履いているジーンズなんて、もう、お尻のポケットは穴だらけです。鞄もぼろぼろで、いつ何時破けるか分かりません。こんな格好で教えに行くなど、尊敬する牧師さんたちには怒られてしまうことでしょう(学部時代に講義を受けたのはほぼ全員が牧師先生だったのです)。だけれどもそもそもぼくは、何かを教えることができるほど何かについて詳しい訳ではありません。それならむしろ、少なくとも大学に来ている若い子たちに、その倍の年数くらいはまあ何とか、こんな屑野郎でも生きていられるということを示すだけでも意味があると思っています。生き残ること。それ以外に重要なことって、実はあまりありませんよね。そんなこんなで、ぼくのスタイルは季節を通してあまり変わりはありません。これまたぼろぼろのセーターを着て、さらにそこにGORE TEXのPerformance shellを被せたりすれば、ほらもうこれで、東京の冬は十分に過ごせます。
だけれど、さすがに女子大の学生たちはなかなかにお洒落なようです。よくは分からないけれど、9月末、講義が始まったときと、1月末、講義が終わるときとでは、だいぶ教室の色合いが異なるような気がします。とはいえ、ぼくは決して彼女たち個々の姿を捉えることはありませんので、あくまで全体の雰囲気のようなものしか分かりません。でも、春に始まり初夏に終わる前期よりも、季節の移り変わりを感じられるのではないでしょうか。
考えてみると、最初の大学のときから、ぼくは服装に対するセンスが欠如していました。周りはお洒落な子たちがわんさかほいさと居たので、どうしてまったく何の影響も受けなかったのか、もう少しぼくの感覚も磨かれて良かったのではないかといまになって思います。彼女にも、そのときから二十数年にわたりダメ出しを受け続けてきたのですが、どうにも、ファッションというものは分かりません。自分にお洒落な服が似合わないのは分かっているので、無地で単色の、飾りもない服を地味に着こなすのがいちばん無難だと思うのですが、そうすると今度は、ぼくの数少ない友人である彫刻家からダメ出しを受けます。クラウドリーフくん、人間、冒険しなけあならないよ。しなけあなりませんか。うむ、ならんよ。
でも、冷静に考えれば分かるのです。何を着ても着こなせるひとがいる。スタイルの良さとかは、恐らく何の関係もなくて、そのひとの持って生まれた才能ではないかと思うのですが、そう言うと、ファッションは努力だと、彫刻家にまた怒られます。でもなあ、何を着ても様にならない奴って、やっぱり居ると思うんですよ。少なくともここにひとり。彫刻家と、吉祥寺のアーケード街をふたりで歩いている姿を後ろから撮った写真が、いま、ぼくの手元に一枚あります。体格自体は、彼とぼくとの間で、ほとんど違いはありません(だから時折、彼はぼくに服をくれたりします)。だけれど、彼は男のぼくから見ても、明らかに格好良い。そうしてぼくは、本人であるぼくから見ても、ちょっと常軌を逸して恰好悪い。冴えない。これはもう、努力云々の話ではないのではないでしょうか。いや努力だよ。そうですかねえ。
それでも頑固にぼくが思うのは、その差は恐らく、ファッションに対する努力などではなく、それ以前の、見られているということそのものに対する才能なのではないかということです。昔、まだ彫刻家と出会ったばかりのころ、彼女がモデルをしていて彼が彫刻を作っている周囲を、ぼくは狂犬のように歯を剥きだして唸りながらぐるぐるぐるぐる回っていました。そんなある日、彼がぼくに、クラウドリーフくんもちょっとその椅子に座ってごらんよ、と言いました。制作の間、モデルさんが座っている、ちょっと高いところに設置されている椅子のことです。パニックに陥りながら、ぎょええ? ぎょええ! と鳴きながら椅子に座り、三秒後に頭痛と腹痛と腰痛を発症し、ずりずりと椅子からへたり落ちます。やっぱりだめ? やっぱりだめですねえ。冷たいコンクリートの上に、垂らした絵の具のように丸まりながら答えます。
ひとに見られるのが壊滅的に苦手なぼくが、いま、百人近い学生さんたちを前に、案外平気な顔をして、それでも決して彼女たちに顔を向けることはなく、ぼろっちい服装のまま、メディアがね、他者の痛みをさ、などと、虚空に向かってマシンガントークをかましています。時折、誰もいないはずの、教室前の扉に視線を向けたりすると、前の席に座っている学生さんが、自分が見られているのかと思い顔を上げ、ぼくの視線が向いていないことに怪訝な顔をしたりします。
どこをどう取っても恰好悪いぼくを、だけれども、ぼくは案外、気に入っています。そろそろ冬になるので、また、GORE TEXのPerformance shellを出さなければなりません。