お勧め映画ベスト10

この連休中は休みなく働き、原稿を書き続けてきたけれど、何も終わらず、ヤヴァ過ぎる状態がヤヴァ過ぎてどうしようもない状態になっただけでしかなかった。しかしだからどうしたというのだろう。ソクラテスだって毒の杯を飲んだではないか。ぼくのブログでは、ソクラテスは毒の杯を飲まされてばかりいる。彼の健康が心配だ。
というわけで、連休の最後くらいは明るく楽しく、お勧め映画ベスト10。こういうのは考え出すと切りがなく、いまになってメトロポリスを入れていなかったなあとか、まあいろいろあるけれど、そういう漏れてしまったものが10個溜まったら、またお勧め映画ベスト10パート2とかを書けばよい。では早速いってみよう。どこへ? どこでもいい、どこか素敵なところへ。それが映画の良さだからね。

*下記の映画情報、大半が記憶頼りなので、あまり信用しないで欲しい。結局のところこのブログで映画紹介などできるはずもなく、映画紹介のふりをした物語でしかないのです。興味があったら、amazonとか何とか、まあ、そういうアレでアレしてください。

1.『バーディ』(1984)

出演:ニコラス・ケイジ、マシュー・モディーン、監督:アラン・パーカー
ベトナム戦争で精神を病んでしまった友人と、顔面にひどいやけどを負った主人公の物語。何が異常で何が正しいのか分からないままにもがく若者たち。けれどもただ深刻になるのではなく、突き抜けたエンディングに向けた疾走感がさわやかな余韻を残す。挿入歌のラ・バンバで有名だが、ピーター・ガブリエルのサウンドトラックも素晴らしい(音楽の題名を「ランバダ」だと思い込んだまま彼女と会話をして、限りなくとんちんかんになっていったのも、いまとなっては良い思い出だ)。
原作のウィリアム・ウォートンは優れた小説家。『バーディ』の原作ラストは、映画とはまた少し違う形でシュールな感じ。『クリスマスを贈ります』は最高の青春小説であり、反戦(という単純な言葉では表現しきれない)小説。『晩秋』は映画化されている(いま調べたらスピルバーグが制作総指揮だ。何かがっかり……)、森の中で突然混乱し、帰り道が分からなくなってしまったジャック・レモンの演技だけで一見の価値あり。
あとは役者繋がりで言うと、同じくニコラス・ケイジ主演の『赤ちゃん泥棒』もお勧め。これは『バーディ』から暗さを取り除いた感じの、シュールで楽しい映画。ニコラス・ケイジは、困惑と狂気とコメディを同時に演じさせたら右に出る者はいない俳優。

2.『キリング・フィールド』(1984)

出演:サム・ウォーターストン、ハイン・S・ニョール、監督:ローランド・ジョフェ
カンボジア内戦を描いた、実話に基づいた反戦映画の傑作(反戦、という言葉の安っぽさには違和感を覚えるが)。アメリカ人ジャーナリストと現地ガイドの友情と、同時に、絶対的な国力によって守られたジャーナリストと、現地に残されたガイドとのどうしようもない断絶も描かれている。帰国したジャーナリストはピューリッツァ―賞を受賞し、一方、ガイドはクメール・ルージュに囚われ地獄を経験する。二人が再会したときの言葉に胸を打たれる。「赦してくれるか」「赦すことなどありません」。
現地ガイドを演じたハイン・S・ニョールは、実際にクメール・ルージュに囚われ強制労働を経験した人。俳優未経験のまま本映画に出演し、アカデミー賞を受賞した。後にアメリカにて強盗に射殺された(この事件はリアルタイムでぼくも覚えている)。地味ながらも悲しみに満ちたサウンドトラックも忘れがたい。

3.『カジュアリティーズ』(1989)

出演:マイケル・J・フォックス 、ショーン・ペン、監督:ブライアン・デ・パルマ
反戦映画の3本目。ある時期、ベトナム戦争を題材にした「反戦」映画がハリウッドで大量制作されたが、その多くが「善人な主人公と国の暗部」という二項対立を通してしか戦争の悪を描けないという点において、「反戦」映画の難しさを露呈していた。その中で一線を画していたのが、この『カジュアリティーズ』。恐らくそれは、ベトナム戦争を超えて、一人の人間の苦悩を描くことに成功したマイケル・J・フォックスの演技に(その一点のみに)拠るもの。ラストシーン、アメリカに帰還しだいぶ経つマイケル・J・フォックスと、見知らぬアジア人少女の一瞬の邂逅が美しくも悲しい。
ちなみに、マイケル・J・フォックスはコメディ映画(ドラマ)で名前が知られており、シリアスな役柄は評価されていない(別の映画中で、本人がそれをメタ的な冗談にしているセリフがある)が、シリアスな役柄こそ彼の演技力が生かされている。それが分からず批判をする連中は地獄へ堕ちろとぼくは思う。
シリアスな役柄のマイケル・J・フォックスといえば、『愛と栄光への日々』(出演:マイケル・J・フォックス、ジーナ・ローランズ、脚本:ポール・シュレイダー)、また、『Bright Lights, Big City』(出演:Michael J. Fox、Kiefer Sutherland、監督:James Bridges)が必見の名作。『Bright Lights, Big City』はそのまま『ブライトライツ・ビッグシティ』として、高橋源一郎翻訳で新潮文庫より出ている。80年代アメリカ青春小説の金字塔。ぼくの大学時代は、これと『ニューロマンサー』でだいたい説明できる。どうでも良いが。

4.『C階段』(1985)

出演:ロバン・ルヌッチ、監督:ジャン・シャルル・タケラ
新進気鋭の絵画評論家である主人公は、才能に溢れてはいるが女たらしで冷酷非情などうしようもない男。そんな彼が住む「C階段」と呼ばれるアパートでの、そこに暮らす住人たちとの交流を描いている(ぼくは未読だが原作もベストセラーになったらしい)。ルノワールを評価していない彼だったが、ある天才的な画家と知り合い、その画家に勧められて改めてルノワールを観にいくシーン、そして何より、アパートの住人である老婆が亡くなった後、彼女の遺言に従いイェルサレムへ行き、彼女の遺灰を砂色の大地に踊るようにして振りまくシーン(そして音楽とともに暗転)が素晴らしい。映画史上に残る名シーン。彼を愛するギャラリーの女性と、同じく彼を愛するアパート住人のゲイの男、その他魅力的な登場人物たち。まさにフランス映画中のフランス映画。

5.『バスキア』(1996)

出演:ジェフリー・ライト、デヴィッド・ボウイ、監督:ジュリアン・シュナーベル
同じく芸術を扱った映画であればこれも外せない。アンディ・ウォーホルに見出されたストリートアーティストであるジャン=ミシェル・バスキアの短い生涯を描いている。ちなみにアンディ・ウォーホルはデヴィッド・ボウイが演じているが、ウォーホル本人にしか思えないほどの適役。この映画もラストが美しい(基本的にぼくはラストの美しくない映画は糞だと思っている)。時代の寵児となり傲慢になっていくバスキアと、同じくアーティストだが売れないままの友人。一度は仲違いをするが、ウォーホルも死に、自身も薬物でぼろぼろになっていくバスキアのところへその友人が現れ、二人で昔の無名だったころのように街をオープンカーで疾走する。このシーンは涙なしには見られないが、それは哀れだからというだけでは決してなく、あまりにも美しすぎるからでもある。

6.『スウィート・ヒア・アフター』(1991)

出演:サラ・ポーリー、イアン・ホルム、脚本:アトム・エゴヤン
イアン・ホルムは言わずと知れた『炎のランナー』のコーチ役。名優中の名優にもかかわらず、『エイリアン』、『バンデッドQ』(怪作かつ名作)、『未来世紀ブラジル』(名作の評価はあれどもぼくの評価は最悪)、『裸のランチ』(原作がそもそも屑)等、挙げるに困惑するほど変な映画にも出ている人。スクールバス事故で多くの子どもたちが亡くなった直後のカナダの片田舎に、イアン・ホルム扮する弁護士がやってきて、親たちに訴訟を持ちかける。けれど彼の思うようには事態は進まず、また彼自身も自らの生活に大きな悲劇を抱えていて……。
本映画は何のサスペンスも衝撃もないにもかかわらず、かつ何も記憶に残らないにもかかわらず、ただただ物悲しい静けさと一面の雪景色だけがいつまでも心に留まるような、そんな不思議な雰囲気を持っている。ラスト、事故を起こしたバス運転手とイアン・ホルムが偶然出会い、目を合わせる。ただそれだけで、イアン・ホルムの名優の名優たる所以が表れている。

7.『刑事ジョン・ブック 目撃者』(1985)

主演:ハリソン・フォード、ケリー・マクギリス、監督:ピーター・ウィアー
同じく静けさに満ちた映画。ただしこちらは純粋に娯楽作品として非常に良く作られている。殺人事件を目撃してしまったアーミッシュの未亡人とその息子、そしてそれを守るために命をかける(アーミッシュの暮らしとは対極にある都市の)刑事ジョン・ブック。その対比を乗り越えて深まっていく女性と刑事の愛情とか、そんなものはどうでも良い。とにかくアーミッシュの生活の描かれ方が美しく、殺伐とした刑事の目を通してそれが描かれるというのもうまい。結局ふたりが結ばれることはないのだが、ラスト、事件が解決して村を去っていくジョン・ブックに、息子の祖父がかける言葉が良い。「イギリス人には気をつけるんだぞ」
なお、同じくハリソン・フォードでは『フランティック』(1988)も名作。単なるハリウッド・スターと莫迦にするなかれ。本作はフランスを舞台にしたサスペンス。娯楽作品としても良くできているが、ミシェル役のエマニュエル・セニエの存在が大きい。ラスト、ハリソン・フォードが、機密データを、怒りを込めて川へ投げ込むシーン、そしてタクシーの中で妻に「I love you, I love you」というシーンが良い。

8.『イギリスから来た男』(1999)

主演:テレンス・スタンプ、ピーター・フォンダ、監督:スティーブン・ソダーバーグ
同じく不思議な静けさを湛えた作品。テレンス・スタンプは往年の名優だが、本作でも過去の作品の登場シーンを用いており、若かりし頃の姿を見ることができる。ストーリーはどうということもなく、イギリスで収監されていた老人が、刑期中に亡くなった娘の死因を調べるべくアメリカに行き……、というもの。正直ほとんど覚えていない。けれども不思議と心に残る映画。名作かと言われれば駄作の気がするが、しかし何とも……。やはりこれはテレンス・スタンプの存在感によるものか。いやしかしやはりこれは駄作か……。
不思議と心に残る静かな映画としては、『途方に暮れる三人の夜』(1987)も似た系列。これも、ストーリーはほとんど覚えていない(男と恋人、男を愛するゲイの友人の奇妙な関係を描いた、という程度)が、なぜかいまでも時折思いだす。

9.『ローカル・ヒーロー』(1983)

出演:ピーター・リガート、バート・ランカスター、脚本:ビル・フォーサイス
イギリス映画らしいイギリス映画。コメディだが、ちょっとひねりがきいている。『フル・モンティ』(1997)も同じような雰囲気のイギリス映画らしいイギリス映画だが、こちらはちょっと色が濃すぎて疲れてしまう。『ローカル・ヒーロー』は何度観ても疲れない。けれど、もしかするとそれは時代のせいかもしれない。
アメリカの石油会社に勤める如何にもヤッピーな主人公が、コンビナート建設の予定地であるスコットランドの片田舎に調査のためにやってくる。仕事のことしか頭になかった主人公だが、しかしやがてエキセントリックな住民たちに感化されていき、開発計画の妥当性を疑うようになる、というストーリーは、これだけ見れば素朴だが、なかなか一筋縄では行かないのがイギリス映画。
アメリカの自宅に戻り、高層マンションから煌びやかな街灯りを見下ろす主人公。この時の表情が良い。やがてスコットランドの片田舎に場面が戻り、無人の電話ボックス(町の公共電話みたいなもの)で電話が鳴り始める……、というラストシーンに心が温まる。露骨でもなく感動を押しつけるでもないヒューマンコメディの名作。

10.『初恋』(1997)

出演:金城武、カレン・モク、監督:エリック・コット
前半は何とも奇妙な監督(本人)の独白と、彼が作ろうとしている映画の断片的シーンの連続。かなり実験的で何だこれはと思っていると、やがてストーリーは二つの男女の物語に分岐していく。どちらもちょっと風変わりな恋愛もの。ただしべたべたなラブストーリーではまったくない。夢遊病の少女に恋をしてしまった金城武が、(本人の誤解で)彼女と結婚式を挙げるつもりになり、レストランを借り切って彼女を待ち続けるシーンが恥ずかしくも切ない。けれども最後は救いの予感がある。
タイトルの「初恋」は、監督の映画に対する「初恋」でもあって、それを(再び登場した)監督が語り切るラストシーンが、映画愛に溢れていて最高に格好良く、愛しく、切ない。

やっぱりヤンキースは最高だぜ! 野球は観たことがないけれど。

とある大学で非常勤をやっているのですが、非常勤講師室というのがあります。そこにインスタントコーヒーのサーバーがあるのです。当然、おいしくはありません。ぬるい、茶色の絵の具を溶かした砂糖水みたいなものです。でも、そのまずさが好きなんだな(『オネアミスの翼』の森本レオのように)。何よりもタダというのが良い。タダのもの大好き! そんなことを言いながら、クラウドリーフさんは用もないのに非常勤講師室に行きます。本当は、講義終了直後の女子大生の波に飲み込まれて駅まで歩いて行くのが耐えられないので、道が空くまで講師室に隠れているのです。そうして、読みかけの小説をふんふん眺めながら泥水をちびちび飲んでいると、視界の端を大きな人間がよぎりました。見ているようで見ていない、コミュ障独特の処世術によって顔を向けつつ背けつつ「お疲れさまでーす!」などと、業界人か! という感じで挨拶をします。挨拶だけは欠かさないクラウドリーフさん。そんな彼がまさかあんな事件を起こすとは。するとその人影も「オハヨウゴザイマース!」と返してきました。そうして共有パソコンの前に座り、「コノパソコン、ダレカツカッテイマスカ?」と尋ねてきました。ぼくも良く分からなかったので、(いや、どうでしょう、分かりませんね)と答えようと思いつつ相手の顔を初めてしっかり見ると、白人の中年男性でした。道理で流暢だけれどちょっとイントネーションが不思議な感じだったわけです。極度の英語恐怖症で人生を棒に振ってきたぼくは、もうその時点でパニック状態です。前もって準備していた(いや・・・)という部分が、パニックフィルターを通して「Yeah!!!」などと、お前はヤンキースが勝ったときのヤンキースファンか! という感じのノリの良い発声になってしまいました。そのままやけになってぎょっとする男性にさむずあっぷをして見せ、残りのコーヒーをがっと一気に飲みほしてから、すごすごと講師室を後にしました。

別の大学で講義が始まるのですが、いまだにシラバスを提出していません。いやこれはぼくのせいではなく、諸々の手続き上の仕方のないタイミングが重なった結果なのですが、ともかく、もう怖いから提出期限見ない。ぼく見ない。しかもシラバスを英語でも書けと言う。何という邪智暴虐でしょう。必ず、かの王を除かなければならぬと決意した。メロスには学問がわからぬ。タダのインスタントコーヒーを啜り、さむずあっぷなどをして遊んで暮らして来た。けれども女子大生の蔑む目線に対しては、人一倍に敏感であった。しかし、英語でシラバスを書けということは、もしかすると、英語しか理解できない留学生が受講する可能性もあるということでしょうか。そうかもしれません。死を悟った彼の顔は、既に無限の慈愛を秘めたブッダのようです。「空だ」と微笑みます。彼が言うと、何となく腹を空かせた狸がドングリを見つけて「喰うだ」と言っているようです。おら、ドングリ喰うだ。冬に備えるだ。外の世界は怖ろしいだ。仏陀。悟り。そしてただ、あとに残るは静寂。

もやもや、書く描く

とにかく追い込まれている。ぐいぐいぐいぐい狭い路地へと追いやられ、もはや方向転換さえできない。どのみち戻るのも癪なので頑丈な骨格で押し切り進んでいくと両側の塀を壊してしまい訴えられる。ほとんどターミネーターのようで、昔、淀川長治さんが、ターミネーターの映画の紹介で、登場時のシュワルツェネッガーのお尻がきれいだと言っていたのをなぜか良く覚えている。いや、あれは別の映画のジャン・クロード・ヴァン・ダムのお尻だっただろうか? などと言っている暇があったら明日の講義資料をまずは作らねばならぬ。作らねばならぬのだが、集中してあるていどガッと書くと気力がなえ、ひたすらぼんやりして、しばらくしてからやおらまたガッと書き始める。壊れかけのロボットゥみたいでちょっと怖いが、レトロな感じがして意外にウケる、などと女子高生のふりをしたりする。

書いているときには、様々な妄念が渦を巻き、そのうちの幾つかは救い上げておくとあとあと何かの種になったりする。とはいえ、そういったものをすべて救い上げるぞ、などと思ったりすると、突然それは腐敗をし始めるので難しい。完全に放置し忘却のままにするのと偏執狂じみた執着心ですべてを記録するのとのあいだをバランス良く進んでいかなければならない。中庸。怪しげなアルカイック・スマイルを浮かべ、悟ったようなことを言う。だがこのバランス、案外難しい。そのためのツールとしては手書きのノートはいちばん良いとは思うが、やはりデジタルにはデジタルの良いところがある。特に大量の論文を読みながら自分の論文の構想を練っていくときなどは、紙ベースよりも、読む論文と書く論文が同じ空間内にあって、統一されたリンクやタグで構造化されていく方が、ぼくの感覚的にはやりやすい(お話を書くときはまた別)。そうすると、それはやはりデジタル化された文書データの方が断然扱いやすくなる。

だけれど、まだ、それを完全に理想的に実現するようなハードウェアは存在していない。その0.01%ほどは、SONYのDPT-S1で具体化されているけれど、まだまだ、全然ダメだ。お金がたくさんあって、自分の研究室でもあるというのならほとんど机に据え置く感じで欲しいけれど、そうでなければあまり魅力はない。紙のように軽く、自由に書け、消せ、大量の文書データを素早く直感的に扱える、そこまでいけば、ほんとうに新しいメディアになってくれると思う。誰かそういうの作ってくれないかなあと他力本願にごろりと寝そべりつつ、amazonでnu boardというのを見つけてポチった。退廃の極み。

しかしこのnu board(A4サイズを購入した)、当然アナログツールなのでpdfデータを扱うとかはできないけれど、なかなかに使い勝手が良い。どんなものかというと、厚紙でできたホワイトボード部分と透明なシートが組になったノート。厚紙が4枚で、その裏表にそれぞれ1枚ずつ透明シートがあるので、合計8組。ホワイトボードに付属のペン(通常のホワイトボード用のペンと同じだと思う。キャップ部分がイレイザーになっている)でベースになる何かを書いて、透明シートには可変的な情報を書くというのが、とりあえずのぼくの使い方。例えばホワイトボードには月日、曜日を升目に書いておいて、上にかかる透明シートにはそれぞれの日における予定を書き込むと、予定だけ変わったときには透明シートの該当箇所だけを消せば良い。(ちなみに、透明シートの枚数やペンの付属の有無はサイズによって異なるので注意。)

もちろん、他にいくらでも使い道はある。ぼくの場合はアイデアをまとめる時も、核になる情報があって(絶対的な締切や文字制限、あるいは核心部分のアイデアなど)、その周囲にぐるぐるもやもやとしたアイデアが刻々と変化しつつ群がる感じになるので、このレイヤー2層だけでも十分強力な道具になる。あと、何しろ書きやすいし、所詮は紙だから落としてもぶつけても安心というのが大きい。でも重いか……。電車の中とかなら、もっと小さなホワイトボードマーカーを探してきて、A5サイズくらいの方が使いやすいかもしれない。などと、しばらくはnu boardで遊んでいた。この原稿の締め切りはいついつ、などと書いていると、それだけで仕事をした気持ちになってくるから良いですね。良くないです。

兎にも角にも、ぼくは技術(ツール)がすべてだとも思わないし、かといって生身の身体だけで常に十分だとも思わない。どちらもイデオロギー化してしまったらつまらないし、世界に対して開けていない。その境目を危うく進み続ける姿を描くアイデア自体を問うことこそが、いまのぼくにはどうやら面白いようだ。などと、中庸的不審者はアルカイック・スマイルを浮かべつつのたまっていた。早く原稿を書かねばならない。

ビッグ・サーの冬

もちろん、ほんとうは夏だ。ケルアックの、例によっての自伝的小説。同人誌は、書いた小説の後半部分が没を喰らった。それはもちろん納得のいく没だったので、とにかく締め切りまでに良いものになるように書き直すしかない。だけれど、カリフォルニアに関する特集(自画自賛だけれど、次号の同人誌では、これがけっこうおもしろい)の方に書いた原稿は自分でもけっこう良かったのではないかと思う出来栄えだった。特集用に書いた短編小説も気に入っているけれど、特にブックレビューが良い感じだ。ぼくがそこで紹介したのは、『ビッグ・サーの夏』と『ハツカネズミと人間』、そして『クール・クールLSD交感テスト』の3本だ。カリフォルニア・ブックレビューと言われたときに、これがぱっと思いついて、だから書くのも一瞬だった。カリフォルニアは、ある種の時代の空気を(一つの時代である必要はない)共有していないと、たぶんピンと来ないかもしれない。だけれど、来るひとには来る。いや別に、これは来るのが良いとか悪いとかいう話ではなくて、相撲と言えば大鵬みたいな、そんな感じだ。例えの意味が分からない。共有というのは、難しい。ぼくの場合は、最初の大学時代、大学に行っても(彼女と部室で無駄に過ごす時間以外には)何も面白いことはなくて、時折、時間つぶしに東京の本屋に行っていた。その本棚に並んでいる本たちを、いまでも覚えている。そして、その一部は、確かにこの「カリフォルニア」の匂いを持っていた。そのとき購入した本の何冊かはいまでも残っているし、そのとき買わなくて、あとになってだいぶ苦労して手に入れた(だけれど、実際読んでみると下らなかった)本も幾冊かはある。買わなかった本は、記憶に、背表紙だけを残している。でも、その背表紙の記憶に手を差し入れれば、それはその本のなかの世界に簡単につながっていく。「カリフォルニア」なんて莫迦みたいだし、誰だってそんなことには気づいているけれど、でも、それはリアルで、ぼくらの、少なくともぼくの一部を構成している莫迦らしさだから、ノスタルジーとかそういう感傷的な話ではなく、単純に、懐かしい。

仕事帰りに読む本がなくて、緊急避難的に町の本屋に寄って、「怪盗ニック全仕事」とかいう文庫本を買った。何とも言えない下らない小説だったけれど、ぼくは結構、こういう下らなさが好きだ。そうして、読み終わると、彼女に貸す。彼女も、何とも言えないような顔をして読み、ぼくに返す。だけれどそのとき、ねえねえ、と言って、ぼくにある箇所を指し示した。そこには、前後の文脈は忘れたけれど、「カリフォーニア」という単語があった。カリフォーニア。良い響きだ。莫迦ばかしくて、寂しくて、夢のようで、でもいつでも既に終わっている。

最近、彼女と下らないホラー映画を観る。たいていはぼくが古本屋で買ってきた中古DVDで、でもそれにも飽きて、何かないかなと漁っていたら、テレンス・スタンプの「イギリスから来た男」が出てきた。これはなかなか良い映画。全体的に静かで、暴力シーンですら静かだ。その俳優でなければ成り立たなかった映画というのが、ぼくは好きだ。そういえばしばらく前に、知人に、ぼくの勧める「映画top10」というのを書いて送った。ハイ・フェデリティか。あれも意外に下らなく楽しい文章になったので、こんどブログに載せようと思う。ともかく「イギリスから来た男」だ。何気なくジャケットを眺めていたら、チャプタータイトルで「ビッグ・サー」というのがあった。そうか、あれはカリフォーニアだったのか。

* * *

夏もとうに終わり、これからまた、ひたすら言葉を書いていかなければならない時期が到来する。合間合間に講義がある。後期から、もうひとつ別の大学で新しく始まるものもあり、その準備もしなければならない。ぼくは小心者なので最初は憂鬱だし、心配で不安で手が震える。年齢的にも、仕事と研究の割り振りはもう限界に近い。けれど、ある一線を超えると開き直ってどうでも良くなってきて(「なーに、ソクラテスだって毒の杯を飲んださ」)、むしろその全体が楽しくなってくる。同人誌の原稿なんて書いている場合か! と、まともな研究者からは怒られてしまうかもしれないけれど、カリフォーニアの莫迦らしさ、寂しさ、その刹那のきらめきだけが持つ美しさは、コミュ障なぼくが挙動不審になりつつ学生たちに伝えたい「倫理」とやらの根本に、案外、近いものがあるような気がしている。

肺のない人のように

彼女と都心のホテルに泊まった。ぼくだけ先に到着しフロントでチェックインをする。それなりのホテルだったのだけれど、それが却って悪かったのかもしれない。露骨に不審者扱いをされ、かなり落ち込んだ。まあ、自分の見た目を考えれば、仕方のないことかもしれない。どうにも、きちんとした格好というものができない。これはもう前世の悪業のせいなので仕方がない。仕方がない仕方がない、なまねこなまねこと呟きながらホテルの近くを散歩する。その日は大きな花火大会があったらしく、人混みは少し怖いくらいだ。茫然としていると、恐らく台湾人ではないかと思うのだが(根拠はないが、大陸っぽい雰囲気がなかった)、女の子が英語で道を尋ねてくる。ぼくらが居る場所から少し離れたところにある駅で電車に乗り、そこから数駅乗ったところが彼女の目的地だった。こういうとき、ぼくは決して英語を話さない。主義ではなく、単純に話せないのだ。だけれども、笑顔とボディランゲージとラブアンドピースの波動でだいたいどうにかなる。自慢ではないが「悪意のない人間」を演じさせると人類70億人中35億人目くらいに位置するほどの才人なので、こっちですよおいでおいでと手振りで示しつつ、混んでいる道を5分ほど歩き、もう迷いようのないところまで連れて行った。若干フリーな地縛霊か土地鑑のある妖怪かと思われただけかもしれないが、ともかく道を訊ねられるくらいには存在を認められたことに少し気分が明るくなり、やがて到着した彼女と落ちあい、それからは少しのんびり過ごした。

休み中はお盆の準備と後片づけで、だいぶ時間を潰した。とはいえそれは必要なことなので仕方がない。ついでに、ひさしぶりにいろいろなものの片づけをすることにした。いろいろなものといっても、ぼくの持ち物など、機械類と本しかない。ああ、そういえば飲んでいる頭痛薬のPTPシートを溜めこんでいたのだけれど、ちょっと溜まりすぎて病気っぽい感じになってきたので、思い切って捨てた。プラスティックゴミの日に出したのだけれど、透明なビニール袋に詰まったPTPシートは、ちょっと事件性を感じさせて困った。話を戻すと、機械類は必要最小限しか持っていないので、片づけるのは、結局本だけになる。そこで再びBankersの703を購入して、ぽんぽこぽんぽこ本を詰め込んでいった。いまの時点で24箱。大した量でもないけれど、白い段ボールが積み重なったのを眺めていると、気持ちが穏やかになっていく。「サトリ!」と突然叫ぶ。別に何も悟っていない。そういえば後期から始まる講義の準備を何もしていない。今回はこれまで喋ってきたこととはまったく講義内容が変わるので非常にまずい。まずいので、必要な資料だけは段ボールから出して枕元に積んでおく(ぼくの居住スペースはだいたい2畳に収まり、そこで布団を敷き、論文を書き、本を読み、あとは体育座りをしている)。積んでおくだけで、実はまだ何もやっていない。9月の研究会までに書いておくべき論文もまだ頭のなかの不定形の塊でしかない。「サトリ!」もう一度叫んでみるが、悟ってみたところで何かが解決する訳ではない。

そんなこんなでお盆休みも終わった。きれいになった部屋の真ん中で体育座りをする。そういえば、書類整理をしてるときに、昔とある勉強会に参加したときの自己紹介用紙みたいなものがでてきた。そこでひとことコメントみたいなものがあるのだが、ぼくのそれは、「出してくれ、出してくれ! 俺は無実だ ぐえへへへ」だった。いったい何を考えてこんなコメントを載せたのかは思い出せないけれども、恐らく、生まれついての不審者たるぼくは、ただそれだけで無実ではない。

ノイズリダクション/リダクション/リダクション

仕事が終わったあと、電車に乗り、読んでいる本を開く。ぼくの背後で、サラリーマンの先輩後輩が何やら声高に酔った声で話をしている。どうやら先輩サラリーマンが、サラリーマン心得のようなものを後輩に説教しているらしい。聴くに堪えない醜い声、聴くに堪えない下種な話だった。言うまでもないが、醜い声、というのは、物理的な声の質のことを言っているのではない。それはある程度の年齢になった人間の顔と同じで、その人の人生の履歴をまざまざと表しているごまかしのきかない指標で、だから、それが醜いのであれば、それは本人の責任だ。ぼくは、そんなところで容赦し、寛容なふりをするほど、人生に絶望している訳ではない。

ぼくはひさしぶりにイヤフォンをかけ、音楽を聴くことにした。普段は集中すればシャットアウトできる周囲の雑音に心を乱されるのは、自分の心の弱さであって、良いことではない。それでもまあ、いつでもあの醜さを恬として恥じない連中に対抗できるだけマッチョであれ、というのも無理な話ではある。

外でイヤフォンをつけるときはいつでも、ぼくはある覚悟をする。それは、殺されるリスクが急激に跳ね上がることを受け入れる覚悟だ。こういうことを言うと、多くのひとは嫌な顔をするが、もうほんとうに、そういうのはどうでも良い。彼ら/彼女らの人生がぼくに何のかかわりもないのと同様、どのみちぼくの人生も、彼ら/彼女らとは何のかかわりもない。

思い出すのは、一年くらい前だっただろうか、ある傷害事件だか殺人事件があったとき、近所に住む住人が新聞のインタビューに答えて、「怖くてしばらくはイヤフォンで音楽を聴きながら歩くこともできない」とか何とか、そんなことを言っているのを読んだときのことだ。ぼくは、その住人の生き方を嫌悪する。自分は殺されることがないはずなのにという無条件の驕り。善人だから? 悪いことはしていないから? 下らない。逆なのだ。ぼくらはいつでも無条件に殺され得る。どれだけ用心しても、針を逆立てて警戒していても、それはたいてい避けられない。だけれどもそれはマッドマックス的ヒャッハーな世界につながる訳ではない。そうではなくて、繰り返すけれど、逆なのだ。だからこそ、ぼくらには「良き生」という下らない虚構への責任が生じる。虚構と分かっていてなお、ぼくらの生が徹底して偶有性の下にあるという透徹した認識こそが、ぼくらを人間たらしめる。「怖くてイヤフォンで音楽聴けない」といった善人面の厚かましさに、ぼくは鈍くとぐろを巻いた醜悪さしか感じない。その善やら正義やら常識やらは、ただ価値観のベクトルが違うだけで、ヒャッハー的モヒカンの持つ暴力性と何ら違いはない。

* * *

それでもなおイヤフォンをしたのは、諸事情によってしばらく彼女と会えない期間のことだったから、それだけだいぶ精神的に疲れていたということがあるかもしれない。

だけれども、たまたま数日後にとある研究会のようなものがあり、そこで、いま参加している同人誌にぼくを誘ってくれた研究仲間に会った。彼とは、もう一人、何故だか分からないけれどぼくに期待をしてくれている研究仲間と合わせて、いま、研究と同人誌を一緒にやっている。とてもありがたいことだし、楽しいことだし、かつ、良い意味で厳しいことだ。もちろん他にも一緒にがんばっている(とぼくは思っている)研究仲間は居るし、同人誌は他にも良い文を書く仲間が居る。ぼくのような屑人間にしては、最後にだいぶ恵まれたな、というように思っている。

マスター時代は、性格破綻した教授の下、二年間に渡りたった一人の院生として訳の分からない時間を過ごしていた。ドクター時代は、そういった意味で、やはりとても幸運だったのだろう。彼女の居る大学に行くのが目的だったなどとは、いまさら口が裂けても言えないが。いや言っているか。

ともかく、だいぶ疲労していたときに、同人/研究仲間と出くわして、研究会の後に夕飯でも食べに行こうか、ということになった。コミュ障のぼくにしてはめずらしく、ぼくの方から誘う数少ない相手だ。たいていは断られるのだが、この日はひさしぶりにではふたりで食べに行くか、ということになり、近くの駅まで歩いて行き、蕎麦を食べた。蕎麦屋は良い。それほど値段が高くなるということもなく、たいていの場合はそれほど騒がしい客は居ないので、落ち着いて話をすることができる。

ぼくは酒を飲んでうるさくする連中を嫌悪している。が、蕎麦を食べた後、彼がウイスキーを飲みたいという。どこか静かな喫茶店に行ってケーキと紅茶でもしようよ、とぼくは思うのだが、胡乱な男が二人で顔を寄せ合ってケーキを食べるというのも、おそらくきっと、何かしら都の条例に引っかかったりするのかもしれない。小汚い街を少しうろうろして、結局、ありきたりの居酒屋に入った。

良くある半個室のような席に案内される。案の定、隣の席にいる客は、聴くに堪えない醜い声で、聴くに堪えない下種な話に興じている。そんなことを言うぼく自身は何様なのか。だけれども、少なくともぼくはあの連中のように自らの魂を貶めるような会話を友人としようとは思わないし、そういった友人を(それは何も生きている、会ったことのある友人だけに限ったことではない)持てなかった連中を、蔑みとともに憐れむ。そして何度も書いてきたように(書いてきた気がする)、そんなぼくを、きみは蔑んでくれてかまわない。

ぼくらは少し同人誌の話をして、映画や小説の話をして、適当な時間に店を出て別れた。次に会うときは互いに原稿を書いた後になるだろう。帰りの電車のなか、他人の声に惑わされることなく、書くべき物語のディテールを考えていた。

ランドドッグ&ラヴ&ピース

いろいろと限界に達した。達したといいつつ達していないクラウドリーフさんの生活だが、さすがにもう限界だといっても良いだろう。というわけで、彼女とふたりで、歩け歩け遊びをした。歩け歩け遊びとは、とにかく歩く遊びである。普段からナショジのリュックに登山靴で動き回り、丘サーファーならぬ丘登山家と揶揄されるクラウドリーフさんだが、何しろ坂道の多い土地で生まれて死んだので、多少のアップダウンならものともせずにどこまでも歩いていく。

そんなこんなで、とある駅で待ち合わせをして、ふたりで歩き始めた。目的地は生田のDOMDOM。昔々のその昔、まだぼくらが最初の大学生だったころ、大学帰りに延々DOMDOMで時間を潰していた。飲み放題のコーヒー。閉店前なのに入口に設置されるバリケード。とにかくチープなバーガーの味。延々繰り返されるDOMDOMソング。あらゆる音楽を即座に忘れていくぼくとは違い、彼女は街中で聴いた音楽がすぐ刷り込まれてしまう。一時期、何かというと「DOMDOM!」と歌っていた。そんなDOMDOMも最近めっきり見かけなくなってしまったが、彼女が生田にあるのを発見したので、そこに行ってみようということになった。

あいにくの雨の日だったけれど、散歩は楽しい。ずんずんずんずん、ぼくらは歩いた。昔から歩くのが好きだったぼくは、自宅の周辺数十キロを歩きとおしているので、この辺りも歩いたことがある。とはいえそれは既に数十年昔のことだから、地形はともかく、街の景色はだいぶ変わっている。それでもふとした小道や古い鉄塔などを見ると、その瞬間、何十年前に一人で歩き、それを見たときの記憶がよみがえったりする。それはとても楽しいことだ。

だいぶずぶぬれになりつつ、DOMDOMに到着する。ぼくらが記憶しているそれとは異なり、だいぶ高級路線に走り、健康にも気を使っています的なアピールをしている。こんなんDOMDOMじゃないやい! と泣きながらバーガーを食べる。まあ、おいしかったです。でもこんなんDOMDOMじゃないやい!

けれども、そんな、記憶と現在のギャップもまた、楽しいことだ。変わらなかったとしても変わったとしても、とにかく、比較をできるというだけの長い時間を、これは何もふたりだから、ということではなく、自分の頭だけでも良い、そういった時間を感じ取ることができるのは、それだけで楽しい。

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そのあと、電車に乗ってよみうりランドに行った。今回の目的としてDOMDOMだけではつまらないので、周囲に何かないかと探していたとき、よみうりランドを発見したのだ。そもそも遊園地というものにあまり縁がない人生を過ごしてきたが、何か直感的に、これは行かねば! という神の意志を感じた。こういうことを真顔でいうから友人がいない。などと思いつつ、現代の預言者は鈍行電車とバスを乗り継いで、雨のなかをのたのたよみうりランドに行った。偶然、ワンデイパス4,000円を3,500円にするクーポン券もあった。

バスを降りると、当然というべきか、ほとんど人気がない。当たり前だ。平日の昼間、しかも雨がかなり降っているなか、いったい誰がよみうりランドに行くというのか。しかしそれがオーディナリーピープルの浅はかさ。通はこういう日こそよみうりランドに行くのです。いや知らないけど。

ランドドッグ

ランド内にはたくさんのランドドッグが居ます。これが可愛い! もう耐えられない! あはあっ! などと、雨に濡れ不審者感丸出しの中年男が興奮しています。自分のことながら、ちょっとどうかと思うけれど、しかしランドドッグは可愛い。ネットで検索すると「キモかわいい」とか「気持ち悪い」とかいう評判だけれど、そういうことを書くひとは地獄へ堕ちろとクラウドリーフさんは思います。よみうりランドとか、もう名前を変えた方が良い。ランドドッグランドとかにして、ランドドッグを全面に押し出すべきです。ランドドッグについては http://www.yomiuriland.com/land_dog/ ここから学ぶが良い(偉そう)。

雨はまだばらばら降っています。GORE-TEXの登山靴以外はすべてびちょびちょ。でもどうせあれでしょ、雨とか降っていても、千葉にある東京何とかランドとか、すごい混んでいるんですよね。哀れですね、愚かですね、滑稽ですね。ランドドッグランドなら、雨の日なら貸し切り状態なのです。巨大な観覧車を貸し切る? もちろんできます。ジェットコースターの先頭に乗って、自分だけのために動かしてもらう? 当然です。そう、ランドドッグランドならね。

ぼくらは徹底的に堪能しました。平衡感覚に優れた彼女に比べ、途中からぼくは吐きそうになりながらでしたが、でも人生においてもっとも楽しかった日だといっても過言ではないでしょう。

メリーゴーラウンド

メリーゴーラウンドにも乗りました。観覧車もそうだけれど、こういうのに乗ったのって、生まれて初めてかもしれません。あとはジェットコースターにも乗りました。顔面にぶち当たる雨粒を無表情に受け続ける中年無職男性。ホラーか! と思いつつも、本人は楽しんでいる。眼鏡は取ったほうが良いと言われたので正直何も見えないけれど、でも楽しい。いやいま思い返してみると、たいして楽しくないな。やっぱりミラクルわんルームがおすすめ。ランドドッグが宇宙に行ったりブラックホールを避けたりしながら、最後仲間と地球に戻ってチュロスを食べるとか、何かそんな内容のアニメを観ながらぐらんぐらん揺れるアトラクション。とにかくランドドッグにしか興味がない。

といいつつ、ミルキーウェイ(だっけかな)という、ブランコに乗って、それが上昇してぐるぐる回るというやつ、これも良かったです。もう、雨に打たれて視界はけぶっているし、顔は痛いし、吐き気はするし、でも、いかにも安っぽい、寂しい音楽を聴きながらぐるぐるぐるぐる回っていると、何だかもう自分が死んでいるような、死後の世界の無時間性を静止しつつも漂っているような、そんな気持ちになりました。

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帰り際、UFOキャッチャーのなかに居るランドドッグのぬいぐるみを確保しようと、受付のお姉さんに百円玉への両替をお願いしました(両替機がなかったため)。その枚数に異様な本気を感じ取ったのでしょう。お姉さんの笑顔が若干こわばっているのが分かります。しかしランドドッグのためです。UFOキャッチャーの前面の台に百円玉を積み上げ、鷹のような眼でランドドッグを捕まえにかかります。ずぶぬれで、髪もぼさぼさ、無表情で目つきの危ないひとが、「ランドドッグ、ランドドッグ……」とぶつぶつ呟きながらキャッチャーを操作する。彼は人生を賭けている。

しかしぜんぜん捕まえられない。そんなぼくを憐れんでくれたのでしょうか。先ほどのお姉さんが、なんとランドドッグを連れてきてくれました。きょうは雨の日で、お客さんもまったく居なかったので、ランドドッグは園内には居なかったのです。ですので会ってツーショットを取るのは諦めていたのですが、何とここで会うことができた。ちゃんと雨具を着ている。ぼく+ランドドッグ、彼女+ランドドッグ、彼女+ランドドッグ+ぼく、ランドドッグ単独、と、きゃっきゃうふふと喜びながら、写真を撮りまくりました。ちなみにぼくは写真に撮られるのがほんとうに嫌で苦手な人間で、しかも写真に写っている自分を見るとほんとうにがっくりするぐらい(もとが良いわけではないのですがそれ以上に)酷い写りようでがっくりするのですが、今回のランドドッグとのツーショットは、とても良い表情で写っていました。自分の葬式ではその写真を使おうと思います。

生きているランドドッグ

UFOキャッチャーはダメでしたが、その代わり、ランドドッグに名刺をもらいました。やったね! クラウドリーフさんは仕事で得た名刺をすべて捨て、名刺入れにランドドッグの名刺だけを入れた。社会不適応者。

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あとは、お土産屋さんで、彼女と自分の誕生日が書いてあるストラップを買いました。考えてみればストラップをつけるような何かは持っていないのだけれど、まあ良いでしょう。

ストラップ

また、平日の雨の日に行ってみようと思います。