肺のない人のように

彼女と都心のホテルに泊まった。ぼくだけ先に到着しフロントでチェックインをする。それなりのホテルだったのだけれど、それが却って悪かったのかもしれない。露骨に不審者扱いをされ、かなり落ち込んだ。まあ、自分の見た目を考えれば、仕方のないことかもしれない。どうにも、きちんとした格好というものができない。これはもう前世の悪業のせいなので仕方がない。仕方がない仕方がない、なまねこなまねこと呟きながらホテルの近くを散歩する。その日は大きな花火大会があったらしく、人混みは少し怖いくらいだ。茫然としていると、恐らく台湾人ではないかと思うのだが(根拠はないが、大陸っぽい雰囲気がなかった)、女の子が英語で道を尋ねてくる。ぼくらが居る場所から少し離れたところにある駅で電車に乗り、そこから数駅乗ったところが彼女の目的地だった。こういうとき、ぼくは決して英語を話さない。主義ではなく、単純に話せないのだ。だけれども、笑顔とボディランゲージとラブアンドピースの波動でだいたいどうにかなる。自慢ではないが「悪意のない人間」を演じさせると人類70億人中35億人目くらいに位置するほどの才人なので、こっちですよおいでおいでと手振りで示しつつ、混んでいる道を5分ほど歩き、もう迷いようのないところまで連れて行った。若干フリーな地縛霊か土地鑑のある妖怪かと思われただけかもしれないが、ともかく道を訊ねられるくらいには存在を認められたことに少し気分が明るくなり、やがて到着した彼女と落ちあい、それからは少しのんびり過ごした。

休み中はお盆の準備と後片づけで、だいぶ時間を潰した。とはいえそれは必要なことなので仕方がない。ついでに、ひさしぶりにいろいろなものの片づけをすることにした。いろいろなものといっても、ぼくの持ち物など、機械類と本しかない。ああ、そういえば飲んでいる頭痛薬のPTPシートを溜めこんでいたのだけれど、ちょっと溜まりすぎて病気っぽい感じになってきたので、思い切って捨てた。プラスティックゴミの日に出したのだけれど、透明なビニール袋に詰まったPTPシートは、ちょっと事件性を感じさせて困った。話を戻すと、機械類は必要最小限しか持っていないので、片づけるのは、結局本だけになる。そこで再びBankersの703を購入して、ぽんぽこぽんぽこ本を詰め込んでいった。いまの時点で24箱。大した量でもないけれど、白い段ボールが積み重なったのを眺めていると、気持ちが穏やかになっていく。「サトリ!」と突然叫ぶ。別に何も悟っていない。そういえば後期から始まる講義の準備を何もしていない。今回はこれまで喋ってきたこととはまったく講義内容が変わるので非常にまずい。まずいので、必要な資料だけは段ボールから出して枕元に積んでおく(ぼくの居住スペースはだいたい2畳に収まり、そこで布団を敷き、論文を書き、本を読み、あとは体育座りをしている)。積んでおくだけで、実はまだ何もやっていない。9月の研究会までに書いておくべき論文もまだ頭のなかの不定形の塊でしかない。「サトリ!」もう一度叫んでみるが、悟ってみたところで何かが解決する訳ではない。

そんなこんなでお盆休みも終わった。きれいになった部屋の真ん中で体育座りをする。そういえば、書類整理をしてるときに、昔とある勉強会に参加したときの自己紹介用紙みたいなものがでてきた。そこでひとことコメントみたいなものがあるのだが、ぼくのそれは、「出してくれ、出してくれ! 俺は無実だ ぐえへへへ」だった。いったい何を考えてこんなコメントを載せたのかは思い出せないけれども、恐らく、生まれついての不審者たるぼくは、ただそれだけで無実ではない。

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