思い出

相棒に何か楽しい話を書きなよと言われたので、何か楽しいことを書いてみようと思います。

* * *

昨晩、もう午前3時くらいだっただろうか、ふと目が覚めて手洗いに行ったとき、風呂場の摺りガラスの向こうに女性が居て、顔をべったりと窓に押しつけているのが見えた。街灯のみの薄暗いなか、しかも摺りガラス越しなのにはっきりとその相貌が分かる。だから、それがいわゆる「現実」の存在ではないのは明らかだし、現実でない以上、驚きはしない。

だけれど、よく考えてみると、これは不思議なことだ。ぼくは普段、相当にびくびくしながら過ごしている。例えば顔を洗ってタオルで顔を拭い、ふと振り返ると彼女がそこに立っていたりする。そもそも初めから彼女がそこに居るのは知っているし、物音も聴こえている。だけれど、そこに立っている彼女を見て、飛び上がるほど驚いてしまう。そういったことを、家でも会社でも大学でもやる。そうして、これはかなり、相手を不快にさせてしまうことのようだ。その度に謝る。

そこに誰かが居ると分かっているのに、実際に目にすると、わっと驚いてしまう。ところが、ぼくがしばしば目にする、日常的な意味での「現実」には存在しない何かに対しては、いくらそれが突然のものであっても、驚くことはない。あ、虫様の幻覚は別で、あれは苦手だ。最近は長い紐状の影があちこちを素早く這いずり回っていて、これはほんとうに困るし気味が悪いし心臓にも悪い。ともかく、昨晩出会ったような何かに対して、ぼくは驚くということをしない。

それは、環境とぼくとの相互作用によって生まれる何かであって、決してぼくの脳内の独白などではない。とはいえ同時にそれは、ずっと昔、ぼくらの誰もが見ていたかもしれない精霊たちとは異なり、この世界の本来的な存在でもない。それはバグのようなものだ。ぼく自身、自然のなかに居るときに見るものがあるけれど、それと、昨晩見たようなものとの間には、根本的な差異がある。端的にいえば、それは歪みだ。環境の歪みと自分のなかの歪みが同期したときに、その何かが現れる。とても不自然で、だけれども、とても現代的で人間的なもの。草木的な意味での自然さはないけれど、不自然な生を送る人間としては自然なもの。だからそれは、自動車がぼくらを脅かすのと同じ程度にしかぼくらを脅かさないし、逆に、自動車がぼくらを脅かすのと同じくらいにぼくらを脅かす。

話を戻すと、なぜそういったものを不意に見たときに、この臆病なぼくがびっくりしないのかといえば、それは、それが現れる条件として、環境の歪みと自分のなかの歪みがシンクロしなければならないからだと思う。その高まりを脳が漠然と感じ取る。同期し盛り上がった波頭が崩れ、その飛沫がこの世界というスクリーンに汚れのような跡を残す。人間はそれを予期した眼差しにより、瞬間、心に留める。そうしてすぐに薄れて消える。

と、言葉でどう表現しようが、それは構わない。これは誰もが感じていることだし、誰もが見ているものだ。言葉を変えると驚くほどありきたりなことになってしまうのかもしれないけれど。

* * *

ここまで書いてふと、最初に相棒に言われた「楽しい話を書くように」という命令をまったく実行していないことに気づきました。でもなあ、毎日、何も変わり映えしないし。きょうも一日シュレッダーをかけていたし。明日のレジュメもまだ何も準備をしていないし。恩師に「入籍します」とメールをしたけれど、文末に「(笑)」とかつけたからかお返事来ないし、特に楽しいこと、ないんですよね。

フユ/クモリゾライフ

履いているジーンズなんて、もう、お尻のポケットは穴だらけです。鞄もぼろぼろで、いつ何時破けるか分かりません。こんな格好で教えに行くなど、尊敬する牧師さんたちには怒られてしまうことでしょう(学部時代に講義を受けたのはほぼ全員が牧師先生だったのです)。だけれどもそもそもぼくは、何かを教えることができるほど何かについて詳しい訳ではありません。それならむしろ、少なくとも大学に来ている若い子たちに、その倍の年数くらいはまあ何とか、こんな屑野郎でも生きていられるということを示すだけでも意味があると思っています。生き残ること。それ以外に重要なことって、実はあまりありませんよね。そんなこんなで、ぼくのスタイルは季節を通してあまり変わりはありません。これまたぼろぼろのセーターを着て、さらにそこにGORE TEXのPerformance shellを被せたりすれば、ほらもうこれで、東京の冬は十分に過ごせます。

だけれど、さすがに女子大の学生たちはなかなかにお洒落なようです。よくは分からないけれど、9月末、講義が始まったときと、1月末、講義が終わるときとでは、だいぶ教室の色合いが異なるような気がします。とはいえ、ぼくは決して彼女たち個々の姿を捉えることはありませんので、あくまで全体の雰囲気のようなものしか分かりません。でも、春に始まり初夏に終わる前期よりも、季節の移り変わりを感じられるのではないでしょうか。

考えてみると、最初の大学のときから、ぼくは服装に対するセンスが欠如していました。周りはお洒落な子たちがわんさかほいさと居たので、どうしてまったく何の影響も受けなかったのか、もう少しぼくの感覚も磨かれて良かったのではないかといまになって思います。彼女にも、そのときから二十数年にわたりダメ出しを受け続けてきたのですが、どうにも、ファッションというものは分かりません。自分にお洒落な服が似合わないのは分かっているので、無地で単色の、飾りもない服を地味に着こなすのがいちばん無難だと思うのですが、そうすると今度は、ぼくの数少ない友人である彫刻家からダメ出しを受けます。クラウドリーフくん、人間、冒険しなけあならないよ。しなけあなりませんか。うむ、ならんよ。

でも、冷静に考えれば分かるのです。何を着ても着こなせるひとがいる。スタイルの良さとかは、恐らく何の関係もなくて、そのひとの持って生まれた才能ではないかと思うのですが、そう言うと、ファッションは努力だと、彫刻家にまた怒られます。でもなあ、何を着ても様にならない奴って、やっぱり居ると思うんですよ。少なくともここにひとり。彫刻家と、吉祥寺のアーケード街をふたりで歩いている姿を後ろから撮った写真が、いま、ぼくの手元に一枚あります。体格自体は、彼とぼくとの間で、ほとんど違いはありません(だから時折、彼はぼくに服をくれたりします)。だけれど、彼は男のぼくから見ても、明らかに格好良い。そうしてぼくは、本人であるぼくから見ても、ちょっと常軌を逸して恰好悪い。冴えない。これはもう、努力云々の話ではないのではないでしょうか。いや努力だよ。そうですかねえ。

それでも頑固にぼくが思うのは、その差は恐らく、ファッションに対する努力などではなく、それ以前の、見られているということそのものに対する才能なのではないかということです。昔、まだ彫刻家と出会ったばかりのころ、彼女がモデルをしていて彼が彫刻を作っている周囲を、ぼくは狂犬のように歯を剥きだして唸りながらぐるぐるぐるぐる回っていました。そんなある日、彼がぼくに、クラウドリーフくんもちょっとその椅子に座ってごらんよ、と言いました。制作の間、モデルさんが座っている、ちょっと高いところに設置されている椅子のことです。パニックに陥りながら、ぎょええ? ぎょええ! と鳴きながら椅子に座り、三秒後に頭痛と腹痛と腰痛を発症し、ずりずりと椅子からへたり落ちます。やっぱりだめ? やっぱりだめですねえ。冷たいコンクリートの上に、垂らした絵の具のように丸まりながら答えます。

ひとに見られるのが壊滅的に苦手なぼくが、いま、百人近い学生さんたちを前に、案外平気な顔をして、それでも決して彼女たちに顔を向けることはなく、ぼろっちい服装のまま、メディアがね、他者の痛みをさ、などと、虚空に向かってマシンガントークをかましています。時折、誰もいないはずの、教室前の扉に視線を向けたりすると、前の席に座っている学生さんが、自分が見られているのかと思い顔を上げ、ぼくの視線が向いていないことに怪訝な顔をしたりします。

どこをどう取っても恰好悪いぼくを、だけれども、ぼくは案外、気に入っています。そろそろ冬になるので、また、GORE TEXのPerformance shellを出さなければなりません。

ちょっと頭がどうかしているような

研究仲間の講義を聴きに行きました。私の講義日とは異なるため、普段はそのようなことはできないのですが、今回、たまたま自分の講義が休校日にあたったため、その日は出社し、代わりに取った休日にのこのこ大学へ行きました。もう良い年をした不審者が教室の前方に座っている。その大学は比較的単一化された大学なので、けっこう私の存在は異物感があります。けれどもその講義をする研究仲間が私にちらっと挨拶を送ってくれるので、ああ、何か講師の知り合いのひとなのね、と、一時的な滞留許可証が教室の雰囲気から発行されます。

最近、何だか調子が出ず、この大学での講義にも熱意を持てません。たかだか五十名だか六十名程度の受講生であれば、コミュ障たるこの私でも一瞬の横目で眺めて覚えるくらいはできましたが、今年は、そもそも学生の顔を見ることさえもできない状態です。こんなことではいけないのですが、こういうときに頭で考えてもうまくはいかないので、直感に従って行動することにしました。研究仲間の講義を聴きに行く、というのがその一つです。理由は自分でも分かりませんが、でも、正しい方向だという確信だけはある。何かをリセットしなければなりません。

そういった訳で、のこのこ、まるで学生であるかのように、数年ぶりにひとの講義を受けてきました。ひとつ目の講義は芸術にかかわる講義。独特のスタイルで講義をしていて、勉強にもなり、楽しくもあり、これはなかなか人気があるのではないかしらと思い、後頭部に眼を出してこっそり見てみると、やはり幾人かの学生たちが極めて強い関心を露わにしつつ聴講している。うっ、妬ましい! と思いつつ、学生さんたちの頭にテレパシーで念仏を送り込みます(授業妨害)。講義の最後にはコメントシートが配られ、その日のテーマについて書くように言われます。私も一生懸命に書きますが、いかんせん、自分の名前以外の字を書くなど数年ぶりのことです。この男嘘ばかり言う。ともかくあまり字を書かないのはほんとうなので、その汚さ、読み難さたるや、蓑虫の行楽、竹林の宴の一咳が如しという感じです。でも、最後にかわいいクマの絵を描いてきたので、きっと彼も許してくれることでしょう。クマの絵には吹き出しがあり、「字が汚くて読めないね!」と言っています。謎の宣言。講義が終わるとちょうどお昼なので、一緒に近くの料理店に行き、食事をしました。

それからしばらく時間を潰し、次は別の仲間がやっている倫理学の講義です。これはこれで面白かった。講義の途中で挟まれる彼の冗談に反応するのが私だけだったのが、それ全体でひとつの冗談のようで、後になってふたりでまた笑いました。彼とは同人誌と研究会を一緒にやっており、気を遣わずに言葉を使える相手なので、講義の終わった後、延々六時間くらいふたりで飲んで過ごしました。彼は翌日、遠くの大学の講義が一限からあり、私は私で翌日の講義のレジュメをまったく何も作っていない状態です。それでも延々、同人誌のことや詩のことを話していました。

自宅に帰りつけば、もう零時です。軽く食事をして、三時くらいまで起きて面白くもないレジュメを書きあげそのまま机に凭れて眠りにつき何やらおかしな夢を見て目が覚め冷水のシャワーを浴びてもまだぼんやりしたままラッシュに揉まれ大学へ行き講義をします。研究仲間の講義を聴いたからといってすぐに自分の気持ちが上向きになるわけもありません。相変わらず今期の教室は視界ゼロで得意のマシンガントークをいくら撃ち込んでもその闇が晴れることはありません。それでも、自分の研究テーマをこっそり紛れ込ませたりして喋っている彼らの姿を見ることで、私もまた、自分のスタイルを取り戻していかないとなと、少し思えるようにはなったかもしれません。

昔は、もっと滅茶苦茶な講義をしていたように思います。そんなふうにまたなれば、良いね。

ウォークアラウンド地球

きょうは講義を終えたあとにすたすた素早く地元へ戻り、市役所に寄って住民票を取ってきた。ついでにコンビニにより、サンダルを購入。何となく気が向いたのでぐるりと遠回りをして、家に戻ってからamazonで電球を幾つか注文。これでだいたい一日の活力を使い切り、いまはぐったりしている。とはいえほんとうはここからが自分の時間で、非常勤で働いている大学の人事課だかどこかにマイナンバーを送らねばならないし(担当者から悲鳴のような電話があった)、科研費の申請書類は書かなければならないし、来月に開催される学会で二つ発表しなければならないのでその原稿も書かなければならない。ああもうムリリ! と何かが口からはみ出てくる。

どうしてサンダルを買ったのかというと、土足厳禁の職場で履いていたサンダルが壊れてしまったからだ。ぼくは何しろ足が大きいので(というよりも幅が広い)、普通のサンダルだと結構横方向への負荷がかかり、たいていすぐに壊れてしまう。しかしここしばらくまったく時間に余裕がなく、サンダルを買いに行く暇もなかったので、ベルトと靴底に穴をあけ、長いボルトで固定した。しかしボルト程度ではすぐにまた取れてしまう。まけじと、また穴を増やして別のボルトを刺す。また取れる。また刺す。取れる刺す。いつか金属製のハリネズミのようなものが足下を蠢いている。そのサンダルサイボーグで実験室をぺたぺた歩き回る。ぺたぺた。がちゃがちゃ。

さすがにこれはもういかん、と思い、自宅を物色してスリッパを持っていくことにした。いつだったかどこかのビジネスホテルに泊まった際に、けち臭く使わずにもらって帰ってきた使い捨てスリッパ。そもそもこの子は、ビジネスホテルにつくとすぐに裸足になり、そのままぺたぺた歩き回っている。とにかくそのスリッパを履いてみると、ぺたぺた感がすごいことになる。まるで素肌だ! 何がだ。そんな風にして実験室をぺたぺた歩き回っていると、何やらホテルのスイートにでも泊まっているかのようだ。バスローブを着てワイングラスを片手にプログラムを組む。いやスイートルームでこんな薄べったいスリッパは置いていないか。でも何となく嬉しくなって、昨日までサイボーグだった俺の足きょうはスイートルーム、とか歌いながらぺたぺた歩き回る。職場の人たちに、止めろ、脱げ、森へ帰れ、と叱られる。仮にもゾーン・ポリティコンだ、仕方がない、それなら新しいサンダルでも買うかと思い、ようやくきょう買えた。そんなささやかなことで、明日の出社が少しだけ楽しみになる。

ぺたぺたぺたぺた。何しろ足の裏が広大な上に平べったい。だからこそぼくはこの足の裏を通じて大地のヴァイヴレイシオンを感じ取っているのさ、などと言っている。「大地!!」唐突に叫ぶ。市役所に寄りコンビニに寄ってから、珍しく地元の高校の前を経由して自宅に戻った。その辺りはすっかり景色も様変わりしてしまってるけれど、ふとしたところに、昔クラスが一緒だった誰かの家の表札がまだ変わっていなかったりするのを発見して、懐かしいような気持ちになったりする。なったふりをしたりする。ランドマークなど何もないような田舎だけれど、足の裏を通して感じ取る地磁気で、彼は道に迷うということがない。もっとも、地球は丸いのだから、などと真顔で言いだす彼は、そもそも迷っていてもそれを認識することができない。「地磁気!!」と叫んだりする。しかしいまは登山靴を履いているので、ぺたぺたというよりはどたどた、だ。どたどた、昔の田舎道を歩いていく。

子どものころは、田んぼと畑と森と山しかないようなところだった。いまはすべてがコンクリとアスファルトで固められ、赤信号でも止まらない自動車だらけの街になってしまった。子どものころは若夫婦だった近所の人びともみな年を取り、あまり表で会うこともなくなった。平日のヘンな時間に、コンビニ袋に入ったサンダル片手にふらふら家に帰ってくるような不審者は、もう、ぼくくらいしかいない。

気がついたら夜になっている。レジュメを印刷するための紙を買いに夜の街へ降りていく。いったん靴下を脱いだら、もうその日は絶対に再度靴下は履かない教の信者たるぼくは、さすがに素足に登山靴はなあと思い、サンダルをつっかけて外へ出る。彼女に電話をして、400円でサンダルを買ったよと言う。しばらく話をして、訪れるふとした沈黙。ぺたぺたぺたぺた、ただ足音だけが響いている。

ダウナー/シャットダウナー

女子大に侵入したときに、「(なにあの人)寒そう(なんだけど、超キモイ、地獄へ堕ちろ!)」という声が聴こえてきました。博士論文を書いていたとき以来の軽い難聴が治らない私ですが、虫たちの声と陰口だけは世界の裏側からでも聴き取れます。幻聴。けれども私レベルになると、道行く人びとが私を見てにやにや笑っても、(1)これは私の妄想である。(2)現実に笑われていたとしても、彼ら/彼女らは私に職をくれるわけではないのでどうでもいい。(3)どうせみんな最後には死ぬんだ。という三択ボタンをランダムに押すだけなので、大丈夫です。最近、あちこちで「大丈夫ではない」という指摘を受けるようになっているのですが、私の超強力な対洗脳回路は他人の意見などに影響を受けません。

けれども、やはり、外に出るのは怖ろしい。一日外に出ると、だいたい三日分の活動エネルギーを消費します。あと街は臭い。びっくりするくらい、東京って臭いですよね。地面の下で川が死んでいる。死んだ水の上にコンクリを張って首都とか言って、莫迦みたいですね。何だかやっぱり、ちょっと心が疲れているのかもしれません。そんなときには座禅です。明日の講義のレジュメをまったく作っていないのですが、一日座禅を組んで、どうやらようやく元気が出てきました。このなけなしの元気をブログを書くことに費やし、もう明日の講義のことなど忘れて寝てしまいましょう。クラウドリーフさんは土壇場でなければ動き出さない人間です。きっと明日、講義の2、3時間前には立派なレジュメができていることでしょう。

けれども、「寒そう、地獄へ堕ちろ!」という女子大生のありがたいお言葉が耳に残っています。自分の心の平安のためにも、暖かそうな恰好をしなければなりません。そんなこんなで、仕事の帰りに無印良品に寄りました。無印良品というと、ずっと昔、でもないか、国分寺に無印のアウトレットがあり、そこでいろいろ買った記憶があります。そこで「無印は安い」という印象が刻まれてしまい、いまでも服というと無印に行ってしまうことが多いのです。でも客観的に言って、無印、高いし、サイズは小さいし、実はあんまり自分の趣味でもない。でも、いったん行動パターンができてしまうと、この男、だいたい死んでも変えない。

パーカーが欲しかったのです。と、いきなり動機を自白するかのような口調になるのですが、何かだぶだぶのパーカーを意図的に気崩しているのって、恰好良いじゃないですか。年甲斐もなくそう思ったのです。本当はカーディガンを買いたかったのですが、無印のカーディガンを見たら、一万いくらかとかでした。いくら何でも、ちょっと高い。哲学をやっている非正規雇用の人間には分不相応です。昆布でも巻いておけばよい。そうして時折しゃぶれば良い。しかしそうも言っていられないので、うろうろ探していたら、パーカーなるものがありました。唐突に、そういえば俺、パーカー欲しかったんだよね、ということを思い出します。以前、彼女が、ちょうどぼくと同じくらいの体格の友人から、古着のパーカーをもらったことがありました。これがとても良く似合って、可愛いのです。

そうだ、俺もパーカーを着れば、ああいうふうに可愛くなるんだ。クラウドリーフさんのよく分からない思考と指向と嗜好により、パーカーをいつか手に入れるんだ、ということが確定されました。いま、そのときが来たのです。しかもXLサイズがある。という訳で買いました。

お家に帰り、さっそくパーカーを着てみます。ぴっちぴちでした。そう、無印のXLは、彼には小さいのです。いつも騙され、そしていつもそれを忘れる。彼はなで肩なのですが、肩幅自体はあります。ですので、普通のXLでは小さいし、ものすごく型崩れして恰好悪くなる。意図しない着崩し。まるで変質者のようだね。彼女が菩薩のような笑みでそうぼくに言います。でも暖かいし。一生懸命反論しますが、正直、それほど暖かい訳でもない。だって小さくて、少し伸びをするとヘソが出るんだもの。え、これほんとうにXLなの? いや、無印は好きなんですけれどもね。ステープラーの針も、無印のは音が酷いし、綴じたときの感触も気色悪い。いやほんとう、無印は好きなんですよ。嘘じゃなくて。

ヘイメーン、とか言って講義をしようかと思っていたのです。もう地獄へ堕ちろとは言わせない(誰も言っていない)。でも、これはやはり、子供服を着た変質者にしか見えません。教壇の上に立つなんて糞だ、講義なんて普段着だろ、フランス革命! と思っているクラウドリーフさんでも、さすがにこれはいけない、ということくらいは理解できます。ヘイメーン、リベルテ、エガリテ、フラテルニテ!

仕方がないので、このパーカー、いまは寝巻になっています。フードを被れば、ほら、もう雑音は、何も聴こえない。

フンスフンス語入門あるいはニカルサの合戦

このひと月で30冊ほど本が増えてしまって、もう段ボールもいっぱいになってしまったし、どうしようかな、と考え中です。きょうは一生懸命いらなくなったプリント類をシュレッダーにかけ、少しでもスペースを空けようと奮闘していました。明日の講義のレジュメをまだ何も作っていないのですが、大丈夫でしょうか。現実逃避にお茶をいれ、ぼんやり父の本棚を眺めていると、「フンスフンス語入門」という本がありました。父は仕事柄英語は堪能でしたが(残念ながら私にはまったく引き継がれなかった才能です)、もともと語学が好きだったのでしょう、何かというと、新しい語学の教科書を購入していたのを覚えています。それにしてもフンスフンス語って何だろう、と思って見直すと、何ということはない、ただのフランス語でした。

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やはり頭痛薬を飲んでいると、というよりも薬でぼんやりした向こうで脳が浮腫んでムクムクしていると、どうにも動作が荒くなります。先だって、職場で巡回がありました。何の巡回か実はよく分かっていないのですが、とにかく、これが来るときには自分たちの部屋を片づけなければなりません。プログラマーとして研究開発室に所属しているというと、何やらクリーンなイメージがありますが、私の場合は、机の周りがとんでもない状況になっているのが常態です。壁中にプリントアウトしたメモや設計図、時刻表が貼られ(時刻表は大事です。私は人の名前や時間を覚えられないので、常にこれを確認しておかないと、終電を逃すことになります)、机の上にもPCの上にも、隣の上司の机の上にさえ私の書類が山積みになっています。怒られると「コレハ、紙ノ養殖デス。エコ、アナタ、反対?」と片言うわごとで答えます。

ともあれいまは巡回です。たいていは予め日時が知らされるのですが、そのときはお知らせがなく、突然の襲来となりました。「巡回が来るぞー!」という声が届き、私たちは皆、慌てて机の上をばたばた整理し始めます。飲みかけのコーヒーのペットボトルがあったので、それも鞄に突っ込みます。やがて巡回が終わり、またデバッグに戻りました。そうして、その日の帰り、PCもシャットダウンし、さて帰るかと思い鞄を持ち上げると、タプンタプン、ピチャンピチャンと音がして、鞄の底から茶色い液が床に滴ります。そう、ペットボトルのふたを緩く締めたまま突っ込んでしまい、そのまま忘れていたので、鞄のなかにコーヒーが溢れてしまったのでした。その日は読みかけのハードカバーを一冊と、それがもうすぐ読み終わりそうだったので別のハードカバーを一冊、鞄に入れていました。何ということでしょう。何しろ人間の器が小さいので、こういうときはほんとうにがっくりします。本茶色い! ホンチャイロイ!

けれどもすぐに諦め、ついでに巻き添えを喰らった書類も、不要なものは適当に拭ってシュレッダーにかけることにしました。どうもこの男、家でも会社でもシュレッダーばかりかけている気がする。そうして捨てるべき書類を選別していると、何やら、昔書いた物語や論文、何かの謎メモが山ほど発掘されるのです。これまた何ということでしょう。どうやら「俺、ばりばりに仕事できるからさぁ」と思いつつ周囲に積み上げていた書類、大半が私物のようです。とにもかくにもシュレッダーにかけますが、このシュレッダー、あまり性能が良くない。縦書きで書いた文章、フォーマットによってはほぼまるまる一行読めてしまいます。

 ゃあ蜂やら石臼やら栗やらが出てくるが、あんなのは皆嘘っぱちじゃ。石臼が動けるわけあるまいこのたわけが。

 しろ大地を埋め尽くすほどに集まった。エテ公にすれば敵の軍勢ウンコのごとく候というわけじゃなほっほっほ。

 奴は泣いて詫びおったがもう遅い。奴の家も畑も、みーんなわしらの臭いが染みついて、もう誰も住めなくなっ

 エテ公は泣く泣く都会に出てサラリーマンになった。今では幸せな家庭を築いているそうな。蟹の母君の大切に

 りの臭さに驚いて、死んだ母君が甦ったのだからまずはめでたしめでたしと言うべきじゃろう。そういうわけで

私はそっと、それらの断片をゴミ袋の奥に突っ込みます。

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本と書類とカメラくらいしか持ち物のない私ですが(服はない、生まれたままの姿だ。ヴィーナスと言っても過言ではないだろう)、それでも、本気で引っ越すとなると、なかなか大変です。本当に書くべき論文のための資料以外はしばらく買わずに、不要なものを整理していく生活を、しばらく続けなければなりません。

どうしてきみにはそんなに才能があるのさ

治療中の歯の痛みがひどく、普段ぼくは非常に我慢強い人間なのだけれど、もちろん自分がほんとうに人間なのかどうかは分からないのだけれど、眠れないし、ちょっと困った。眠れないと宿痾の頭痛もひどくなる一方で、彼女には包丁も持たせてもらえない。だけれど、お粥を作ってくれたので、それをゆっくり食べた。後期の講義も始まったので、仕事は仕事でもうどうしようもないほどにぼろぼろの状態だけれど、とにかくやっていくしかない。

とはいえ、歯痛は、たぶん何かの象徴でしかなく、それ以前からどうも調子が出ない。歯痛が始まるしばらく前に大ポカをしてしまった。

仕事のあいまに非常勤で教えるようになって、もう五年目くらいになる。けれども、このまえ初めて休講にしてしまった。職場に顔を出して機器の検査の設定をして、十分に間に合う時間に会社を出て、電車のなかで少しぼんやりして、大学についたらもう講義の時間が半分くらい終わっていた。自分でも何が起きたのか良く分からなかったけれど、事実は事実なので仕方がない。でも教室に入ったときにはまだそれに気づかなくて、いつもより少ない学生さんたちが何だか変な顔をしているのを見て何かやらかしたことに気づいた。もしかして俺滅茶苦茶遅れた? と訊いたら、はーい、と答えが返ってくる。ごめんね、と謝って、しばらく雑談をして、きょうはもう休講にしようか、どうする? と言うと、したい! というので、じゃあまた来週ね、と言って帰ってきた。その後少し早めに彼女に会って、しばらくぶっ倒れていた。

それとは別のとある大学で去年から一コマ講義を担当させてもらっていて、その大学の学生さんたちは、いわゆる優等生が多い。無論、学生さんはそれぞれだから、ひとまとめには言えない。あくまで全体的な傾向としては、ということ。で、ぼくは優等生が苦手だ。途轍もなく苦手で、見ているだけで頭のなかに無限の独り言が自動的に始まり、死にたくなってくる。そのダメージが意外に大きく、今年は何だか最初から講義に対する気力が萎えてしまっていて、これはいけないなあと思っていたのだけれど、先に書いたような大ポカをしてしまうと、何だかすべてがどうでも良くなってきて、再び講義に対する喜びとか楽しみとかが戻ってくる。優等生たちに講義をするのは相変わらずしんどいけれど、合う合わないは仕方がないし、それはそれでモードを切り替えて、自由にやれる女子大の講義の方では、のんびり好き勝手に話をしていこうと思う。

最低な講師。でも、ぼくが小中高で唯一覚えているのは、アル中で、紙袋に穴を開けたものを被って授業に出てきたとある現国の教師だ。彼は自作の詩を試験に出すような男で、たぶん、ぼくはその男とだけは唯一波長が合っていた。教えるなんていうのは、そういうことで良いのだと、ぼくは思う。そう思わないきみには、そう思わない教師がたくさんいるから、何も問題はない。

研究の方は、きっと、それなりに進んでいる。幾人かには、ありがたいことに好意的に評価してもらえている。それは研究として評価されることの喜び以上に、まだ自分が人間の言葉を書けている、ということに対する安心感が大きい。これはなかなか人に理解されないことだけれど、ぼくは、自分がほんとうに人に伝わる言葉を話せているのか、書けているのかということに対する自信がない。常にない。たぶん、どこかの時点で、それは現実のものになると思っている。それはそれで、仕方がない。伝えられる言葉を書けるうちに、それは書いておけば良い。

研究者として半端なぼくは、基本、誰がどんな立場で、どんな論を張っていたとしても、そのこと自体にはあまり興味がない。それよりも、その人がその論にどれだけ自分の魂をかけているのか、そこに目がいくし、もしかけているのであれば、もう、それでぼくにとっては十分だ。右とか左とか、そういう下らない枠組みはどうでも構わない。そもそも、もしそこに魂をかけているのであれば、それはもう右も左も関係ない。ある面において、それは芸術に対峙するときの感覚に似ている。それが自分のなかにどんな感情を引き起こすにせよ、真正の感情を引き起こす限りにおいて、それはほんものだ。ほんものか偽物が、それ以外の評価軸に興味はない。そんなふうにして生きていると、意外に多くの研究者と親しくなったり、意外に多くの研究者と断絶したりする。研究者とは何なのかはともかくとして。

あたりまえの話だけれど、ぼくは、自分が書いた論文にはそれなりの自負がある。誰もが目にしているのに見ていることに気づいていないものを言語化することによって浮上させる。良い論文は必ずそういうもので、自分の論文もまた、それをしている。だけれども、それが何だというのだろうか、というと、実はたいした話ではない。そんなことは、世界中で何百万という研究者が、芸術家が、音楽家が、小説家が、職人が、技術者が、あるいは生活者が落伍者が聖人が犯罪者が皆、やっていることだ。誰もが、自分よりもはるかに優れた才能を持ち、なおかつほとんど注目されることもなく消えていく。無能な連中が日の目を見たりするとか、そんなことはどうでも良いのだ。それは社会の話で、ぼくはそれにあまり興味がない。世界には、実際に怖ろしいほど才能を持った連中が、怖ろしいほど無数にいて、そして怖ろしいほど埋もれたままに消えていく。

いつか哲学で武道館を一杯にしたいといつも思っている。社会的な常識を持った自分は、何を阿呆くさと呆れているけれど、もうひとりの自分は、なぜそれが無理だと思うのかと、いつでもぼんやり笑っている。