毎日がお祝いさ

今年最後の講義を無事に終えました。来年度から講義名が変わるのですが、そちらも引き続き担当させてもらえるとのこと。いままではずっと一限だったのが三限になるので、気持ち的にはだいぶ楽になります。早起きは苦手です。ともかくこの四年間(まだ今年度ということでは二回残っていますが)一度も遅刻せずに一限の講義をし続けたので、ものぐさなまけものの私にしてはずいぶんがんばったのではないかと思います。もっとも、学生からすれば、たまには講師が遅れてくるくらいの方が良い、ということもあるかもしれませんね。

だいぶ冬も深まってきて、彼女のフィールドワークも今年は冬仕舞いです。明日はいろいろ無事に終わったお祝いをしようね、と彼女に言います。何だか最近、会うたびにお祝いをしているね、と返されて、そういえばそうだなあと思いました。

人生はRPGではない。あたりまえですが、それにしては、こちらがレベルアップしていないにもかかわらず、現れる敵はどんどん強くなっていきます。これはまったく困りもの。それでもどうにかきょうを生き終え、そうしたら、それはやっぱりお祝いしなくてはなりません。

投稿していた論文は、めずらしくほとんど修正なしに査読が通りました。でも、それは一長一短で、いまの研究テーマが深まってきたということでもある一方で、慣れてきてしまった、ということでもあるかもしれません。最近は、まっとうな研究者からすれば少し眉を顰められそうなテーマやつながりのなかで何かをする、ということが増えてきているので、ここらでちょっとばかり道をずらしてみるか、という気もしています。どのみち臆病なのでそうそう簡単に道を外れることはできませんし、同時に、どのみち敵を作ってしまう性格なので放っておいても道から追い出されはするのでしょう。要するに、先はまったく分かりません。でも、何だか面白いなあと思うのです。

論文では顔の話をたまに書きます。レヴィナス。剥き出しの顔。別に関係がないのですが、顔を見られるのも顔を見るのも苦手です。ひとの顔、特に目を見ると、自分の目を抉られるような痛みを感じます。それは仮想の痛みなので、いっさいの媒介項なしに直接的な痛みとして脳に響き、発狂しそうになります。でも、所詮それは仮想の痛みでしかないので、自分の指で目を強く抑え、現実の痛みで上書きをします。

講義が終わると、いろいろな子が来ます。まったく話が分からないという子、出席少ないけれどどうしましょうという子。目を合わせると痛みが来るので、目をきょどきょどと逸らしつつ、息を荒げ(苦痛の予感を必死に抑えている)、あへあへ、と返事をします。こんな人間でも、それなりにこんな年になるまで生きている。そういう現実こそが、きっと彼女たちにとっていちばん役立つ知識になるのではないでしょうか。なりませんね。

講義では、Youtubeやドキュメンタリーや、ネット上の様々なデータを使って、現代におけるメディアの機能や特性を話します。でもまあ、やっぱり教室のなかだけじゃね、と思ったりもします。あれは数か月前だったでしょうか。どこかに行く彼女を送って、夜の羽田空港に行きました。ふたりで滑走路を見下ろすテラスに行きました。驚くほど短い間隔で、いつまでもいつまでも飛行機が離着陸を繰り返しています。ただそれだけの光景なのですが、ぼくが語る千の言葉のその千倍、ぼくらが観ていたあの光景は、直観を通してぼくらに巨大な何かを伝えてくれます。その巨大さとは、要するに、ぼくらが生きている現代それ自体の巨大さです。善悪などという下らない尺度を超えたその巨大さ。

だからさ、みんなで羽田へ夜景を観にいこうよ。講義を受けている女子大生たちにあへあへと声をかけ、職を失い、新聞に名前が載り、警察に捕まります。そんなことにならなかったので、やっぱり、無事に講義を終えたお祝いをしなくてはならないのです。

どなちあ・らんどざっふぁー

まだネットもまともになかったころの音楽。そのある一節で流れる音を、ふいに思いだしたりする。あるいはラジオ(彼女はインターネットでラジオを聴き、ぼくも隣でそれを聴く)で音楽を聴いていると、そんな音を思いださせる新しい音が流れたりする。彼女に、この音・・・、というと、それが伝わったりする。

本棚を整理していたら、大判の写真が出てきた。ずっとずっと昔、ぼくらにしてはめずらしく一瞬で仲良くなったある女の子の撮った写真。もちろん、いまではもう女の子ではないだろう。彼女とその子とぼくと、三人でどこかへ行った。あれはどこだったか、寂れた遊園地だったような気がする。でもそれは、少し色が褪せた写真に引きずられた虚構の記憶かもしれない。だけれども、虚構であったとしても、それは真実であることを妨げない。

先日、とある場所で自分の専門とキリスト教を絡めた、ちょっと胡散臭いといえば胡散臭いようなお話をする機会があった。意外に大きなホールのようなところで、緊張するかな、と思ったけれど、まったく緊張せずに楽しく話すことができた。昔、人形劇をしていたころ、こんなところでいちどは仲間と劇をしたいなと思っていたような舞台。当時の仲間はみな、縁が切れるか憎悪し合うかこの世界から退場したか、ともかくいまは彼女しか残っていないけれど、それはそれだ。

HDDの整理を、時間を見つつ少しずつ進めている。いまとなっては想像もつかないけれど、初めてSONYのデジカメを買った頃には4MBのメモリースティックなんてものがあった。昔は4MBもあればずいぶんいろいろ入れることができたけれど、いまでは1回深呼吸をするくらいの記録程度しかできないかもしれない。ともかくTB単位の外付けHDDを購入し、すべてのデータをそこに詰めていく。詰め終わったデータはまっさらにしてから破壊する。

どのみちぼくらはすべての完全な記憶を頭のなかに持ってしまっているのだから、デジタルなデータそのものにはあまり意味がない。モノとしての記録に執着する気はない。ただ、デジタルだろうが何だろうがぼくらは時間の流れのなかをじたばたもがきながら流されてきて、その此岸と彼岸に遺された波跡の化石のような、そこにはやはり寂しさと愛しさがある。なくてもかまわないが、あっても、それはそれで、眺めているとどこか穏やかな気持ちになる。既にすべてが終わってしまったあとの誰かの視線。

例によって評価が低いということはひしひしと感じつつ、それでも参加している同人誌に、ぼくにしては長い物語を書いた。書きたいことはだいぶ書いてしまった気がしているので、次は思いっきり滅茶苦茶なお話を書こうと思っている。絶対に自分が書かないような単語から始める。イボ痔、とか。イボ痔が虹を渡ろうとする話、とか。人間は変わろうと思っても決して変われない。同時に、変わろうと思えば、けっこう変われる。そういう矛盾と奇跡のなかで、ぼくらは誰もが平然と生きている。変われないからこそぼくらはぼくらの過去を愛しく思うのだし、変われる、変わるからこそ、ぼくらはぼくらの過去を愛しく思う。

おみやげ感

レジュメを書かなくてはならないのだけれど、なかなか気持ちが乗ってこない。頭のなかにはしゃべるべきことがたくさんあるので、ほんとうは別にレジュメなんていらないのだけれど、誰かが「おみやげ感」がある方が良いと言っていて、ぼくもそれはそう思う。講義でも公開講座でも何でも良いのだけれど、何か持って帰るものがあるというのは、何となくお得な気持ちになる。帰りの電車のなかで読むものができる。読むものがあると発狂しないですむ。読むもの。

先日、彼女とフィリップ・ジャンティを観にいった。面白かったか面白くなかったかといえば、ぼくは面白くなかった。ZIGMUND FOLLIES以降、何だか、物語が妙に分かりやすくなってしまったように思える。でも、それはぼくの感性が腐ってしまったからかもしれない。ともかく、劇を観にいったりすると、ぼくは劇場においてある他の公演のチラシ(フライヤーというのか。何だか格好良いね)をもらうのが好きだ。

既に人混みに耐えられなくなっていて、ダンゴ虫のようにいちばん前の座席で丸まっていると、彼女がフライヤーをぼくの分も持ってきてくれた。まだまだ生きなきゃだめだよね、と、そういうときに思う。劇の始まる前に、近くのビルの前で、彼女と夕食代わりのドーナッツを食べていた。ぼくらの前で、二人のキャッチが何やら何かを話し込んでいた。

そう、フライヤーの話だ。お土産。彼女と出会って、映画や劇や音楽を視に、聴きに出かけるようになって、そのすべてでぼくはたくさんのフライヤーを持ち帰ってきた。それはいま、大きな段ボール箱一杯に溜まっている。いつかさ、お互いどうにかこうにか年をとれたときに、昔こんなものをふたりで観にいったよね、と思い出話をするときのためにこれを捨てないでいるんだよ、と彼女に言うと、彼女が笑う。

こう見えてぼくは長生きをするであろう人間だ。先のことは分からない? そんなのはあたりまえだ。それでもぼくは長生きをする。なぜなら、それが何の特徴ももたないぼくの才能だからだ。目立たず、ひっそりと平均寿命をまっとうする。

少ない、というよりもほとんどない時間をむりやりやりくりし、所属している学会のパンフレットを作製した。自分にデザインの能力など欠片もないということは知っているので、極力、自分を押さえ、どこにでもあるような無難な構成を小奇麗にまとめる。絶望的に小奇麗なパンフレットが出来上がる。それでも、貰ってくれれば、帰りの電車で、2駅分くらいの時間つぶしにはなるであろうものにはなったと思う。

特に何の才能もないままに、それでもなぜかしっかり社会から落伍してこの年まで生きてきて、それでもなぜか、ずいぶんとたくさん、尊敬できる人間を知ることができた。たくさん? 二人か三人か、そんなことは知らない。でも、おかげで、自分には何の才能もないことを知ることができた。それは自虐でも何でもなく、素晴らしいことだ。

ひさしぶりに帰国した(彼にとってはすでに帰国ではないのだろうが)彫刻家の友人と、ずいぶん話をした。そのとき、彼に、きみの撮る写真はきれいだね、と言われた。それは純粋に、誰でも撮れる、カメラの優れた機能をほめる言葉だ。それはとてもよく分かる。その「分かる」ということがぼくの才能だ。大抵のことは分かる。大抵のことは真似ることができる。大抵のことは、だいたい、それで事足りる。そしてその先に、事足りないことがある、ということが見えてくる。

先日投稿した論文、自分のなかでは最高傑作だと思っている。テーマ的に、というよりも文体として。見事なまでに焦点が定まり、ほとんど異界の構造物のようにロジックが美しい曲線を描いている。だけれど、実はそれは優れた論文などではない。そもそも論文ではない。ただの物語だ。でも、それでいいじゃないか。もし査読に通れば、それは少なくとも、正統でまっとうでお見事な論文ばかりが並んだジャーナルのなかで、楽しく気軽に読んでもらえる「おみやげ感」的な何かにはなる。
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帰巣本能

ある新聞を取っているのだけれど、この新聞の美術欄がほんとうに嫌だ。何が嫌かというと、前にも書いたけれど、「シュルレアリスム」のことを「シュールレアリスム」などと書いている美術担当記者の無知無教養ぶりのことだ。ほんとうにこれ、美術を、それに関わってきた何人もの人びとのその歴史を、多少なりとも尊ぶ気持ちのある記者が書いているのだろうか。最近はもう目に触れるのも嫌なので、美術の特集がある曜日はその頁を開かないようにしている。こういう、言葉に対するいい加減さというのがほんとうに嫌だ。いやもちろんひとのことは言えない。ここでだってずいぶん誤字脱字があるし、誤った用法で言葉を用いていることも多々あるだろう。だけれど少なくとも自分が好きなものに対しては敬意を払いたい。

と、どうでも良いことを書くのは、このように書くことによって、「シュールレアリスム」などという言葉に対する違和感を少しでも伝えたいからだ。考えてみれば、いま(といってもあとどれくらいの間かは分からないけれど)ぼくが持っている表現方法のうち、いちばんひとの目に触れやすいのは論文なわけで、そうであれば「シュルレアリスム」をタイトルに冠したものを書いてみる、というのは良い考えかもしれない。美術史が専門、などということではまったくないので、それこそ専門の研究者に対して失礼になるようなものではどうしようもない。ただ、どのみちだいぶ準備は必要だけれど、自分の専門からのアプローチならいくらでも考えられるような気もする。資料も、大学生時代(早20年以上の昔!)から集めてきたものが多少はある。

昨日はとある学会の研究大会に参加してきた。何人かひさしぶりに会えた人たちもいたのでそれは良かったのだけれど、先週から体調を崩していて、帰ってからそれが悪化した。きょうは一日眠っていて、まだ少し身体がだるい。ともかく、その学会はだいぶ灰色だった。何かの比喩ではなく、会場全体の物理的な色合いが。あとで他のひとに訊ねたところ、やはり学会としてはだいぶ特殊で、あれが研究者一般の姿であるとは思わないでほしいとのことだった。同じようなことは別のひとにも言われたので、やはりそれなりに特殊なジャンルなのかもしれない。ぼくもこの学会に参加するのは2年ぶりくらいで、こんな感じだったっけかなと思いつつ、前の大会で見かけた名前も知らない研究者たちがまったく同じ髪型と服装でうろうろしていたので、それはそれで良いことだと思った。

とはいえ、やはり、こういう集団のなかに居ると(批判的な意味ではなく)自分が居るべき場所ではないなあ、というように感じる。もちろんそれは、自分が居るべきもっと良い場所があるとか、俺はハイグレードなステージにふさわしい人間だぜとか、そんなことではない。単に、在るべき場所というだけのこと。ぼくらは誰でも、本来であれば帰巣本能のようなものを持っている。それは過去の特定の場所、懐かしい場所とかではまったくない。帰ってみたら川の流れには逆らわなくてはならないし、クマには食べられるし、あげくに産卵したら自分は死ぬ、そんなのが帰巣本能であるとすれば、それを良いと思うひともいるだろうし、そうでないひともいるだろう。あまり、価値の話をしても仕方がない。いずれにせよ、放っておいても大局的には、ぼくらはみな最後には帰るべき場所に帰ることになる。

本能というのはいい加減な言葉だ。だけれども、これは嫌だなとか、これは分かるなとか、理屈で説明してもしようがないようなところで、ぼくらはけっこう、自分の進路を決めていく。もちろん、進みたい方向にばかり行けるということはない。むしろ、行きたいと思う方向にはまず進めないというのが大半だろう。無理やり行けば社会から落伍者、違反者の烙印をおされ、現実的に食べていく道を絶たれて野垂れ死ぬ。それでも、やはりひかれているのが分かる方向がある。地磁気のようなもの。北極星のようなもの。偏西風のようなもの。ただしそれは生物学的な機能ではなく、人間だけが持てる(それは人間の優位性ではない)、世界と言語のあわいに生まれたある種の狂気のようなものだ。それは誰にでも棲みついている。

その研究大会では、別の学会で知り合いの先生に、ぼくがこの前書いた論文について尋ねられた。何を書いているのかさっぱり分からないけれど、何やら面白そうな感じは受けるので、もう少し理解したい、そのために何かもう少し入り込みやすいようなちょうど良い文献はないか、とのことだった。それはそれでありがたい話で、少し考えてメールでお知らせしますよ、とお答えしたのだけれど、実はどうも思いつかない。もちろん方法論的なところやその理論的なベースというところであれば文献を示せるけれど、そんなことは向こうの方がぼくよりもはるかに理解している。ちょっと困った。いっそのこと、それを書きながら聴いていた音楽や、同時進行で読んでいたSF小説のことでも紹介しようかと思っている。ヘイヘイ、ダンシンダンシン!

今回の論文は意外にいろいろなところで面白かったという感想をもらえて、それは素直に嬉しい。それが職には決して結びつかないのは問題で、その問題具合は年々シビアさを増している。喰っていけなければ野垂れ死にで、それは抽象的な話ではなく、リアルに慎重に避けなければならない危険だ。

それでもまあ、帰巣本能だ。それはそれで、しかたがない。

ドリームピッチャー/キュウカイウラワンナウト

9月の一ヶ月間で、著者校正や学会発表用のレジュメや投稿論文や同人誌の原稿やらで、何だかんだで十万文字を超える原稿を書き、手を入れ、部屋のなかで踊りながら音読して、音読しながら踊り、踊り、踊り、踊っていた。さすがに少し空っぽになり、しばらくぼんやりしていた。いまはまた幾冊かの本を読み始めた。入力、処理、出力。繰り返して繰り返して、やがて寿命を迎える。存在するものはみなすべて同じだ。論文を書きながら聴いていたのは主にiLLで、そのリズムを織り込んでいたからきっと査読で落ちるだろう。どのみちぼくにはリズム感も音感もない。

日曜日にさ、と彼女に言われて、ああ、あの話かな、と思ったけれどそうではなく、ブログを書きなよ、といわれる。明るい話を。まかせてほしい、明るい話ならいくらでもある。

・・・何もなかった。特に苦しいことも悲しいことも楽しいことも嬉しいこともない。同人誌の原稿はなかなか良く書けた気がするので、機会があれば読んでいただければ幸い。これほど特徴のない文体もそうはないので、もしどこかで手に取ることがあれば、きっと分かると思う。論文も、いや論文にもなっていないかもしれないけれど、そうだこれ論文になっていないや。でも、けっこう面白いものが書けたと思う。これも、もしどこかの本屋できみの目に触れることがあれば、きっと伝わると思う。まったく同じリズム。まったく同じ文体。無色透明無害無個性無味無臭。でも、そこに誇りがあったりする。

仕事では、ここ数週間ずっとパルス出力のロジックを組んでいる。毎日何十万発、何百万発というパルスを流し、数を合わせる。もともと細かな計算に向いている性格ではないので、こういうのはなかなかに苦痛だ。だからもう聖霊が降りてくるのを待つ。ペンテコステ。頭の中に組んだロジックを、仮想のパルスの奔流が流れ落ちていく。帰りの電車のなかで論文について考える。切り替えがうまくいかず、口からパルスが流れ出す。家に帰って音楽を聴きながら踊りながらパルスの粒子を髪の毛から振り落とし、エアバラライカを狂ったようにかき鳴らしつつ論文を書く。こんな生活を続けるのはもう不可能に近いし、何も無理をしてまで続けるようなことでもない。

書くことが好きだ。他に、特に好きなことはない。いや、ただ生きているだけでも、すべてが楽しい。だから、別に、特に、何かが必要なわけではない。だからといって空っぽなわけではない。すべての瞬間瞬間がある。日々を生きること。平凡な奇跡の連続。

彼女が怪我をした動物を見つけて連れて帰ってきて、手当をして、またすぐに放した。元気になってくれれば良いけれど、ある一線を超えたら、もうそれはぼくらの手を離れてしまったことだ。彼女を見ていると、そういう、自然なバランスの良さがある。

そういうとき、ぼくは餌やりだけをみても、ものの役に立たない。だからといって、自分の性格に落ちこんだりなんてことはない。昔から、身体も性格も、所詮は乗り物だと思っていた。できが良かろうが悪かろうが、とにかくこの世界を走る限りにおいて、それに乗った何か大きな魂が喜んでいる。それはぼくではないけれど、でもぼくが感じることの根本にある何かだ。それはきっと真の意味で楽しいということで、真の意味で明るい話で、でもこの生活自体がどうということではない。

明日はとある大学の学会に少しだけ顔を出さなければならない。どう考えても睡眠時間が足りないが、眠れないので仕方がない。仕方がないことは、それは、もうほんとうに仕方がない。ぼくらはそれに折りあっていくしかない。それでも、最近、あまりにひどい悪夢を見なくなった。誕生日に彼女が手作りのドリームキャッチャーをくれた。きっとそれのおかげだろう。

ドリームキャッチャーにとらえられた悪夢はどこへ行くのかな、と彼女に訊ねた。分解されるんだよ、と彼女は答えた。そうなのかな、何だかあまりに自然科学。もっとこう、物語があるんじゃないかな、とも一瞬思ったけれど、案外、分解というのが、いちばん自然なことなのかもしれない。

カバの殺意とトマトの乗り心地

ひさびさに最悪に近い悪夢を見た。体感時間でたかだか十数秒の、だけれど、正気を疑われるような悪夢。曖昧にいえば、自分の病巣だらけの体内が空一杯に拡がっていた。分かったような顔をした連中は、けれどぼくがどんな夢を見たかをストレートに語ると、まるでぼくが異常であるかのような顔をする。まあそんなことはどうでも良い。悪夢を見た後、しばらく布団のなかでもぞもぞとしてから、いろいろ諦めもう一度眠った。するとぼくはサバンナに居て、一頭のカバが、何故かぼくを殺すつもりで迫ってきている。その目つきにはほんものの殺意がある。背中を見せないようにじぐざぐに後ずさりしつつ、けれどもカバの素早い追跡に、逃げ切る可能性が0であることをどうしようもなく理解する。こういう夢は、良いリハビリになる。いや、もちろん、ぼくだってカバに殺されたくはない。それでも、あの殺意に満ちた目つきは、現実には目にしたくなどないけれど、理解はできる。悪夢は悪夢でも、それはこの世界と地続きの悪夢で、だからどことなくユーモラスでもある。

お盆休みは、結局、まともに休めなかった。あとからあとから下らない学会仕事が積っていく。せいぜい、ぼんぼりを出したくらいしか、お盆らしいこともしなかった。そういえば、彼女は牛と馬を、茄子と胡瓜ではなくトマトと胡瓜で作ったらしい。何だかハイカラで、真ん丸で真っ赤な牛のことを思い浮かべると、とても微笑ましい。ご先祖様も、さぞや奇妙な気持ちで笑っていたことだろう。

頭痛が酷く、大量の保冷剤で身体を冷やす。しっかり冷凍保存ができるので、気分はもうレーニン。ぼくもそろそろレーニン廟をつくらなければならない。この前、音楽をやっている(音楽をやっている、というのもどこか乱暴な言い方だけれど)研究仲間が、ぼくの廟の前で音楽を捧げるよと言ってくれたので、だいぶ安心だ。動脈に保冷剤をあてながら、真暗ななか、その音楽を想像しながら天井を見上げる。

彼女が、どこからかお灸の話を聴いてきて、たまたまその日薬局へ行く用事があり、ぼくらはお灸を買った。初心者用の、いちばん弱いやつ。火をつけて、背中に乗せる。弱いだけあってほとんど何も感じないし、効いたのかどうかは分からない。けれども、何だか妙に面白い。子どものころから悪夢を見る才だけには恵まれていたけれど、考えてみれば、その当時は、こんな年になるまで生き延びて、背中にお灸を据えることになるなんて考えもしなかった。

ひとに話せば頭がどうかしたのかと思われるような奇想天外な悪夢でも、ぼくらが生きている日常生活の奇天烈さに比べれば、まあ、それほど大したものでもないのかもしれない。

猿

次世代ホラームービー

お盆休みなのに、頭痛と吐き気でまる一日を潰しました。癪なので、ブログを書きましょう。書くのです。頭がまったく働いていませんが、こういうときに書いた文章をあとで読み返してみると、意外に普段と変わらなかったりします。要するに、普段から頭を使っていないということですね。

* * *

大学で「情報社会が~」とか喋っていてしばしば感じるのは、学生さんたちの世代における、監視カメラに対する肯定感の強さです(否定感の強さではない)。正しい生活を送っている自分たちにとって、監視されることのデメリットはなく、むしろ悪いものからシステムが守ってくれるための心強い手段のひとつである、というのです。別段、それ自体はどうでも良いことです。監視社会は確かに怖ろしいものですが、既に、監視社会に対する直接的な批判自体はあまりに素朴で手遅れなものでしかありません。

これはあまり同意を得られないのですが、これからは、SNS、Lifelogと監視カメラ(といまぼくらが呼んでいるもの)が一体化したサービスが大きくなってくるでしょう。ああ、こういう、根拠のない怪しい話は楽しいなあ。

例えばどこかへお出かけしたとき、いまならiPhoneとかの内蔵カメラで写真を撮って、どこに行ったとか何を食べたとか誰と居たとかSNSに投稿するわけです。でも、スマートフォンで撮影できる写真は、基本、自画撮りか自分の観ている光景を別々に撮るしかありません(360°すべてを撮影するようなギミックもありますが、これも結局撮影者が中心にならざるを得ないという制限があります)。ぼくらがLifelogに望んでいるのは、この世界とこの世界のなかで生きているこのぼく、その双方が完全に統合されたものの永遠の記録ですから、自分の姿と自分の視界が分離した記録では不十分です。しかもその記録は、無意識レベルでなされなければなりません。わざわざスマートフォンを取り出して撮影アプリを立ち上げて取りたいものをフレームに入れて、などというのはあまりに自覚的で、意識のリソースを必要とします。

そこで、街中にはりめぐらされた監視カメラ網が役立ちます。とはいえ、それは現在よりもさらに密に配置され、高機能化された監視カメラ網です。それはサービスを提供する各企業によって、カバー率何%などと謳われるでしょう(ちょうど現在の携帯電話会社における人口カバー率のように)。そしてぼくらはそのサービスに加入し、GPSとRFIDでユーザ認証され、街中を歩くぼくら自身の姿の動画のアーカイブを手に入れることができます。プライバシー保護のため、非ユーザの姿にはモザイクがかけられるかもしれません。公開設定によっては、誰とでも、あるいはサービス利用者と、それとも友人のみと、自分の行動記録アーカイブを共有できます。自分が観た光景は、Google glass(そしてそれがさらに洗練されたウェアラブルデバイス)などによって記録されることになります。この動画もまた同様のサービス上で統合され、共有されるでしょう。すると、いかに密であれ固定点でしかない監視カメラだけではなく、路を往く同じサービスの利用者同士が互いに撮影し合った、撮影点がアクティブに変化する動画もまた、自らのLifelogとして利用されることになります。

こんなことに何の意味があるのかと思うのであれば、たぶん、あなたは「正常」です。けれども、「正常」であれば、そもそもブログもTwitterもFacebookもやりはしないでしょう。ぼくは、そういった世界に対して嫌悪感を抱くと同時に、それに惹かれる(恐らく人間にとって根源的な)欲求も十分に分かります。

そしてそうなったとき、もはやそこでは、パブリックとプライベート、デジタルと生、記録と記憶、そういった、いまぼくらが想定している(虚構としての)二元性など、まったく無意味なものになっています。それが、新しい現実のかたちです。

このようなサービスを実現するための技術は、既に目新しいものではまったくありません。法的云々な問題を表面的、形式的に引き起こしつつ、けれども必ずこのサービスは社会に浸透していきます。そしてやがて、そんなサービスがあることさえ(いまぼくらがGPSのことをさほど意識化しないままに暮らしているように)ぼくらは忘れ、忘れたままに日常生活としてそのなかを生きていくことになるでしょう。

* * *

さて、実はこんな話はどうでも良く、ぼくが書きたいのはブレア・ウィッチ・プロジェクトに対する怒りなのです。なぜ激しい頭痛と吐き気のなかでこんな下らないことを書いているのか自分でもよく分からないのですが、全身をつつむ悪寒のなかから発せられる言葉にこそ何らかの真理があるかもしれない。ないかもしれない。いやないですね。

お盆休みは特に楽しいイベントもなく、鬱々と過ごすわけです。それでは寂しいのでホラーDVDを観たりして独りでうひひ、とか笑って、おれの休日、超充実! などと何故かラップ調で叫んだりします。DVDは古本屋で買った安売りのやつ。それで、RECとかクローバー・フィールドとかダイアリー・オブ・ザ・デッドとか、そんなのを観たわけです。観すぎぃ!

で、観ていて、あまりの説得力のなさに発狂しそうになるのですが、そんな状況でビデオカメラ構えて撮影するわけないだろ! みたいなシーンが多すぎるのです。無論、物語はどんな虚構であってもかまわないのですが、虚構には虚構なりの必然性や正当性がなければなりません。あたりまえですね。何だかそこのところがあまりになおざりにされています。動画を撮影している、という自覚的な行為に対する動機づけがなさすぎる。その不整合さにばかり目が行ってしまって、もはやゾンビやモンスターが出てくると「邪魔するな、いま考えてんだよ!」と訳の分からない逆切れをしたりしてしまいます。YouTubeで怖い系の動画を観ても似たようなもののオンパレードで、もういやんなっちゃう。何かね、低コストでハイリターンを目指すぜ! みたいな、製作者のさもしい根性が透けて見えてしまうのです。

で、ブレアウィッチこそ、ホラー映画にこういう潮流をもたらした害悪の根源だとぼくは思うのです。とかいって、実は本家(だと勝手に思っている)ブレアウィッチを観たことがないので、これもう完全にいちゃもんですね。

* * *

さて、いつも変なことばかり書いている私ですが、いよいよほんとうに何を書いているのか分からなくなってきました。しかしそうではありません。きちんと筋は繋がっています。ブレアウィッチ的なものに対する違和感というのは、撮影方法が「自覚的に撮影しなければならない」ハンディカムという数十年昔からある旧世代のテクノロジーを使うことから生まれています。そうであるのなら、記録することに対する自覚的、能動的コストを限りなく下げていく、先に書いたようなサービスが一般化した社会のなかで撮られるホラー映画であれば、その違和感はなくなるのではないでしょうか。ただ、それは単に超越的な視点によって描かれる旧来の技法に戻る、ということではありません。消失するのはあくまで「撮影すること」に対する自覚性であって、「撮影されていること」はつねに最優先事項としてぼくらのなかにあります。そうでなければ、ぼくらはこの肥大化した承認欲求を満たすことなどできないからです。

けれども、放っておけば、そんな撮影記録など、無数の動画アーカイブの海に消えてしまってお終いです。ですから結果はどうであれ(大抵はうまくいかないでしょう)、ぼくらはその大海に沈まないように、突拍子もない行動をとり続けるしかありません。そうであれば、ゾンビとの対決はもってこいのシチュエーションとなるでしょう。

というわけで、次世代のホラームービーは、
撮影することを意識していない、けれど撮影されていることは呼吸のように必須である人類が、ただ承認欲求を満たすためだけに、常軌を逸した行動を以てゾンビやモンスターと対峙する
ようなものになるのです。

あまりに無茶苦茶な内容ですが、これもすべて頭痛のせいです。それではみなさんさようなら。