはならないのです。

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