ノイズリダクション/リダクション/リダクション

仕事が終わったあと、電車に乗り、読んでいる本を開く。ぼくの背後で、サラリーマンの先輩後輩が何やら声高に酔った声で話をしている。どうやら先輩サラリーマンが、サラリーマン心得のようなものを後輩に説教しているらしい。聴くに堪えない醜い声、聴くに堪えない下種な話だった。言うまでもないが、醜い声、というのは、物理的な声の質のことを言っているのではない。それはある程度の年齢になった人間の顔と同じで、その人の人生の履歴をまざまざと表しているごまかしのきかない指標で、だから、それが醜いのであれば、それは本人の責任だ。ぼくは、そんなところで容赦し、寛容なふりをするほど、人生に絶望している訳ではない。

ぼくはひさしぶりにイヤフォンをかけ、音楽を聴くことにした。普段は集中すればシャットアウトできる周囲の雑音に心を乱されるのは、自分の心の弱さであって、良いことではない。それでもまあ、いつでもあの醜さを恬として恥じない連中に対抗できるだけマッチョであれ、というのも無理な話ではある。

外でイヤフォンをつけるときはいつでも、ぼくはある覚悟をする。それは、殺されるリスクが急激に跳ね上がることを受け入れる覚悟だ。こういうことを言うと、多くのひとは嫌な顔をするが、もうほんとうに、そういうのはどうでも良い。彼ら/彼女らの人生がぼくに何のかかわりもないのと同様、どのみちぼくの人生も、彼ら/彼女らとは何のかかわりもない。

思い出すのは、一年くらい前だっただろうか、ある傷害事件だか殺人事件があったとき、近所に住む住人が新聞のインタビューに答えて、「怖くてしばらくはイヤフォンで音楽を聴きながら歩くこともできない」とか何とか、そんなことを言っているのを読んだときのことだ。ぼくは、その住人の生き方を嫌悪する。自分は殺されることがないはずなのにという無条件の驕り。善人だから? 悪いことはしていないから? 下らない。逆なのだ。ぼくらはいつでも無条件に殺され得る。どれだけ用心しても、針を逆立てて警戒していても、それはたいてい避けられない。だけれどもそれはマッドマックス的ヒャッハーな世界につながる訳ではない。そうではなくて、繰り返すけれど、逆なのだ。だからこそ、ぼくらには「良き生」という下らない虚構への責任が生じる。虚構と分かっていてなお、ぼくらの生が徹底して偶有性の下にあるという透徹した認識こそが、ぼくらを人間たらしめる。「怖くてイヤフォンで音楽聴けない」といった善人面の厚かましさに、ぼくは鈍くとぐろを巻いた醜悪さしか感じない。その善やら正義やら常識やらは、ただ価値観のベクトルが違うだけで、ヒャッハー的モヒカンの持つ暴力性と何ら違いはない。

* * *

それでもなおイヤフォンをしたのは、諸事情によってしばらく彼女と会えない期間のことだったから、それだけだいぶ精神的に疲れていたということがあるかもしれない。

だけれども、たまたま数日後にとある研究会のようなものがあり、そこで、いま参加している同人誌にぼくを誘ってくれた研究仲間に会った。彼とは、もう一人、何故だか分からないけれどぼくに期待をしてくれている研究仲間と合わせて、いま、研究と同人誌を一緒にやっている。とてもありがたいことだし、楽しいことだし、かつ、良い意味で厳しいことだ。もちろん他にも一緒にがんばっている(とぼくは思っている)研究仲間は居るし、同人誌は他にも良い文を書く仲間が居る。ぼくのような屑人間にしては、最後にだいぶ恵まれたな、というように思っている。

マスター時代は、性格破綻した教授の下、二年間に渡りたった一人の院生として訳の分からない時間を過ごしていた。ドクター時代は、そういった意味で、やはりとても幸運だったのだろう。彼女の居る大学に行くのが目的だったなどとは、いまさら口が裂けても言えないが。いや言っているか。

ともかく、だいぶ疲労していたときに、同人/研究仲間と出くわして、研究会の後に夕飯でも食べに行こうか、ということになった。コミュ障のぼくにしてはめずらしく、ぼくの方から誘う数少ない相手だ。たいていは断られるのだが、この日はひさしぶりにではふたりで食べに行くか、ということになり、近くの駅まで歩いて行き、蕎麦を食べた。蕎麦屋は良い。それほど値段が高くなるということもなく、たいていの場合はそれほど騒がしい客は居ないので、落ち着いて話をすることができる。

ぼくは酒を飲んでうるさくする連中を嫌悪している。が、蕎麦を食べた後、彼がウイスキーを飲みたいという。どこか静かな喫茶店に行ってケーキと紅茶でもしようよ、とぼくは思うのだが、胡乱な男が二人で顔を寄せ合ってケーキを食べるというのも、おそらくきっと、何かしら都の条例に引っかかったりするのかもしれない。小汚い街を少しうろうろして、結局、ありきたりの居酒屋に入った。

良くある半個室のような席に案内される。案の定、隣の席にいる客は、聴くに堪えない醜い声で、聴くに堪えない下種な話に興じている。そんなことを言うぼく自身は何様なのか。だけれども、少なくともぼくはあの連中のように自らの魂を貶めるような会話を友人としようとは思わないし、そういった友人を(それは何も生きている、会ったことのある友人だけに限ったことではない)持てなかった連中を、蔑みとともに憐れむ。そして何度も書いてきたように(書いてきた気がする)、そんなぼくを、きみは蔑んでくれてかまわない。

ぼくらは少し同人誌の話をして、映画や小説の話をして、適当な時間に店を出て別れた。次に会うときは互いに原稿を書いた後になるだろう。帰りの電車のなか、他人の声に惑わされることなく、書くべき物語のディテールを考えていた。

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