例えば『炎のランナー』のラストシーンを覚えていらっしゃいますか? ハロルドが汽車から降りてシビルと会い、二人で立ち去る。この時点で既に聖歌隊による歌が始まっていて、二人がフレームの外に消えていくのに重ねて教会のシーンになる。いやディゾルブとか言うのでしょうが素人なので良く分からない。ともかくここのアンドリュー・リンゼイ卿を演じるナイジェル・ヘイヴァースの演技が素晴らしい。で、この後教会を後にしてかつて若かったアンドリューとオーブリーの二人が歩み去っていき、聖歌隊の歌声はそのまま続きつつ冒頭のシーン、皆がまだ若く海岸線を走っていくシーンに移行する。ここからです。ここから、ほんの一瞬音楽が消える。ただ彼らが砂浜を走る音、波の音、大気の音だけが聴こえてきて、やがてすぐに映画のテーマ音楽であるヴァンゲリスのTitlesが始まる……。
これが素晴らしいんですよ。聖歌隊の音楽は、その映画の中の、彼ら/彼女らが生きた世界のなかの音楽で、その世界の中で時間が過ぎていく。それぞれにcallingを受けて、避けようもなく逃れようもなく生きた人生がその一瞬に凝縮されている。ぼくらの人生ってそうじゃないでしょうか。すべての一瞬は永遠に残るけれど、常に振り返ることによってしか経験することはできない。でも儚いとかではなくて、やはりそれは自分をはるかに超えた巨大な何かによって駆動された不壊の、絶対的固有性を帯びた何かなのであって……。それを映画の外にいるぼくらもまた同時に体験していたけれど、それはもう遠ざかっていく。音楽が消えて彼らの足音だけが響くとき、その永遠性を、そして手の届かなさを感じるのです。きみの人生がそうであったように、それは彼ら/彼女らの人生だった。そしてTitlesは、「映画の世界の音楽」ではなくて、「映画の音楽」なんです。それによってぼくらは映画の世界から再びこの世界に立ち戻ることができる。送りかえされる。そしてそれはただ戻されるのではなく、確かにその映画の世界と交わったことによって変化した軌跡を得た者として送りかえされる。
改めて映画を観返せば、恐らくこのかたちを取っている映画って多いはずです。ぱっと思いつかないけれど。でもきょうたまたま思い出したのが『王立宇宙軍 オネアミスの翼』です。ラスト、人類史の辿り直しがあり、そこでは音楽が極めて重要な役割を果たしている。そしてついに人類は原爆を手にし、同時に鉄を鍛錬している情景が重ねられ……。ここで場面は街で宗教パンフレットを配るリイクニに移る。このときまた音楽は消えるのです。街の背景音はあるけれど。パンフレットを受け取る者は誰も居ないし、リイクニの言葉を聞く人も居ない。それでも、遥か上空で神へ祈るシロツグが乗る人工衛星が在るし、空からは雪が降ってくる。その雪の一片がパンフレットに落ち……、空を見上げるリイクニ、そしてカメラは急速に上昇しリイクニが小さくなっていき……、このタイミングでエンディングテーマが始まります。あ、音楽監督は坂本龍一ですね。これも構造的には炎のランナーと同じです。
いや断言しているけれどただの感想ですよ。でもぼくは、映画のラストにおけるこの動⇒静⇒動という流れが好きなのです。それは確かに生きられていた世界だった、それは不壊なるものでもう手を触れることさえできないものになった、そしてぼくらはこの世界に戻っていく……。
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前にも書きましたが、ぼくは一つ目の大学は中退して、社会人をしばらくしてから入った二つ目の大学では神学士を取りました。取るっていうのかな。まあいいや。神学士って、恐らく日本では比較的数が少ないと思います。ぼく自身はいわゆる神を信じているということはなくて、むしろ神に対しては異様な、と言っても良い殺意を抱いていました。そのきっかけはアスファルトの上で焼け死んでいる一匹のミミズであって……。でもこんな話をしても、皆さんちょっとこいつどうかしているんじゃないのか? とお思いになりますよね。ぼくだって誰かが突然そんなことを言いはじめたら目を逸らさないまま後退りして距離を取りますよ、森を出るまで。
でも当時は神学校生(つまり牧師になるための勉強をしているひとたち)と毎日のように議論をして、それはやはり楽しかった。あちこちの教会にもお邪魔をさせていただいたし、アメリカまで行って神学校の本拠地みたいなところのサマースクールに参加したり。どう考えてもコミュニケーションの反物質と言われているぼくのような人間が世界各地から集まった神学校生と話をしたりして、いまとなっては信じがたい時代ですが、ほんとうに得難い体験でした。
いずれにせよ、信仰について誰かと議論する機会というのはもう今後はないと思っていますし、信仰のない人とそういう議論をする(ことに意義を見出す)気力ももはやないのです。尊敬していた牧師先生の多くは亡くなりました。かつての神学校生たちは……どうだろう、とうに牧師になっている彼ら/彼女らが居る教会に、或る日行ってみたいという気持ちはあります。ぼくがもっとほんとうに年を取ったら。
だけれどもそれらのことの全体は、寂しいとかつまらないということではないのです。物語、つまりぼくは世界をこういうふうに見ていますよという語りの良いところは、どのようなかたちでも可能だという点にあります。本として残せれば最高ですし、ブログだってかまわないし、あるいはそもそも頭のなかでもう居ない誰かに語るのだって十分なのです。本のことも映画のことも雲のことも虫のことも。
生きているうちに語れることを楽しく語って、最後に少し静寂があって自分の息遣いだけが聴こえていて、そうしてそのさらに先には……。そんな感じで、適当に生きています。