会社で使っているパソコンの1台は、マザーボードの電池が逝ってしまっている。偶にしか立ち上げることはないのでそのままにしているけれど、その「偶に」が来たときには、そのたびに時刻の設定をしなければならない。日時は2000年だったか2001年だったか、とにかくそのくらいの年の1月1日0時0分0秒に初期化されている。それを、一気に2015年まで進める。ちょっとしたタイムトラベルの気分を味わえる。それは相当にぞっとするような感覚を伴うものだ。
翌日仕事なのに3時4時まで寝つけない夜は、つらつらと動画を眺めたりする。最近よく聴くのはJBK時代のMick Karnのライブ演奏。彼独特の演奏スタイルの格好良さがあると同時に、音楽への純粋な喜びがあまりに地中海的にストレートに表現されていることに、陳腐な言い方だが、胸を打たれる。などと思っていると、どう見ても紛れ込んだスタッフにしか見えないRichard Barbieriがぼそぼそとシンセを弄っていたりして思わず笑う。The d.e.pのときの彼のベース演奏も素晴らしく良い。何より無駄にカメラ目線の笑顔が良い。Mick Karnが亡くなってもう4年が過ぎる。そのことにちょっと驚く。
既に居ない人間の笑顔や演奏が、動画や写真を通してそこに在るというのは不思議なことだ。その「在る」は、ただ目の前に本人が居るときよりも際立った「在る」でもあり、同時に、「無い」ことを絶望的に浮彫にする「かつて在った」でもある。ライフログなんて能天気なことを言っているいまの時代こそバルトの写真論をもっとまじめに再読するべきなのだろう。ぼくらは何も考えずにスマートフォンで小奇麗な食べ物を撮ってFacebookにアップしたりする。けれど、意味のない記録は意味のない記録に過ぎず、記憶をともなわないそれは、パソコンの時刻設定を早送りするときのあの早さと軽さ以上の意味を持ち得ない。
この世界に存在するあらゆるものがメディアで、この世界にかつて存在したあらゆるものの痕跡が刻まれている。それはただの記録ではなく、歴史だ。ぼくらは頭蓋骨センサの振動を通してそれらをすべて読みだすことができるし、読みださずにはいられない。
ほんとうの意味で怖いのは、「在る/かつて在った」を突きつけられることではなく、単なる、徹底的に単なる早送りの方だ。パソコンの時刻送りが、概念としてあらゆるところへ滲出していく。それを止めることはできないけれど、道を歩いていてその水たまりを見つけると、慎重に避けて通る。恐いもの見たさでその水面を眺めれば、映っているのはあまりに澄んであまりに青く高い、ひとの気配のない静かな世界だ。苦しみも悲しみもないその世界の魅力はよく分かるけれど、ぼくはまだ、そこに行こうとは思わない。