治療中の歯の痛みがひどく、普段ぼくは非常に我慢強い人間なのだけれど、もちろん自分がほんとうに人間なのかどうかは分からないのだけれど、眠れないし、ちょっと困った。眠れないと宿痾の頭痛もひどくなる一方で、彼女には包丁も持たせてもらえない。だけれど、お粥を作ってくれたので、それをゆっくり食べた。後期の講義も始まったので、仕事は仕事でもうどうしようもないほどにぼろぼろの状態だけれど、とにかくやっていくしかない。
とはいえ、歯痛は、たぶん何かの象徴でしかなく、それ以前からどうも調子が出ない。歯痛が始まるしばらく前に大ポカをしてしまった。
仕事のあいまに非常勤で教えるようになって、もう五年目くらいになる。けれども、このまえ初めて休講にしてしまった。職場に顔を出して機器の検査の設定をして、十分に間に合う時間に会社を出て、電車のなかで少しぼんやりして、大学についたらもう講義の時間が半分くらい終わっていた。自分でも何が起きたのか良く分からなかったけれど、事実は事実なので仕方がない。でも教室に入ったときにはまだそれに気づかなくて、いつもより少ない学生さんたちが何だか変な顔をしているのを見て何かやらかしたことに気づいた。もしかして俺滅茶苦茶遅れた? と訊いたら、はーい、と答えが返ってくる。ごめんね、と謝って、しばらく雑談をして、きょうはもう休講にしようか、どうする? と言うと、したい! というので、じゃあまた来週ね、と言って帰ってきた。その後少し早めに彼女に会って、しばらくぶっ倒れていた。
それとは別のとある大学で去年から一コマ講義を担当させてもらっていて、その大学の学生さんたちは、いわゆる優等生が多い。無論、学生さんはそれぞれだから、ひとまとめには言えない。あくまで全体的な傾向としては、ということ。で、ぼくは優等生が苦手だ。途轍もなく苦手で、見ているだけで頭のなかに無限の独り言が自動的に始まり、死にたくなってくる。そのダメージが意外に大きく、今年は何だか最初から講義に対する気力が萎えてしまっていて、これはいけないなあと思っていたのだけれど、先に書いたような大ポカをしてしまうと、何だかすべてがどうでも良くなってきて、再び講義に対する喜びとか楽しみとかが戻ってくる。優等生たちに講義をするのは相変わらずしんどいけれど、合う合わないは仕方がないし、それはそれでモードを切り替えて、自由にやれる女子大の講義の方では、のんびり好き勝手に話をしていこうと思う。
最低な講師。でも、ぼくが小中高で唯一覚えているのは、アル中で、紙袋に穴を開けたものを被って授業に出てきたとある現国の教師だ。彼は自作の詩を試験に出すような男で、たぶん、ぼくはその男とだけは唯一波長が合っていた。教えるなんていうのは、そういうことで良いのだと、ぼくは思う。そう思わないきみには、そう思わない教師がたくさんいるから、何も問題はない。
研究の方は、きっと、それなりに進んでいる。幾人かには、ありがたいことに好意的に評価してもらえている。それは研究として評価されることの喜び以上に、まだ自分が人間の言葉を書けている、ということに対する安心感が大きい。これはなかなか人に理解されないことだけれど、ぼくは、自分がほんとうに人に伝わる言葉を話せているのか、書けているのかということに対する自信がない。常にない。たぶん、どこかの時点で、それは現実のものになると思っている。それはそれで、仕方がない。伝えられる言葉を書けるうちに、それは書いておけば良い。
研究者として半端なぼくは、基本、誰がどんな立場で、どんな論を張っていたとしても、そのこと自体にはあまり興味がない。それよりも、その人がその論にどれだけ自分の魂をかけているのか、そこに目がいくし、もしかけているのであれば、もう、それでぼくにとっては十分だ。右とか左とか、そういう下らない枠組みはどうでも構わない。そもそも、もしそこに魂をかけているのであれば、それはもう右も左も関係ない。ある面において、それは芸術に対峙するときの感覚に似ている。それが自分のなかにどんな感情を引き起こすにせよ、真正の感情を引き起こす限りにおいて、それはほんものだ。ほんものか偽物が、それ以外の評価軸に興味はない。そんなふうにして生きていると、意外に多くの研究者と親しくなったり、意外に多くの研究者と断絶したりする。研究者とは何なのかはともかくとして。
あたりまえの話だけれど、ぼくは、自分が書いた論文にはそれなりの自負がある。誰もが目にしているのに見ていることに気づいていないものを言語化することによって浮上させる。良い論文は必ずそういうもので、自分の論文もまた、それをしている。だけれども、それが何だというのだろうか、というと、実はたいした話ではない。そんなことは、世界中で何百万という研究者が、芸術家が、音楽家が、小説家が、職人が、技術者が、あるいは生活者が落伍者が聖人が犯罪者が皆、やっていることだ。誰もが、自分よりもはるかに優れた才能を持ち、なおかつほとんど注目されることもなく消えていく。無能な連中が日の目を見たりするとか、そんなことはどうでも良いのだ。それは社会の話で、ぼくはそれにあまり興味がない。世界には、実際に怖ろしいほど才能を持った連中が、怖ろしいほど無数にいて、そして怖ろしいほど埋もれたままに消えていく。
いつか哲学で武道館を一杯にしたいといつも思っている。社会的な常識を持った自分は、何を阿呆くさと呆れているけれど、もうひとりの自分は、なぜそれが無理だと思うのかと、いつでもぼんやり笑っている。