良い日。

土曜日に親知らずを抜き、だんだん頬が腫れてくるなか、西荻窪の本屋ロカンタンさんに行ってきました。月曜社さんの本を幾冊か取り寄せをお願いしていたのが届いたのと、あとは『スヌープ・ドッグのお料理教室』(スヌープ・ドッグ、KANA訳、晶文社、2022)ほか購入したい本があったため。ぼくの料理スキルはこれでさらに躍進する予定です。

本屋ロカンタンさんは前にも書きましたが選書のセンスが非常に良く、ぼく自身の興味関心と重なるところも多いので、いまは本を買うときはだいたいここが中心になっています。西荻窪は(ますます外に出るのが怖くなっているぼくにとっては)遠いですが、行くと楽しいですね。

ロカンタンさんの外観はこんな感じ。すごく広くはありませんが、その分良い本がぎゅっと詰まって美しく並んでいます。

ただでさえコミュニケーション能力に不安のあるぼくですが、きょうは珍しく店主の(映画批評家でもある)萩野さんにお願いをして、自著を撮らせていただきました。とても好きな書店に自分の本が置かれることなど、もうぼくの人生においてはないと思った方が良いでしょう。ですので死ぬる思いで「写真を撮っても良いでしょうか?」などと話しかけたりもするのです。顎の痛みが激しくなっており、自分でも何をしゃべっているのかもはや判然とせず、意識も朦朧としています。しかし萩野さんは気持ちよく対応してくださり、わざわざぼくの本を表紙が見えるように置いてくださいます。ありがたや。

わざわざ平積み状態にしてくださいました。やらせだっていいじゃない。

そんなこんなで本の買い出し紀行から戻ってきて、買おうと思っていた本を二冊買い忘れていたことに気づきました。がっくり。まあ、また買いに行けばよいでしょう。ロカンタンさん、とても良い本屋さんなので、西荻窪近辺に行かれることがあればぜひ覗いてみてください。西荻窪はその他にもたくさん良いお店がありますのでお勧めです。

本を抱えて帰ってきて、家にたどり着くころには顎の痛みですっかりばったり倒れ屋さん(チェブラーシカ)です。一緒に西荻窪へ行った彼女はしかし元気に庭に出て、片隅からジャガイモを掘り出してきました。痩せた土地なのでこの大きさが精いっぱいのようですが、小さな仲間たちからすれば何食分にもなる巨大ジャガイモ。

左は新しい仲間。イチゴを抱えたトラ。

夕方、固いモノが食べられないぼくに彼女が寒天ゼリーを作ってくれました。ありがたや。いやもちろん、ぼくだって作ってもらってばかりではありません。彼女のお弁当はぼくが作りますし、しかもきょうはロカンタンさんでスヌープ・ドッグのお料理教室を買ったのでお弁当スキルもさらにグレードアップです。とにもかくにも寒天はおいしかった。

ちょっと宇宙っぽい寒天になりました。銀河が浮かんでいそう。
オシャレな感じ。しかし食べるのは顎が腫れて唸っている不審者なのです。

そう、あとは図書館に本を返しに行くついでに、亀がたくさん居る池を観察してきました。もう痛みでふらふらになりつつ、それでも亀を見ていると心が和みます。少し小柄で、いつもアクティブに他の亀に向かっていき挨拶をする亀が居て、ぼくらはそれを挨拶亀と呼んでいるのですが、きょうはその亀が他の亀の顔をぺちぺちぺちぺちと挟んでいて(強く叩くわけではありません)、その謎行動に思わず笑ってしまいました。帰ってから調べてみたらどうやら求愛行動らしい。もう春ですね。

夜、鏡の前に立って口の中をマグライトで照らしたら、親知らずを抜いたところがぽっかりと穴になっていて恐ろしい気もしますが、でも、なんだかんだでなかなか良い一日だったように思います。やるべきことが山積み過ぎて何が何だか分からない、ほんの少し先の未来さえ予測できない状況が続きますが、またこんな感じの日が来ると、いいなあ。

[アーカイブ]ピカピカ(2006/06/16)

技術者として何かのモノを作るのは、それがソフトであれハードであれ楽しいものです。研究者として論文を書くのも、同人誌に小説を書くのも同じくらい楽しいです。けれどもそれらが自分の手のもとだけで終わるのであれば、本当の意味ではそのモノは完成しないのではないか。それはプログラマをしていたときから、あるいはそのもっと前、中退した大学で人形劇をやっていたときから感じていたことでした。いまは本について同じことを感じています。それを受け取ってくれる誰かの手に届いて初めてそれは完成する。あたりまえのことかもしれませんが、改めてそのことを実感しています。下記の投稿をしたのは16年前。でも、未だにぼくは自分が作った製品が実際に使われている現場を見たことがありません。それはやっぱり、ちょっと残念なことですね。

週の前半は仕事へ行き、後半は院へ通う。そううまく切り分けられれば良いのだけれど、現実にはなかなかうまくいかない。とりあえず嘘と体力で押し通すしかなく、そんな生活が気に入っているのも確かではある。

ずいぶん長い間、あるメーカーの工場内にある研究開発室で働いている。制御系の仕事は、少人数で数年間同じプロジェクトを続けることが多い。ウェブやらネットワークやらという華々しい世界からは遠いが、職人的な世界が肌に合えば居心地は良い(念のため。ウェブ系の仕事が華やかなだけだなどというつもりはまったくない。どこの世界も、喜びもあれば苦労もある。剥き出しの基盤ばかり毎日相手にしていると何となくそちらの世界が格好よく見えることもある、という程度の意味だと思ってくれれば嬉しい)。

週の初め、工場の中を歩いて研究室へ歩いて行く途中で、出荷を待つ製品が木枠の中でピカピカ輝いていた。大変な思いをして開発したソフトを載せた製品がこうして実際に出荷されて行くのを見ると、やはり感慨深いものがある。

ぼくはこの仕事についてから、一度も自分の作ったものが現場で動いているのを見たことがない。海外向けの製品では当然現地にまでは行けないし、国内向けであっても、どこかの企業のコンビナートなどで使われるのであれば、ただのソフトウェア開発者が現場にまで行くということはまずない。

自分の作ったソフトが巨大な機械を動かしたり、あるいは極微細な現象を計測したりするのを見るのは、とても楽しい。ぼくはやはり、この分野が性に合っている。でも、やはり道具は、使われた時点で初めて完成するのだと思う。ソフトを作り、ハードに載せ、試験をする。それは確かに楽しい。生産ラインに乗り、量産され、出荷を待つ。それは確かに美しい。けれども、それだけではない。それを実際に使う人々が、彼らの日々の労働の中で少しずつ使いこなし馴染んでいくとき、そこでようやくその製品は完成する。

いつかは自分の作ったものが完成するその最後までを見届けたい。大それた願いではないけれど、この分野で働いている限り、どうにも難しいようだ。

帰りに同じ場所を通ったときにはすでに全部出荷された後だった。いずれにせよ、暗闇の中では、もうピカピカ輝いてはいなかっただろう。

ツチノコオカルトシンクロニシティ

例えば、ちょっと面白かったこと。地元の本屋に自分の本が並んでいるのを(根が単純なので)わーいと思って見に行ったとき、たまたますぐ近くにあり目にとまって購入した『フューチャーデザインと哲学』(西條辰義他編集、勁草書房、2021)の一つの章を、院生時代に良く知っていた人が執筆していた。懐かしくなって連絡をしようかと思ったけれど、まあ、元気にやっていればそれでいいかと思ってそれきりになった。

また別の日にこれもたまたま購入した『技術と文化のメディア論』(梅田拓也他編集、ナカニシヤ出版、2021)を読んでいたら墓石について書かれた章があった。そんな研究をしている人も珍しいのでその章の執筆者を見たら、またもや院生時代に少し知り合いだった人だった。彼はぼくらがやっている同人誌に寄稿してくれたこともある。品の良い文章を書くなあと思っていた。懐かしくなったけれど、彼にもやはり、特に連絡はしなかった。この本は湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」でぼくの本と共に選書されているものの一冊。

その他にもいろいろ。最近は本に関連したシンクロニシティがけっこうあった。無論、狭い世界だから当たり前だと言えば、それはそうなのかもしれない。けれどもやはりそれはシンクロニシティなのだと思う。無数に出版される本のうち、たまたま手に取ったものに誰かの名前があること、院生時代はぜんぜん専門が違っていた誰かが、ぼくの研究分野で共著を出しているということ。とはいえそれ自体は普通のことで、最近はそういった普通のできごとを通して見えるシンクロニシティが多い。そういう時期なのだろう。

だけれども、シンクロニシティはおかしな形を取って現れることの方が多い。ぼくはけっこう、そういったシンクロニシティとかコインシデンタリーなできごととかを重視している。重視しているという表現は「重視する私」を主にしているようなので、なんだろう、そういったものに避けようもなく目が行ってしまうという感じだろうか。そしてそういったものを凄く面白いなあと感じる。しんくろ山の熊のことならおもしろい。多くの場合、ぼくが見たり感じたりするそれらのものをそのまま口にすれば正気を疑われるかもしれない。しかしぼく自身、自分の主観は自分の主観でしかないと割り切っているので、要するにそれは何かの物語を読み、読み解いているようなものでしかない。でしかない、だけれども、とても楽しいことでもある。

それらが指し示している意味はよく分からない。けれどもそういったシンクロニシティが、惰性で飛行しつつ徐々に高度を落としていくぼくらの人生を、その瞬間にすっと掴んで引き上げる。見回す、ということを忘れて飛んでいたことをふいに思い出したりする。

或る日彼女とフェリーに乗っていたとき、彼女がぼくに、きみのお父さんは海でいろいろ不思議なものを見たのかな、と訊ねた。たぶんオカルトとか妖怪とか、何かそういった意味では、父は奇妙なものは見なかったと思う。何しろ理性の塊のような人だったし。信じられないような自然現象については幾度か話してくれたけれども、それは例えば子供のころにぼくがツチノコに襲われたのとはまったく次元が異なるだろう(ツチノコはツチノコで、ある出来事とシンクロしていたのだが、それはまた別のお話になる)。

もちろん、ぼくは本当にツチノコが実在していて、それにぼくが襲われたというのが客観的な事実だと思っているわけではない。それは完璧なまでに主観の世界における出来事でしかない。ツチノコは極端な例かもしれないけれども、それでも、そういった訳の分からない主観的な記憶の堆積は、論理を積み上げなければならない研究にも影のように投射されている。

ぼくは自分がときおり見るおかしなものについて父に話したりはしなかった。というよりも、そもそも父はぼくに対して常に議論をしかけてくるようなところがあった。まだ幼かったころには物語も読んでくれたけれど。だからどのみち、「いやツチノコがさあ! それが示しているところのものがさあ!」などとは、ちょっと言えなかったと思う。BBCラジオの短波放送を聴き、わざわざThe Economistを海を越えて購読しているような人だったので、それをベースにしかけられる議論に対して「ツチノコがさあ!」はさすがに無理がある。

だけれども、この年になって、ぼくもだいぶ自分の主観を変換する術を覚えた。論文も、自分なりのかたちで論理に色をつけることができるようになったのではないかと感じている。無論、まだまだどうしようもなく稚拙なレベルであることは言うまでもないとしても。だから、いまであれば、ストレートにツチノコではなく、ぼくの感じているシンクロニシティだらけの世界についても、父と議論ができるのではないかと思うし、実際、別段、手遅れということはないのだとも思っている。

まあ、向こうは相当呆れて笑うだろうけれど。

オブセッション

例えば、いまどこかで起きている出来事に対して何ができるのかというのは、職業とか年齢とかあらゆる属性を超えて、誰でも考えることだと思います。ぼくの場合は半分研究者ですので、自分の研究テーマを通して何ができるのか、何をできているのかというのは常に頭のなかにあります。これが例えば創薬で、具体的なある病気を治す薬を開発するぜ! とかだとけっこう明快かもしれません(実際には途轍もなく複雑で一進一退で無関係な雑事に足を引っ張られることばかりなのでしょうが)。けれども思想系になると、なかなかはっきりすっきり、これはこの世界の役に立っているぜ! という感じにならないかもしれない。というかなったら危ない。思想改造か、みたいな。でもやっぱり根底には凄まじい強迫観念はあると思うのです。多くの人がそうであるように、何とかしなきゃという強迫観念。もちろん、ぼくが尊敬すると或る研究仲間のように実際の問題のなかに飛び込んで行ってそこで戦うという人も確かに居るし、別段思想系だからといって直接行動につながらないということではありません。でもどうしてもそれができないタイプも恐らく居て、それは格好つけとか斜に構えるとかではなくて、思想の表現のスタイルなのではないかと感じています。例えば彫刻家に、表現したいことを音楽でやってみて、というのは(人によってはそれが新たな表現方法につながるかもしれませんが)一般的には無茶な要求です。でも強迫観念はある。自分はいったい何をやっているのか? 何かをやれているのか? そしてそれには両面あって、自分のなかでは確信があるにしても、その確信は世界に対しては実際何の保証にもならない。そんなとき、外からの反応があるというのは、結構、誰にとっても救いになるのではないでしょうか。承認欲求とかの話ではありません。強迫観念は迫られるものではなく迫るものが主だからこそどうしようもないのであって、前に書いた「ぼくらこそが救援隊だ」というサン・テグジュペリの言葉は、あれはヒロイズムとかではない。徹底して自己なんてものを超越した、繰り返しますが誰もがきっと心に抱え続けている責任のお話だとぼくは思います。

そんなこんなで、話がつながるのかどうか、いえつながっているのですが、自著広告です。湘南T-SITEの蔦屋書店にて開催中(02/12~03/31)のフェア「ソーシャルメディアとデジタルテクノロジーを考える」で、ありがたいことに私の本を採り上げてもらっています。



これ、ぜひ上記のリンク先をご覧ください。選書のセンスが非常に良くて、現代社会を考えるうえでメディアとテクノロジーは不可欠の要素だと思いますが、それらについての新しい面白い本がたくさんあります。ぼくも半分は持っているのですが、うーん、現地に行って手に取って購入したいです。とてもお勧めなので、こういうところに自分の本を混ぜてもらえるのはとてもありがたく、嬉しいことです。

ぼくの本については「「デジタル・ネイチャー」などという言葉に我慢ならない方々にとっては「スカッ」とする内容となっています。」とのこと。私自身の人間性はスカッと爽やかの対極にあるようなオブセッションの塊人間で陰鬱で陰惨なのですが、でも、何か嬉しいですね。書いてよかったなと思えます。

湘南に行かれることがあれば、お立ち寄りいただければ幸いです。

[アーカイブ]世界をハッピーエンドで終わらせるために(2007/05/06)

以下の文中で6630といっているのはVodafone 702NKのことです。こういう尖ったデザインの携帯電話ってなくなりましたよね。かわいくてとても気に入っていました。

ふと、6630(というより702NKなのだが、電話として使っていないぼくからすればやはり6630と言った方がしっくりくる)にゲームを入れてみた。自分の動かすネズミが、ハエ、てんとう虫、ゴキブリ、蛙、その他正体不明の生き物を避けながら迷路を走り回ってチーズを集めるという、他愛もないものだ。

普段、ぼくはほとんどまったくと言って良いほどゲームをやらない。珍しくやってみてその理由を思い出した。敵に捕まると、ネズミは羽の生えた(ネズミの) 天使になって、昇天してしまう。その瞬間、とても胸が痛むのだ。元来、落書きで描いた動物さえ消せなくなってしまうようなやっかいな性格をしているので、たかがゲームと言ってネズミを死なせたままにはできなくなってしまう。

そこで、無駄に時間を費やし、ようやく最初の一匹で全面クリアするまで腕を上げた。クリアしてから、即座にゲームはアンインストールした。やれやれ、何をやっているんだか! この時間を勉強に当てれば、ささやかだけれど、まだしも世界の役に立つ。

けれども、これはこれで良い経験になった。

操作を誤ってネズミが敵に捕まる。昇天する前に、すばやくゲームをリセットする。そうして、失敗した歴史を書き換えてしまう。ハッピーエンドで終わるまで、歴史を上書きしていく。

実際の世界ではハッピーエンドなどあり得ない。どれだけ身体を鍛え、知識を蓄え、資金力を得たところで、日々世界中で殺されていく無数の人々を救うことなどできはしない。それでも、ひとが一生懸命勉強をし、社会で働くとすれば、その根幹には、例え負け戦であろうとも、そのような現実を何とかしたいと願う心があるからだろう。

とは言え、やはりそれは負け戦だ。こうしている一瞬一瞬、ぼくには想像もつかないような苦悩と苦痛の中で、多くの人々が死んでいく。それはやっぱり、考えるだにしんどいことだ。

だからせめて、小さなゲームの中でくらい、ネズミを一匹も殺さずに世界を終わりに導こうとする。自己満足? もちろん、その通り。それでもそんな、嘘でもささやかな勝利が、ほんの少しだけれどぼくに力を与えてくれる。そのほんの少しの力を頼りに、明日また一歩、がんばることができる。

ボイジャー・エンドクレジット

あまり大きな声では言えないことですが、ここ一年ほどめちゃくちゃ映画を観ています。なぜ大きな声で言えないのか。それはそんな時間があるのなら研究をしろという正論オバケに襲われるからです。しかし映画って本当に素晴らしいですよね。そしてメディア論をやっていますなんていうことのいちばんのメリットは、映画を観ているだけでも「研究しているもん!」と言い張れるところにあります。しかもぼくはあらゆる技術をメディア技術とする立場を取るのでこれは強い。もう何をやっても研究だと言い張れる。言い張るだけで実際のところどうなのかはぼく自身にも分かりません。なにも分からないまま人生は過ぎていきます。

ところでぼくは友人が少ない人間ですが、根本的なところで美意識の異なる人を受け入れることに対する許容量が極端に少ないのもその原因の一つにあるでしょう。映画を観るとき、エンドクレジットを最後まで観るかどうかも、その人と美意識が一致するかどうかを判断する基準の大きな要素になります。いやもう、これは本当に、最後まで観ない人とはつき合えない。大学時代、彼女と初めて二人で映画を観に行ったとき――何しろ都会の映画館なんてハイカラすぎて恐ろしく恐ろしくて死ぬる思いで行ったのですが――彼女もぼくと同じ感覚を持っていて、それは本当に嬉しかったのをよく覚えています。

それはともかくエンドクレジット。映画って、やっぱり一つの世界なんですよね。それだけで完成された一つの世界。その奇跡的に美しい物語世界が、あるとき偶然どこからかやってきて、薄暗い映画館のスクリーンに映し出される。ぼくらの世界と、その一点、その一瞬、奇跡として交差する。そして90分、あるいは120分、ぼくらはその完璧な世界を垣間見ることができる。どこか別の宇宙、別の次元からやってきた完璧で美しい物語世界。でも時間がくるとそれはまたどこか別の宇宙へと遠ざかっていく。物語が終わり、ぼくという目をスイングバイして、映画は再び真っ暗な宇宙をまっすぐ遠ざかっていく。その直線運動こそがエンドクレジットなのです。

だからエンドクレジットを観ない人というのは、これは偏見を承知で言います。というかこのブログ偏見しかありませんが、エンドクレジットを観ない人というのは、映画が在るということの奇跡を知らない人です。その完璧な物語世界と出会い別れる、人生において一度きりの奇跡の美しさと恐ろしさ、それを見送るときの喜びと悲しみを知らない人なのです。ぼくはそう思います。

気に入った映画は何度も何度も、何度も何度も何度も観ます。それでもその一回ずつが絶対的な固有性を帯びた、繰り返されることの決してない奇跡です。遠ざかっていくボイジャーを見送るぼくら。けれどもそれが残す軌跡はぼくらの心に永遠に残ります。それが感じ取れない人と、ぼくは映画館には行きたくない。

などと真顔で言うぼくなのできょうも友人がいませんが、でもまあ、映画がある人生、別段、寂しくはありません。

[アーカイブ]Weltschmerz(2008/05/14)

二つ目の大学に通っていたとき、第二外国語でドイツ語を選択しました。ぼくはどのような言語であっても文法を覚えるのは少しばかり得意でして、これで苦労するということはあまりありません。けれどもみなさんご存知の通り、文法なんてのは言葉を使う上ではあまり役に立たないことが多い。いやそんなことないのかもしれないけれど。ともかく、ぼくは致命的に発音がダメなのです。いまだにLとRの違いが分からない。母音がA、I、U、E、O以外にあるなんて悪夢です。まあ実際には、日本語にも多くの母音があるのかもしれませんが。

そんなこんなでして、語学の授業っていうのはなかなかに苦痛でした。あるとき、英語のspeakingの試験があり、どう考えても俺には無理だと判断したぼくは、コンビニで買ったお酒をぐっと飲んでから試験に臨んだことがあるくらいです。普段は神聖な学び舎で飲酒など言語道断と考えているのですが、ちょっとこのときばかりは酔わなければやっていられなかった。そうか、だから発音が苦手っていうより、発音が苦手な自分をみんなに見られるのが嫌だっていう自分の卑小さが問題なのかもしれませんね。

おっと、そんなことが話したかった訳ではないのです。英語を話すのが苦手なために被った数々の苦難についてはまたいつかお話しするとして、今回はドイツ語のお話でした。その大学ではドイツ語を受講する学生があまり多くなく、第二外国語の必修単位を埋めてしまった後、さらに特講まで進む生徒となるとまず居ません。ぼくのときもそうでして、前期後期の一年間、先生と二人きりでゲーテの『詩と真実』の原典訳をするというとても贅沢な時間を過ごすことができました。会話の授業で先生と二人きりなんていったら失禁ものですが、翻訳であればこれは楽しい。他の生徒がいないので自分のペースで、自分の文体で訳すことができます(本当はこれはあまり良くなくて、翻訳は何人もの生徒で互いに批評しあいながらやる方が、より完成度の高いものができるのですが)。

先生は初老の女性で、学問に関しては極めて真剣かつオープンな方でした。そう言えば、他の大学に通っていた相棒も何故かたまに遊びに来ては、一緒に講義を受けたりもしました。こんな話をするつもりでもなかったのだけれど、良い思い出だからか、ついつい書いてしまった。

今回のお話はドイツ語のWeltschmerzについてです。Weltは世界、Schmerzは肉体的あるいは精神的な苦痛を意味します。すなわち、直訳するとWeltschmerzは「世界苦」となります。世界苦。何やら大仰な雰囲気ですが、実際にはどんな意味なのでしょうか。早速辞書を引いてみましょう。マイスター独和辞典によると、

世界苦、厭世観。

だそうです。ちょっとこれ、不思議ではないでしょうか。「世界苦」というと、あり得ざる重荷を一身に背負うアトラスの神話を思い浮かべます。あるいは『人間の土地』(サン・テグジュペリ著、堀口大學訳、新潮文庫)のラストにおいて、電車の中で折り重なって眠る労働者たちを見て彼が漏らす内的独白、

彼らは、すこしも自分たちの運命に悩んでいはしない。いまぼくを悩ますのは、慈悲心ではない。永久にたえず破れつづける傷口のために悲しもうというのでもない。その傷口をもつ者は感じないのだ。この場合、そこなわれる者、傷つく者は、個人ではなく、人類とでもいうような、何者かだ。

同書、p.248

を思い浮かべても良いかもしれません。あるいはまた、『悪魔と神』(サルトル、生島遼一訳、新潮文庫)のラストにおけるゲッツの独白、

おれは心ならずも指揮をとる。だが、けっして途中ではやめぬ。おれを信じろ、この戦いを勝つ機会が一つあれば、おれはかならず勝つ。[中略]しゃべるな。ゆけ。[中略]これから人間の支配がはじまるのだ。美しい門出だ。さあ、ナスチ、おれは屠殺者と死刑執行人になろう。[中略]心配するな。おれは途中で、まいりやせん。それ以外に愛し方がないから、おれはあの連中をおびえさせるのだ。ほかに服従しようがないから、命令するのだ。このほかに、みんなとともにいるしか仕方がないから、おれは頭上のあのからっぽの天を相手に孤独にとどまるのだ。なすべきこの戦いがある。おれはやるつもりだ。

同書、p.204

を想起することも可能でしょう。人類、世界、あるいは歴史という、総体としての何かが傷つくのを感じざるを得ないある一人の人間の苦悩。それは高慢ではあるかもしれませんが、しかし同時に美しく、決して損ねられない誇りに満ちたものでもあります。

一方、「厭世観」というと、世界を放り出してしまったアトラスというか何というか、これはちょっと身も蓋もない感じです。もう俺は嫌だよ、家に篭って外の世界とは縁を切るよ、という雰囲気ですね。「世界苦」とはまったく逆のベクトルを持っている気がします。「世界苦」においては存在した、人類の傷そのものを我が身に受け、それでもなおかつ運命に向かって立ち向かい一歩踏み出す人間の、神にも勝る悲劇的なまでの気高さ、そういったものが、「厭世観」ではむしろ誰でも良い誰かさんのただ内側に篭ってしまっている。

もちろん、どちらが良い悪い、という話ではありません。が、何とも言えずに不思議な言葉です。種明かしをしてしまうと、これは『ホテル・ニューハンプシャー』(ジョン・アーヴィング著、中野圭二訳、新潮文庫)における、というより、アーヴィングにおけるテーマの一つなのです。

リリーの世界苦、とフランクはのちにそれを呼ぶようになった。「おれたち他の人間にも悩みはある」フランクは言う。「おれたちにも悲しみはあるが、ただの普通の悩みや苦しみだ。ところがリリーのは、本当の世界苦だよ。普通〝厭世〟と翻訳されるけど、それはまちがっている」フランクはぼくたちに講釈をした。「リリーが抱いている気持ちは、そんななまやさしいものじゃない。リリーのヴェルトシュメルツは〝世界の痛み〟みたいなもんなんだ。文字通りには〝世界〟――それがヴェルトだ――と〝痛み〟、シュメルツというのはそういうことだ。苦痛、真の痛みだよ。リリーが持っているのは、世界の痛みだ」フランクは誇らしげに言った。

同書、p.53

Weltschmerzという語の持つ本質を見事に表した文章だと思います。そんなこんなで、『人間の土地』、『悪魔と神』、『ホテル・ニューハンプシャー』はすべて名著なのでお勧めです。