朋有り遠方より来る

今回は普段とは異なり、〝物語〟ではなくリアルのお話です。ぼくの数少ない研究仲間である上柿崇英さんが『メディオーム』の解説動画を作ってくださいました。そもそも誰かの単著の紹介、解説、解題、何でもよいですが、それを書くだけでも大変な労力になります。しかも自分の研究のためならともかく、別段、自分の得になるわけでもないのに多くの時間を割いてまでというのはなかなかありません。さらに動画までとなると、もはやこれはありがたいを超えて申し訳ないばかりです。

以下、前後編に別れていますが、ぼくの入り組んだ議論……というよりもどうもあまり共感を得られにくいらしい議論をとても簡潔かつ明快に紹介してくださっているので、ご覧いただけましたら幸いです。こういうの、ぼくはほんとうに苦手でして、自分の議論でさえ的確に最小構成で説明できません。だからまあ、この動画、実はぼく自身がいちばん助かるかもしれませんね。あと、同じチャンネル内にて上柿さんご自身の研究についての動画もありますので、それもぜひ。以下チャンネルへのリンク。

https://www.youtube.com/@kyojinnokata

生まれついてのいい加減な人間であるぼくとは異なり、上柿さんは自分自身でこの時代を、この世界を語れるような思想を作るぜということを真面目に真正面からやっている人です。これはいまの日本のアカデミズムではなかなか構造的に困難なことで、ぼくにはとてもできません。それでも、十年くらい前でしょうか、なぜか「単著をがんばって書こうの会」みたいな会合に誘ってもらい、そこから、当時の大阪府立大学(いまは大阪公立大学)の環境哲学・人間学研究所の客員研究員にもさせてもらいつつ、定期的に研究会をしたりしています。引きこもりなうえにアカデミズムにほとんど関心を失っているぼくが曲がりなりにも研究を続けているのは、こうやって声をかけてくれる研究仲間がいるからで、そういった意味でもぼくの博士課程時代は幸運に恵まれていたのだと改めて思います。ゼミを超えて、大学を超えて、数は少ないけれど得難い研究仲間を得ることができました。

せっかくなのでいくつかご紹介を。上柿さんのnote。環境哲学って何? というのがまとめられています。膨大な量ですが、面白いテーマが幾つもあります。

https://note.com/kyojinnokata

以下は同じく研究仲間である増田敬祐さんと上柿さんの双方の論考が載っている最新書籍(丸善出版)。「多様な未来世界を哲学で思考する新シリーズ「未来世界を哲学する」続々刊行!」とのことで、その記念すべき第一巻。第一章が上柿さん、最後の第四章が増田さんで、内容的にも対称性があり相補的で面白い。お勧めです。増田さんのタイトルは「環境にやさしい世界とは何か」。激しく皮肉が効いています。

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b306066.html

しかしこの企画、何で二人に声がかかって俺に声がかからないんだと嫉妬でギリギリしていたのですが、そもそも「若手・中堅の哲学思想研究者」からなる執筆陣ということで、そりゃぼくは無理です。いやまあ実力的にも業績的にも無理でしょと言われれば、それは……そうなんですが。でも正直うらやましいですね。嫉妬!

次は上柿さんの単著です。めちゃくちゃハードですが、類を見ない稀有な哲学書です。残念ながら版元の農林統計出版が廃業してしまっていますが、上柿さんのサイトに入手方法が書かれています。こちらもぜひぜひ。

https://schs.gendainingengaku.org/book1_detail.html

おお、何か今回は研究者っぽいですね。ついでに、「環境思想・教育研究」に載せた『〈自己完結社会〉の成立』の私の書評も。これは発行元の許可を得て公開しているものです。

https://note.com/kyojinnokata/n/n784b403b18f9

ぼく自身は、古い時代の文学によって形作られたヒューマニズムを魂の根っこ部分に刻み込んでいる人間です。そうして常に、存在しない神と戦わねばなどと訳の分からないことを言っている。そして何よりも、とにかくいい加減で冗談を言っていないと生きていけません。そういった点では、剛速球一本勝負みたいな上柿さんとはぜんぜん研究スタイルは異なっているのでしょう。それでも、近代的な自己概念に対する批判意識は深く共有していますし、何よりも人間が生きているあらゆる次元における有限性(そしてそれゆえにこそ生じる無限性)に対する感覚は、根本部分における共有項です。

上柿さんの『〈自己完結社会〉の成立』もぼくの『メディオーム』も、そういった議論のなかから生まれたひとつの成果です。とはいえそれはもう終わった第一期。いまは次の単著に向けてそれぞれ進み始めているところ。また何か良いものを作れればと願っています。あ、間違えました。良いものが出てきますので、ご期待ください。

それとは別の格好悪さを

ぼくはTSUNDOKUという言葉があまり好きではなくて、いえ本当のことを言えばものすごく嫌いで、漢字で書くのも嫌なのです。その行為、というかその状態が嫌なのではなく、その言葉を平気で使うような精神性が嫌なのです。本って、あっという間に絶版になってしまいますよね。ぼくは90年代から00年代にかけてずいぶん本を買いましたが、いろいろあってその多くを手放しました。いまようやく本を集める余裕が再び少しできてきたときに、じゃあそれらの本をまた手に入れられるかというとこれがひどく難しい。地味地味と集めてはいますが、もう手に入らないものもあるでしょう。ですので、これは欲しいなと思った本は出たときに買っておいた方が良い(実際、ぼくの持っている本には第一版第一刷が多くあります)。そしてそれが重なれば読むのが物理的に追いつかないということも当然生じ得る。それは間違いないのです。

そしてまた、本は大切に保存すればぼくよりもずっと長く生きるものです。だから本を持つということは単に自分が読むためだけではなく、次の時代に残していくための一時的な保管者になるというだけのことでもあります。実際に引き継げるかどうかはともかくとして、理念としては確かにそういった側面がある。

だから、購入した本をすべてすぐに読めなくても、あるいは読まなくても、それ自体が悪いというはずはありません。だけれど、それをその言葉で表現して正当化することに対しては、本読みの本分が直感的に「それはちょっと違うんじゃない?」と抗議の声を上げるのです。そこに何か美しくない居直りを感じ取ってしまう。それは仕方がないことではあるけれど誇るべきことではない。当たり前だけれど、本はやはり読まれなければ命が吹き込まれないものなのですから。本読みってそれができる人のことを言うのですから。

もちろん、ぼくの本棚にも、読んでいない本は幾冊かあります。例えば岩波文庫の『相対性理論』は、いつかすべての義理や雑務から解放されたらじっくり読もうと思っているのです。「時間、空間に対する相対性理論の考え方という、この理論の最も特徴的な部分は[・・・]代数の初歩さえ覚えていれば、誰にでもこの有名な論文の最も素晴らしい点を十分に〝鑑賞〟してもらえるものと確信する」と訳者/解説者の内山龍雄氏も書いていらっしゃるので、物理音痴のぼくでも時間をかければ概要を理解できるのではないかと楽しみにしているのです。あとはチャイティンの『知の限界』、ニュートンの『Opticks』、などなど。もう自分の論文とか関係なしにゆっくり読みたい。それがいまから楽しみです。ちなみにぼくはOpticksはこれを持っていて例によってこれも第一版ですが、ぼくは世俗塗れの人間なのでちょっと自慢してしまいます。とても美しい装幀。

なあんだ、それならこれだってTSUNDOKUじゃないの、と言われれば、けれどもやっぱり違うんだよなあという気がします。その本とぼくの関係は、少なくともその言葉によって示されるような関係性ではなく、物凄く個人的で固有なものであって、だから公言しようのないものです。少なくとも、それは本読みのスタイルを表す言葉ではない……。

本を読むって、何よりもまずコミュニケーションであるはずです。その著者が生きているのであれ死んでいるのであれ、読むときに、そこに対話が立ち現れる。そうでなければ意味なんてないですよね。そして、例えばぼくらが誰かをふと目にしたときに、面白そうだな、魅力的な人だなと思って、でもいまは忙しいとか気分ではないとかで、とりあえずその人を自分の家に連れて帰って、ぼくがその人と話す気になるまで家に居てもらう。そんなことはあり得ないわけです。

もちろん、本は人間そのものではありません。繰り返すけれど、だからTSUNDOKUという言葉で自らの行為を正当化したり居直ったり何故か誇らしげにさえ公言したりするのが嫌なだけで、それが指し示す行為自体を否定しているのではありません。でも最近、こういう居直り、開き直りの言葉が増えてきているような気がして、それがとても怖い。そもそも本を読むひとであれば、言葉に対して鋭敏であってほしい。いやあろうとしてほしい。ぼくだって全然だめですけれども、少なくともそうでありたいと願っています。だから余計に……。

暗い話になってしまった。本来のぼくはとにかくいい加減で能天気なのです。もうこれだけはぜひ知っておいていただきたい。

それはともかく後期の非常勤が始まったのですが、けっこうこれ、暗い話題が多い講義になります。技術者倫理なので、要は問題が起きたときにどうするかみたいなお話をせざるを得ないわけですね。しかも答えは出ない。もちろん、学問としての枠組みはあります。けれど或るXという事例に対して倫理的にはこう応答するのが正しいのじゃ、みたいなものはない。様ざまな枠組みを使ってそのXを多角的に眺めてみることはできるようになるかもしれないし、自分を客観視することも多少はできるようになるかもしれない。それはそれで非常に大切なことです。でも本質的に答えはない。ぼくはそう思います。答えがでないなかで悩み続けること、悩み続けることを引き受けること。

ぼくは体育会系って嫌いでして、もう筋肉嫌い。根性とか大嫌い。武道を学べば礼節を知ることが……、とか聞くと、いわゆる反吐状の物質が口状の生体器官から噴出するくらいです。んなもん人を殴る訓練をしなくても端から知っとるわい、と思う訳ですよ。そんなことを言いつつ筋トレはしているし、ぼくの行動原理は気合と根性が9割くらいを占めている。なので講義では「倫理って答えがない問題ばかりで疲れちゃうかもしれないけれど、普段から悩まないといざというときに悩むことさえできなくてびっくりするから、まあ筋トレだと思ってがんばろう!」とか言っている。どうなんでしょうねこれ。いや本当に筋肉とか根性って嫌いなんですけれども。

だけれど、こんな話をするときには、いつもティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳、文春文庫、1998)を思い出します。とても良い本なのでお勧めですが(とはいえ、ぼくは翻訳者は村上春樹ではなく中野圭二の方がよかった)、ここに印象深い挿話があるのです。

私は思うのだけれど、人は誰しもこう信じたがっているのだ。我々は道義上の緊急事態に直面すれば、きっぱりと勇猛果敢に、個人的損失や不面目などものともせずに、若き日に憧れた英雄のごとく行動するであろうと。[・・・]どうやら私は、勇気というものは遺産と同じように、限定された量だけを受け取るものだと思い込んでいたようだった。無駄遣いしないように倹約して取っておいて、その分の利息を積んでいけば、モラルの準備資産というのはどんどん増加していくし、それをある日必要になったときにさっと引き出せばいいのだと。それはまったく虫の良い理論だった。そのおかげで私は、勇気を必要とする煩雑でささやかな日常的行為をどんどんパスすることができた。そういう常習的卑怯さに対して、その理論は希望と赦免を与えてくれた。

『本当の戦争の話をしよう』「レイニー河で」、pp.71-72

『本当の戦争の話をしよう』は短編集でして、上の引用は「レイニー河で」からのもの。ベトナム戦争時に徴集され、良心的兵役拒否をするかどうか悩み続ける主人公。「私は卑怯者だった」というラストの言葉がほんとうに重い。これと「勇敢であること」は、勇気について考えるときぜひ読んでいただければと思う短編です。あとは同じくティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』(中野圭二訳、白水社、1990)、これも短編集ですが「賢く耐える」、「勇気とは一種の保持である」も強くお勧めです。

でも、まあそうなんですよね……。いま目の前にあることに相対できない人間が、応答できない人間が、その十倍、百倍のできごとに対して責任をとれるはずがない。難しいことだけれども……。そう、やっぱり難しいんです。答えもないし、正解を引き続けられる誰かさんも恐らくいない。だからといって居直るのも違う。それは絶対に違う。「スミス中隊長は自分は臆病者だということを、ためらいもなくその言葉を使って認めた」(「賢く耐える」p.176)。これは「レイニー河で」のラストにおける「私は卑怯者だった」とはまったく異なる、まさに居直りの言葉としての臆病さです。

そしてまた、ぼくらは誰だってそんな超人的にはなれないし、なれなくて良いのです。居直りとしてではなく。

そして臆病者でもなければ英雄でもない人々、恐怖のあまり大粒の汗を浮かし、失敗し、泣きべそをかき、ふたたびやりなおす人々――アルファ中隊の大多数の兵士たち――彼らでさえ、名誉を挽回するチャンスはあるかもしれない。格言のように簡単に断定されてしまうと、普通の人間は救われない。なんとかやってみたいのだけれど、すでに一度ならず死んだ人間、銃弾の下で恐怖におののき、死の行為を経験し、それを切り抜けてみごとに生き返った人間は救われない。降ってくる弾が瞬時止まる。スローモーションのように、弾丸の形がはっきり見え、光っている。音が消える。終わりかと思って、おそるおそる顔を上げて窺う。それから他の兵隊たちを見て、彼らの目の奥に、自分自身の深く陥没した腹を見てとる。歯医者の椅子の上でノヴォカインから醒めて行くように、恐怖がゆっくりと消える。次回はもっとちゃんとやるぞと、ほとんど唇まで動かして、約束する。そのこと自体が一種の勇気である。

『僕が戦場で死んだら』「賢く耐える」p.179

そんな感じで訳の分からぬことを話しつつ授業をしています。受講生さんたちには、こんないい加減で適当なやつでもまあ半世紀はどうにかこうにか生きていられるんだなという、そういう生きた実例として私を見てほしい。そういうことを私は伝えたい。現場からは以上です。

ハックルベリー

例えば、自分自身に電話をかけることを考えてみます。いや考える必要はないですね。かけちゃいましょう。いまちょっとかけてみます……。「ただいま電話にでることが……」という自動メッセージが聴こえてきます。callingって、ぼくにとってはかなり重要な単語です。召命。同時に、ただ単に電話の呼び出しでもある。ぼく自身は常に存在しない神との闘争に明け暮れてここまで生きてきました。すべてはやはりそこに戻っていく。やがていつか自分が死んで存在しない神の前に立ったとき、何を語れるのか、何を叫べるのか。すべてが論理的に矛盾しているのですが、しかし在るということは、つまるところ矛盾の総体だということでもあります。ぼくにとって、だからcallingというのは……。

とはいえ、自分自身に対して電話をかけることはできます。その応答が自動音声なのか話し中なのか、いずれにせよそれはそれで面白い。いま電話がブルブル震え、「さっき着信があったよ」と教えてくれました。まあ自分でかけたんだけれどさ。

ただ、個人的な感覚としては――この感覚が一般的なものではまったくないことを認めた上で――やはりcallingなり、非‐callingなりは在ってほしいのです。そこから断絶した生は、ぼくはあまり見たくないし、かかわりたくない。意識していないということではなく、それなしに在ることを、在れると思い込んでいることを当然として疑わないような在り方。それはあまりに醜く、惨いものです。

そして例によって話は飛びます。ぼくはホワイトハッカーという言葉が嫌いなのです。薄気味が悪い。いま適当にネットで検索してみましょう。日立ソリューションズのページがトップに出てきました。これ、もちろんどのサイトでも構いません、本質的なところではどうせみな同じような内容になるでしょう。

上記のページでは、ハッカーというのは本来価値中立的で「コンピューターやインターネットなどについて高度な知識や高い技術を持っている人」を意味するとあります。なるほど。そしてホワイトハッカーとは「知識や技術を善良な目的のために利用する人」である。これ当然ですが何も間違っていません。上記のページ全体としても非常に良くまとまっています。そしてホワイトハッカーの仕事として、次にはこう来ます。「例えば、国や企業のウェブサーバーに対して不正なアクセスがあった場合、ホワイトハッカーは調査や防御対策を実施します」。

ぼくはこれが恐ろしい。なぜ国や企業への攻撃を防ぐことが善良な目的になるのか。いうまでもなく、不法な行為をしろと言っているのではありません。下らない犯罪行為のために技術を使うのだって莫迦そのものです。舐めるなよというのは、別段、社会に背けとかではないのです。反‐、なんていうのはつまるところハイフンの先にあるものに依存しているだけです。極めてダサいと思わないかい? いやぼくにとってのバイブルである『ニューロマンサー』では、ケイスはカウボーイと呼ばれますが、要するにその実態は違法行為を行うハッカーです。けれども彼の場合は、彼のスタイルを突き詰めていけばその先にあるのは、あるいはその出発点にあるのは黒丸尚さんの訳語を借りれば「凝り性(アーティースト)」であって、つまりは他に選べない生き方の問題です。

善にしろ悪にしろ、所詮は自らの外部において作られたもの、与えられたもの、あるいは強制されたものに対してそう名付けられただけのものに盲目的に尽くす、あるいは反抗する、それだけでしかないのであれば、それはハッカーというスタイルからはかけ離れたものでしょう。俺は俺だ、きみはきみだ、それを守ろう、というもっとも基本的な個人の尊厳があるのだとすれば、それを実現させ守るための腕を持つことがハッカーであるということです。独断と偏見ですよこれ。ほんとうのことをいえばハッカーの定義などどうでも良くて、ぼくはぼくでぼくなりにやるしかない。ただやはり、その盲目性にはぼくは加われない……。だから上記のページで「善悪の意味合いは含んでいない」というのは正しく、だけれども、それはもっと強い意味で、「善悪を超えて俺が俺であるための、きみがきみであるための闘争を表現する技術」であるはずです。

繰り返しますが独断と偏見です。それでも、ホワイトハッカーの大会とかコンテストとか、そういうものに若いひとたちが参加して、賞をもらったりするのを見ると、ぞっとするのです。

ただ……、もちろん、それほど単純な話ではありません。ぼくらは食べていかないといけない。どうしたって、どこかで妥協する必要があるし、あるいは面従腹背する必要だってあるでしょう。というかそれが常態ですよね、ぼくらの生活は。でも目を見れば分かるのです。ああ、こいつホワイトハッカーだ! お父さんお父さんあれが見えないの? あれホワイトハッカーやで。

ぼくはYMOが再生したときのTECHNODONってあまり好きではないのです。これ確か、当時彼女とふたりで再生ライブに行った気がする。いま確認したら行ったそうです。そうだったそうだった。だけれど、良くなかった……。あのYMOを生きているうちに生で観られると喜び勇んで行きましたが、でも、ぼくの結論としては残る曲はないなと思いました。そしてこのとき作られたビデオも本も良くなかった……。何なんだアレ……。

だけれど、本の方は幾つかとても良い箇所があります。引用してみましょう。高橋幸宏による坂本龍一評(というよりも日本の音楽シーン評)です。

教授だってアカデミー賞もグラミー賞も取って、「世界の坂本」って言われてるけど、その、日本的な「世界の坂本」っていう認知は、彼の納得のいくものじゃないのかもしれない。オリンピックのオープニングにしても、彼が一番嫌っていた、ある種、保守的な国家的作業もこなしているわけですよ。彼は闘っているんですね。

細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、後藤繁雄『TECHNODON(テクノドン)』小学館、1993、p.29

凄く難しいけれど、重要で、必要なことだと思うのです。どんな職業においても。どんな生き方においても。

別に深刻な話ではなくて。そうそう、先日、ほんとうにひさしぶりに研究会に参加してきたのですが、そこでぼくの『メディオーム』の話が出ました(議論の一環として)。それで、その本のなかでは「貫通(penetration)」という単語が重要な要素として出てくるのですが、それを聞いた研究仲間のひとりがけっこう爆笑していました。彼は詩人でもあり、さすがに言語感覚が鋭いなとぼくも笑ってしまったのですが、まあ、そんな感じです。どんな感じか分かりませんが、大丈夫。ぼくだって何も分かっちゃいないのです。

初めにマイムが

パントマイムが好きで、時折youtubeなどで良さそうなものを探して観ています。

もうすぐ後期の非常勤が始まるのですが、コミュニケーション能力に重大な問題を抱えているぼくが講義をするのは、本来であれば(『洪水はわが魂に及び』的にいえば)コートームケイな物語でしかありません。けれどもなぜかぼくは昔から演技をすることを存在の基本様態の一つにしており、偶にこれをしないと息苦しくなってしまうのです。ですので、講義はそのためのちょうど良い場になります。別段変なことをするわけではなく、外からみれば単に普通の講義をしているだけなのですが。

けれど演技をするといっても、基本的には(黙っている間も含めた)喋りが主な表現方法になります。あたりまえですよね、講義なのに無音だったら……いや、それはそれでありかもしれません。単にぼくの演技のベースは喋りにあるということ。それはお世辞にもうまいとは言えないものかもしれませんが、でもまあ、やらにゃあならぬ。存在するって、どのみちそんなものです。

とにかく、そんなぼくからすると、無音で表現するパントマイムは極めて興味深いのです。観て学べる何かがあるわけではありません。何しろモードが違いすぎます。魚が鳥を見るように、鳥が魚を見るように。いやペンギンは? ともかく、自分に取り込めない巨大な何かを観取するというのは、これ以上ない恐怖であり自由であり、要するに存在することそのものの実感に直結した喜びになります。

まあそんなことはどうでもいいですね。とにかくパントマイム。youtubeで気軽に観られるものをいくつかご紹介していきます。ちなみにぼくの数少ない友人のひとりである彫刻家は、子どものころマルソーの日本公演を生で観たそうです。「youtubeで観たってそんなもんマイムの何も分かりゃしないよ」と言われ、ぐぬぬ・ぬ、ぐぬぬ・ぬ、と、アーサー・ゴードン・ピムの物語の紛い物じみた唸り声を上げつつ泣いて退却するばかり。でも良いじゃない、youtubeだって。外に出るの怖いんだもの。

Walking Against the Wind

これはマイムじゃないだろうと言われればそうなのですが、非常に良くできた短編映画。ユーモアもありつつ、パントマイム特有の悲しみもありつつ、最後は見事に落ちがつきます。

The Mime

極めてシンプル。ラスト、パントマイミストの表情がとても良いです。

上記二つの動画はとても好きなもの。何よりもぼくが憎むのは、「マイムをしているこの自分を見ろ」という意識が露骨に見えてしまうものです。演ずるというのはそういうものではない。演技も自分も消えてしまわなければならない。話は変わりますがいわゆるハリウッドスターは別です。ジョン・ウェインとかオードリー・ヘップバーンとか。でも少しでも「俺が」というものが出てしまったら、もうそれはマイムではない。独断による断言。これほんとうにただの偏見なので気にしないでください。いずれにせよ、上の二つはそんな偏屈なぼくが観ても面白い。

だけれども、やはりそれだけではないのです。いえ、繰り返しますが上の短編、文句なく面白いし、凄いです。お勧め。その上で、恐らくマイムの究極的な到達点というのは、無音でこの世界を創り出す、そのくらいの力を持ったものであると思うのです。無音で世界を表現するということを超えて、世界を生み出してしまう。そんなん可能なの? といえば、ぼくらはそれをマルセル・マルソーを通して確かに観ることができます。

Le Mime Marceau

もはや、ぼくごときの下らない説明は不要でしょう。

と言いつつ好きなので喋ってしまうのですが、マルソーはチャップリンの影響を受けているとのこと。実際、マルソーの動きの幾つかはほんとうにチャップリンです。チャップリンの動画(できれば映画)もぜひ観てみてください。

ぼくはチャップリンも大好きですが、でも、チャップリンの場合は人間として地続きな気がします。喜怒哀楽が分かる。というか、彼がそれを天才として見事に強力に表現している。でもマルソーには人間から断絶した何かを感じます。恐らくそれは天地創造に近い……、などと意味不明な供述を繰り返しており……、近所の住人によれば普段から怪しい言動を……、云々。

不合理故に……

ひさしぶりに彼女とふたりで散歩に行きました。ぼくは最近右肩を傷めてしまい、というかアレですね、身体が不調だとかそんなんばっかですが、けれどもこれは他者に押しつけることは絶対的にないという前提の上で、ぼくはけっこう痛いとか辛いとか、いや書いたそばから何ですが自分自身のことで辛いと思うことはないな、ともかくそういうネガティブなことって、別段ネガティブには感じないのです。「わあ、ぼくは痛がっているぞ!」みたいな。ちょっとオカルトっぽいですけれども魂みたいなものがあって、それがつねにこのぼくであることを、ほんの一瞬、ただの偶然としてぼくという形があってこの世界をうろうろうろつきまわって、転んだり起き上がったりしているのを眺めて喜んでいる、そういう感覚があります。痛かったり怖かったりすればするほど、「わあ!」と思っている何か。自分についてはね。他者の苦しみについてはいまだに凄まじい恐怖があります。だからみなさん幸せに生きてください。

ともかく、うろつきまわっています。子どものころに住んでいた土地は半径10kmは歩き尽くしてしまい……、いやそう書くとぜんぜん大したことはないですね。二十年近くかけてのことですから。でもその範囲内ならどの道を見ても分かるくらいにはうろつきました。もちろん、いまとなっては山さえ削られてしまっているけれど。そのころに鍛えられた脚は、いまでもぼーっと生きているぼくの上半身をどこかへ連れて行ってくれます。

だけれども、いま、ふたりで住んでいるところは、時代が時代だから仕方がありませんが、散歩をするにはちょっと厳しいところです。家を出れば裏山があって、などということがないので、車やコンクリートや人間がたくさんのところを通っていかなければならない。電車に乗って移動したりさえしなければならない。これでもうへとへとになります。へとへとになってから、ようやく散歩が始まる。などと言いつつひさびさに散歩らしい散歩に行きました。

その日の目的の一つは尾花屋さん。東小金井にある古書店です。初めて行ったのですが、本揃えも良いし、小さいけれど密度の高い本屋さんでした。お勧めですので、近くにお寄りの際はぜひ覗いてみてください。

今回はそこで幾冊か購入。どれも良い本ですがこれは特に良い本。埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』。アフォリズム集というか、詩集ですね。後半には谷川雁との往復書簡が載っています。ここから少し引用してみましょう。

もし私達の自然も私達自身も姿も形もなくなってしまった或る天文時間のなかで、或る種の判別能力をもった何かが私達の傍らの空間をかすめすぎながらさながらガイガー・カウンターを近づけるごとくにすでに埋もれてしまった私達について何かを測定することがあるとすれば、人間とは不思議な自己否定へ向って絶えず進み行くところの不思議な運動体と見つけたり、ということになるかも知れないというのが、《自同律の不快》と《自然は自然に於いて衰頽することはあるまい》との一聯の対句の内包しているところの意味なのです。

埴谷雄高『不合理ゆえに吾信ず』現代思潮社、1961年、pp.127-128

埴谷雄高ですね……。こういう文章を書ける人、批判ではなくていまの日本には居ないでしょう。いや、やっぱりこれは批判ですね。そして安部公房が書いていることは恐ろしいまでに正しい。

でも作家は読者なにしにはありえない。読者が生まれなかったら、作家なんかいるわけがない。

安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p.82

これはいわゆる現代文学というものが「西欧的な方法をよりどころにしているから」ではなく「植民地主義の土台にきずかれた」が故に駄目なのだという厳しく鋭い指摘をしている箇所なのですが、機会があればぜひお読みください。ぼく自身、「何とか文学フェア」とかいうものを(もちろんまずは出版社が生き残らなければ話にもならないのでそこへの批判ではなく、むしろ何よりもまずぼくら読者自身を批判的に見つめなければならないという意味で)疑いの目で見てしまうのですが、その根底には安部公房と同じ考えがあります。読者がいないということの本質に、そしてそこには間違いなくぼくら自身がかかわっているにもかかわらずそれをすっ飛ばしてなされる「正義の味方みたいな顔」みたいなものの欺瞞に、もっと鋭敏でありたい。そしてそれだけではなく、いまの日本にまともな現代文学がないことを恐れた方が良い。いや、あるとお思いになるかもしれないし、別段、ぼくが正しいかどうかなんてどうでも良いことです。

なんてことを散歩しながら考えているので、顔つきがだんだん陰鬱に、陰惨になっていく。呻き声を上げる。「おおお……」なんて苦悶しながら髪を掻き毟り脚を引きずりよろぼいつつ、彼女に「パン食べよう」と言われて川のほとりに腰を下ろして保冷剤で冷やしておいた水を飲み途中のパン屋さんで買ったきのこロールを食べつつ草むらに生えたキノコを眺めつつ(毒キノコだった)、にこにこしている。まあそんなもんです。

そうして、雨のあとでぐずぐずにぬかるんだ川のほとりを「あ、キノコ、あ、トンボ、あ、ザリガニ」なんて言いながら登山靴でぐっぽぐっぽ歩いていきます。橋の下をくぐり、道に戻る階段を上がろうとしたら、そこには高校生くらいの男女がふたり座り、語らっている。青春。そこに泥まみれで「ぐっぽぐっぽ」とか言いながら(言いはしないが)肩の痛みで眠れず目の落ちくぼんだおっさんが這い上がってくる。恐怖です。でもそれがいつか二人の良い思い出になってくれることを願いつつ、あとから来た彼女と合流し、てくてく家に帰っていきました。

坂本リンゼイ

何しろ忙しいです。体調がよくならないままに仕事はまったく終わらず、土日も何もなしにプログラムを組み続けています。けれども最初のころの憂鬱さはなくなり、いまはどことなく穏やかな気持ちで、日常感覚が戻ってきたようにも思います。恐らくそれは、毎日最低限決めた時間は原稿について考えることにしているからということもあるかもしれません。プログラミング自体は楽しいけれどやはり仕事は仕事で、仕上がらないとまずいしやばい。食っていけるかどうかに直接かかわるので気持ちも落ち込みます。でも原稿は、プログラミングと同じように書くことではあるけれどやはり違いはあり、絶対にできる、俺にしかできない、という確信があるのです。それは楽しいというよりも強迫観念なのですが、でも、在ることへの確信って結局は強迫観念しかあり得ないじゃないですか。そうでもないか。ともかく、仕事がやばいときは会社近くのビジネスホテルに泊まります。本当にお世話になっているし好きなホテルなのですが、建物はかなり老朽化していて、一晩中水滴の落ちる音を聴きながらそこでもプログラミングをし続けます。そして時間がくると頭を切り替え原稿のことを考えたりします。いえ、切り替える必要はそれほどなく、日常生活の延長に位置づけられないことは自分のなかの哲学にはしたくないというのがあるので、「まあね」とか言っておもむろに考え始めるだけです。

さて、あ、この「さて」って言葉良いですね。さて、ぼくは自己愛というものが本当に嫌いです。憎んでいると言っても良い。激しい憎悪。けれどもこの自己愛を通してしか、恐らくぼくらは自己を放擲するには至れない。だから難しい……。難しいけれども……。ちょっと突然変な話をしますが、といってもこのブログ変な話しかしていない気もしますが、ぼくは物心ついてから、神社やお寺に行ってお賽銭をお賽銭箱に入れて何かお願いするときに、世界平和以外を願ったことがないのです。いや嘘でしょ、とお思いになるかもしれませんが、いつも書いているようにこのブログ「物語」なので、まあそんな感じでお願いいたします。その上で、世界平和しか願ったことがない。といっても5円とか10円とか、そんなので世界平和を願われたって神仏も困るでしょう。だから別段、それが叶わないからどうこうということではないのです。これもまた強迫観念のお話。しかもこの男口が悪いので「できるもんならやってみろってんだいこんちくしょう!」とか祈っている。これじゃあ無理でしょう。というよりそもそも世界平和って何でしょうね。漠然とは思い浮かべられるかもしれませんが、具体的に具体的に……と突き詰めていくとどうも良く分からない。分からないままではいずれにせよ実現はできません。

ともかく、自己愛です。ぼくは自己愛が嫌いです。もうね、本当に嫌い。そして話は突然変わるのですが、サン・テグジュペリの『人間の土地』で印象深い挿話があります。ぼく自身は如何なる理由があれ戦争に反対する人間ですが、以下引用。

リフ戦争の当時、二つの不帰順山岳のあいだに位した前線陣地の指揮に当っていたあの士官のことを考えてみたまえ。彼はある晩、西方の山からおりてきた軍使の一行を迎えた。型のごとく、ともにお茶を飲んでいると、銃声が聞こえだした。東方の山岳地帯の種族が、この前線陣地を攻撃してきたのであった。これと戦うために、退去を要求する大尉に、敵軍使の一行は答えたものだ、〈今日、自分たちは、貴官の客人だ。貴官を見捨て去ることは神が許さない……〉彼らは、大尉の部下に加わって、この陣地を救ったうえで、はじめて自分たちの鷲の巣へと登っていった。
ところが、今度は、自分たちが、この陣地を攻撃しようと準備のなった前日、彼らは、大尉のもとに軍使を送り、
――先の夜、われらは貴官をお援けした……」
――そのとおりだ……」
――われらは、貴官のために、小銃弾三百発を放った……」
――そのとおりだ……」
――それをわれらに返してもらえまいか」
すると、気位の高い大尉は、相手の気高さのゆえに、自分が受けた利益を利用しかねた。彼は自分に向かって使われるであろう弾薬を、返してやった。

サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫、pp.191-192

また別のお話。大学時代、ぼくは常に人形劇の部室でうだうだして、音楽を聴いたり本を読んだりしていました。そしてそのまま中退することになるのですが、だからいま非常勤で講義をしていて、せこい手段で単位を取ろうとする受講生をみると、どうにも白けます。無論それはひとそれぞれで、ぼくの知ったことではありません。だけれども、ぼくはそういう醜さは嫌だ。まあいいや、大学時代の話です。で、そうこうしていると講義を終えた他の部員たちが部室に戻ってきて、そうしてまたうだうだと話をしたりする。そんなある日、いわゆるハリウッド映画について盛り上がったことがありました。といっても少人数のサークルだったのでジミジミとした盛り上がりでしたが。それは、派手なアクションシーンを観ても、そこで注目されることもなく死んでいく無名の脇役たちのことを考えるとどうしても映画に没入できない、というよりも考えてしまうので没入できない、ですね。そういうことをいう子がいました。これもまた強迫観念のお話です。ぼくはその感覚が凄く良く分かりました。ただ、ぼく自身は倫理を外付けドライブにしているような人間なので、だいたいどんなことでも「まあね」で済ませられる。もし本当にそれを脅迫観念として持っているとすると、これはちょっと人生ハードだろうなと、若く浅薄なぼくなりに懸念しました。そして実際、それはその子にとって本当に強迫観念だった。しんどいですよね。

サン・テグジュペリのお話も、もしそういった観点から見るとちょっと待ってよ、となるわけです。いや大尉は自分の美意識に従って生きたり死んだりできるから良いけどさ、下っ端の兵士からしたらどうなのよ、と。彼らからすれば銃弾なんて返さないで、いやっほう! みたいに、いやそこまでではなくて良いけれど三百発をこちらの利点として使った方が絶対に良い。生き残れる確率を上げられるのだから。

でもまあ、当然ですが、そういう話ではないのです。というよりも、その子が話していたその感覚、その根本にあるものにこそつながるものであって。「大尉」のなかにあるのは美意識を優先する自己とかそれによって犠牲となる他者ではなく、美意識それ自体です。例えばヨブ記について考えてみましょう。またヨブ記。この子はほんとうにヨブ記さえあれば機嫌よく笑っていてねぇ。で、ヨブ記の最初の方で、いきなりヨブの子どもたちが死ぬ。もう、彼ら/彼女らからしたら冗談ではないですよね。その後なんやかんやあってヨブの信仰が完成したとか、いや知るかいな、となります。だけれども、これもまたそういう話ではない。そこではある種の普遍性を帯びた「この私」の義、そのものが問われている。究極まで突き詰め透明になった、人間で在るということの条件そのもの。そこでは、だから、「このわたしが~」とか「ほかのだれかが~」とか、そういうものが潜り込む余地はない。

この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。

同書、p.204

そう、だから、そこまで行くとぼくらはきっと誰にも見られず、いや見られていても一切顧みられることなく殺されていく誰かについて、誰かとしてではなく考えることができるようになるかもしれません。毎回思うのですが、何を言っているのか良く分かりませんね。そしてこれも毎回言っていますが、それで良いんです。分かることを分かるように言うのは、それはロジックでしかありません。ぼく自身は、ぼくなりの形で強迫観念と付き合えています。だからいまもヘラヘラ笑って生きている。もしいま最初の大学時代に戻れるのであれば、もう少しましな、同意の相槌だけでもなくロジカルなだけでもない応答が、できたかもしれません。だけれどもまあ……、それもまた、ぼくにとっての強迫観念のひとつでしかないのでしょう。

あ、何だか雰囲気暗いですね。そんなことはなくて、もう滅茶苦茶明るいです。滅茶苦茶です。眩しくて何も見えない。坂本龍一の「ハートビート」っていうアルバムがありまして、これ1991年ですよ。33年前。自分で書いてちょっとびっくりしました。このアルバムも(発売後数年経っていましたが)当時部室でよく聴いていました。名盤。で、このなかに「Tainai Kaiki」という曲があって、これは本当に名曲。ぜひ聴いてくださいと言いたいところですが、いま簡単に聴けるのってデヴィッド・シルヴィアン版で、これはぜんぜん良くない。というか悪い。もう、デヴィッド・シルヴィアン特有の「俺の声を聴け、聴け、聴け!」という、そのエゴイスティックな押し売り感しか聴こえない。ぼくは「戦場のメリークリスマス」って曲も映画も大嫌いですが、それにしてもそれに歌詞をつけた”Forbidden Colours”とか聴けたもんじゃないです。阿呆か。あ、やばい、自己愛の話に戻ってしまう。

それでですね、このオリジナルの方の「Tainai Kaiki」、歌が凄く良いんですよ。坂本龍一特有の音痴なのか? みたいな、でも必死な感じで、歌とも言えない、リンボーに取り残された誰かさんの独り言のような……、と思って数十年生きてきて、つい最近知ったのですが、このヴォーカル、アート・リンゼイでした。え、これ、先入観なしで坂本龍一じゃないって分かる方いらっしゃいますか? ぼくはいまでも分からない……。アート・リンゼイだと思って聴いても聴こえない……。ぼくにはもう何も分からない……。

自己紹介的な……。

結局今回も3週間近く体調を崩していました。熱もなく、ただ咳き込むだけなのですが、夜中や明け方に目が覚めてしまうことが続き体力も削られます。ようやくほぼ復調しましたが、それにしても今年に入ってから1/3は病を得ている状態です。にんともかんとも。体調が悪いときにはお風呂に入り自分を茹で上げます。免疫力を高めるんや! などと既に手遅れ感の漂ううわごとを呟きつつ、実際には悪魔祓いの儀式のようです。しかしほぼ全身が悪魔であるぼくなので――といっても安いトランプに印刷された虫歯菌的ジョーカーのようなものですが――その儀式も結局は自分を風呂から追い立てるだけで終わります。そして体調はさらに悪化しています。

けれども悪いことばかりではなく、睡眠時間が削られた分、仕事でやばい状況のプログラミングに時間をかけることができました。いやまだやばい状況の真っ最中ですが。寝ても覚めてもプログラム。ちょっと原稿もまずいのだけれども、とにもかくにも仕事を終わらせなければなりません。ようやくここ数日で今回のプログラムの全体像を頭のなかに組み込めて、ここまで来ればあとは夢の中でも考えることはできるので少しほっとしています。あと、今回は一から作っているので、そういった意味でも楽しい。他人のプログラムのメンテナンスは、センスが違いすぎて気持ちが萎えることが多いのです。傲岸不遜で唯我独尊。

何だかんだ言って、まあプログラミングは好きです。というかこれしかできません。昔、大学中退後にソフトウェアの会社に入って、延々プログラミングをしていました。っていうかもうほんとうに延々です。当時は残業代とかばんばん出ましたし、ある時期の収入は凄かった。寿命の減り具合も凄かった。命と賃金の等価交換。いや不等価交換です。そのあと大学に入り直して、博士課程に進んで(在籍していた研究室のつきあい的に)唯物論系の学会に入ったりして、そこで語られる「労働」とかにあまりリアリティを感じられなかったのは、あのときの経験があったからだと思うし、それは結構良かったと思っています。アカデミズムに染まらないで済んだという意味で。

あ、でも、とはいえ、会社にだって馴染めなかったわけです。だいたいこの男、どこかに馴染めるなんてことはあり得ない。どこにでも溶け込むほど無個性ですが、どこからでも弾かれるほどには社会性がない。で、仕事でプログラミング漬けの日々を送るうちに、もっと知りたくなるわけです、プログラミングについて。仕事的な意味での知識や経験ならそこで身につけられるけれど、どうもそうではないぞ、と思ってしまった。自然言語に立ち戻って考え直さなければならぬ、みたいな。なのでそういったことを学べるお手軽な大学を探してそこに行きました。ほんとうにラッキーだったことに、当時の上司に当たるひとが良い意味で変わった人で、プログラム言語でだって詩を書けるぜ、ということを良く言っていました。だからぼくが大学に入り直して言語の根本から勉強し直したいっす、と伝えたら(そのときも仕事はぎゅうぎゅうだったのに)快く送り出してくれて、ほんとうにありがたかったです。

ともあれそれで学部からやり直してヘブライ語とかを勉強して、中近東文化センターとかに行って土器を見て書いてある文字が「読める、読めるぞ!」とか独りで喜んだりしていたのですが、そこで9.11が起きます。そしてイスラム教対キリスト教みたいな、あまりに浅薄で恐ろしい論調が世を覆いつくすのを目の当たりにしてしまう。ハンチントン的な阿呆な議論がまたぞろ幅を利かせてくるわけですね。そうじゃないだろう、ということから宗教論、宗教多元論、多元論と進んでいって、そんなことをしながら自分自身で腑に落ちたのは、自分が興味を持っているのは「共有するものがないものたちの間で交わされるコミュニケーション」についてなのだということでした。結局、これなんです。ぼくの根本にある強迫観念って。

コミュニケーションって、もしそれが可能なら、つまり共有するものがあるのなら、もうそれ以上問う必要はないんです。極めて乱暴に言ってしまえば。いやもちろん現実的にはそんなことはないですよ、もちろん。そこには血の滲む努力と無駄に終わる死が大量にある。でも原理的には答えは分かりきっている。そして逆に、もし共有するものがないのだからコミュニケーションもないというのなら、これまたこれ以上問うことはない。残念ながらいまの日本の、あるいは世界の状況はこれが凄く強いですよね。でも、というかだから、問う意味が生じるのは、問うことの力が生じるのは、共有するものがないにもかかわらず、それでもなお生じるコミュニケーションについてになるし、またそれ以外に真の意味でのコミュニケーションなんてないんです。ぼくはそう思います。

だから、ぼくのなかにある、機械やロジックとコミュニケートすること、石を眺めて一日ぼーっとしていること、死者との対話、過去の本との対話、何十年かかけて最近は和らいできましたが、神に対するもはやこれ信仰なんじゃないのかなとさえ思ってしまうような異様な憎悪、外に出て人間を見ることに対する極端な恐怖心、などなど、ばらばらなそれらの根本にある統一理論のようなもの、それがこの、共有するもののない他者とのコミュニケーションになります。何を言っているのか良く分かりませんね。ぼく自身良く分からない。ただ突き動かされているだけです。そしてそれで良いんです。シリアスな話ですが、でもやっている本人はシリアスとか思っていない。探求するのが楽しくないのなら、やめればいいんだから。だから毎日けらけら笑っています。「雲が・・・在る・・・! トカゲが・・・居る・・・! プログラムが・・・分かる・・・!」みたいな。いえ、もちろん何も分からないですけどね。

あれ、例によって最初に書こうと思ったことと全然違う内容になってしまった。もともとはシーレの絵について書きたくて、徹底して自己を冷たく深く凝視し続けたその最終地点としてシーレの絵は立ちあがってくるのですが、そこから特殊を通じて普遍へ、のお話につなげて、云々、みたいな。ぼくは自己愛を激烈に憎んでいますけれども、いますけれどもって突然言葉遣いがあれですけれども、突き詰めて突き詰めてそこに穴が空いて、突然果てのない空白のなかに転がり込んでしまって、そこまで行かなければ、ぼくらは誰も語る価値のあるもの、見る価値のあるものなんて作れません。いや価値なんてどうでもいい、作ることも見ることもできない。と、そんなことを書こうと思っていたのです。でも何か暗いですね。にやにやしているのに、いつでも目つきが陰惨だ。そんな変質者が、そう、私です。