デジタルの向こう側

「ぼくはハンバーガーが食べたい、ぼくはハンバーガーが食べたくない」という言葉があって、ぼくにとってはけっこう大きい意味を持っています。単純に言えば人間は相反する感情や意思を同時に持ち得るということを表しているだけなのですが、けれども、或る言葉が誰かにとってどれだけの重要性を持ち得るのかというのは、その言葉に付随する様ざまな背景によっても決まりますよね。だから共有することは難しいかもしれません。莫迦みたいに聴こえるかもしれません。とはいえ、矛盾したものを矛盾したままで抱え続けるというのがぼくの信条、というか信念、いやいや性質でして、それを明確に意識したきっかけの一つです。

などと言いつつ、実はこの言葉、どこで読んだのかがはっきり思い出せません。ぼくの記憶ではルディ・ラッカーの翻訳本のどれかだったはずなのですが……。きょう彼の本を読み直してみたのですが、ちょっと見つけられませんでした。けれど読み直しを通して、改めてラッカーの面白さを思い出せました。そうそう、若かったころのぼくはずいぶん影響を受けていたのだなあ。

ここから脱線するのですが、ラッカーは工作舎の『アインシュタインの部屋』(エド・レジス著、大貫昌子訳、1990)にもちょこっと登場する数学者です。ここでラッカーはプリンストン高等学術研究所に居たゲーデルに会いに来ている。このシーンはラッカー自身によって『無限と心』(好田順治訳、現代数学社、1986、出版社には既に情報がありませんでした)でも描かれていますが、相当オカルトです。「ゲーデルとの会話は、非常に直接的精神的感応の伝達のように感じられた」(p.177)。ゲーデルが抱える世界に対する恐怖心と猜疑心――それはやがて彼自身を殺すことになるのですが――そしてラッカーの空気の読まなさがストレートに表現されていてとても面白い。この本、翻訳に難ありすぎてお勧めしにくいのですが(そもそもこの本持っている方、ぼく以外には一人も出会ったことがありません)、ラッカー好きなら必読書です。翻訳が凄すぎて難物ですが……。とにかくこの辺りの本、高校時代のぼくはすごく影響を受けました。世界は謎に満ち溢れていて、いつかは自分もそういう謎を解く天才たちに交じって研究するのじゃとか思っていた。いやはや。まあ、いまはそんなんでなくても研究っていうのはできるということが分かったので、無駄な半世紀ではまったくないのですが。工作舎とか本当に良いですよね。楽しい思い出。いま読んでも面白いし。遡るとブルーバックスとかにも影響を受けたのかもしれません。これは小学校とか中学校くらいのころか。岩崎一彰氏の宇宙のイラストを見て天文学に憧れたりしていました。野山を駆け回りツチノコとバトルをしていた自分と、本だけあれば満足していた自分。どちらの記憶が正しいのかは分かりませんが、人生なんてそんなものです。さあどんどん話がずれます(大丈夫です、ちゃんと戻ります)。つい最近、といってもいつのことかもう思い出せませんが、島を買おうと思って公的競売の情報を眺めていました。もちろんそんなお金はないですよ? 3万円くらいで買えないかしら。でもってカエルやトカゲや鳥の天国にする。「死ね」と内なるブラック・ジャックが突然叫びます。「この空と海と大自然の美しさのわからんやつは――生きるねうちなどない!!」(『宝島』)。自分だけの世界を持ちたい――それは我執としての自我であったり近代的自己に基づいた私的所有の話であったりではなく――そういう気持ちはあります。そうだ、昔父とイギリスのとある地方を歩いていたとき、あれはぼくが十歳くらいでしょうか、廃墟のようなお城があり、それがけっこう(ぼくには、ではありませんが)買える値段だったのを覚えています。もちろん、維持費などを考えれば現実的ではないのですが。だけれども、まあ、それは良い記憶です。そうそう、なんで岩崎氏からこんな話になったのかというと、岩崎氏の「宇宙美術館」が競売に出ていたのです。寂しいですね……。

話がずれることでは定評のあるぼくです。言葉だけではなく実人生でさえどこかにさまよいだしてしまい、つまるところ、いまだにこんな人生です。だけれども、だけれども、ぼくには力業という武器がある。なので力業で話を戻します。

ぼくの数少ない才能のひとつにプログラミングがありますが、いやまあ、才能といったって「アリを眺めるのが得意です!」みたいな感じで、あまり実社会では役には立ちません。それでも、一時期はひたすら0と1だけの世界を生きていて、それでどうにかこうにか生き延びていたのは確かです。それがなければ……。

世界って怖いじゃないですか。突然ですけれども。ぼくは怖いです。意味が分からない。それでもあらゆることがもし0と1に還元できたら、その奔流が見えるようになったら、もしかするとぼくはその流れを読み取ることができるかもしれないし(そのくらいには自分の才能を信じていたのですね、若かったので)、ぼく自身もまた0と1に還元できるのであれば、世界をそこまで恐れる必要もなくなるかもしれない。そしてある程度は実際にそうなのです。

「なぜおれにあの娘を見せつけるんだい、こん畜生。それも繰り返し、繰り返し。おれを引っかき回しやがる。あの娘、殺したのはおまえだろ。千葉で……」/「いいや」/と少年は言う。/「冬寂か……」/「いいや。あの娘が死ぬのは眼に見えてた。きみが時おり、巷の舞いにパターンが読み取れそうに思っただろう。あのパターンは本当なんだ。ぼくはね、ぼくなりの限られたあり方で、複雑にできているから、そういう舞いが読める。冬寂よりずっと上手さ。ぼくはあの娘の死を読んだ。《安ホテル》のきみの棺桶の扉についていた錠前の磁気符号にも、ジュリー・ディーンの香港のシャツ仕立屋との取引口座にも、ね。腫瘍の影が、走査像を見る医者にとって明々白々なのと同じこと」

ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』黒丸尚訳、ハヤカワ文庫、1986、pp.421-422

これはギブスンの『ニューロマンサー』ですが、いうまでもなく、ニューロマンサーは人間が0と1のパターンだと言っているのではありません。超越的なAIでさえ、あるいはだからこそ、マトリクスに、すべてを数え上げることができるマトリクスに連れてきたその殺された娘を見つつ「でも、あの娘の心はわかるまい」(p.420)と言います。しばしば『ニューロマンサー』を、あるいは主人公のケイスを単なるデジタル主義のように捉える読解があり激怒を通り越して絶望するのですが、そうではありません。あれは、人間はデジタルでは表現できないものをどうしようもなく抱えているということ、そしてデジタルのなかにさえ分からないもの(=生)があるということを美しく描いた唯一の物語なのです。三部作の他の物語はあれだけれど。

例えばラッカーはセルラー・オートマトンについて説明するとき、しばしばスティーブン・ウルフラムを参照しています。ウルフラムもやはり天才ですし、これまた一時期、ぼくは滅茶苦茶ウルフラムの世界観に影響を受けていました。しかしウルフラムの場合は世界を0と1で捉えられるという思想が非常に強い。いやそうだとしても、それは単にそれでおしまい、それですべてが表現できるということなのでしょうか。どうなんだろう、と、ぼくはだんだん感じるようになっていきました。というよりも、ギブスンやラッカーを読んで共感するのは、まさにそこの部分なのです。

ゲーデルの定理とチャーチの定理をもたない世界は、すべての属性が加算的な世界であろう――いかなる種類の人間活動にも、結果が善であるかどうかを判定する決まったコードがあることになるだろう。そのような世界ではアカデミーは何が芸術であったかということや何が科学であったかということに関して判定を下すことができるだろう。創造性はアカデミーの規則に達するかどうかの問題になるだろうし、落選作品展覧会はゴミだけしか含まないものになってしまうだろう。/しかし[…]私たちの世界は有限なプログラムや有限な規則の集合以上に果てしなく複雑である。あなたは自由だ、あなたは実際に生きている、そして次に自分が何を考えるかを言いあてることもできないし、過去の足跡をはねのけて好きなときに新生活をはじめてはならないという理由も存在しないのだ。

ルディ・ラッカー『思考の道具箱 数学的リアリティの五つのレベル』金子務監訳、大槻有紀子、竹沢攻一、松村俊彦訳、工作者、1993、p.304

ラッカーは数学者です。どこまでも。だからと言って良いのかどうか分かりませんが、まあ、だから彼は0と1を信頼している。というよりもそれに拠って立っている。数学的センスがまったく欠落したぼくには想像もできないレベルで。けれどもそれはすべてがクリアになるということをまったく意味していません。むしろ逆なのです。だからこそ、分からない。だからこそ、自由がある。

ここで、もう一度問おう。リアリティとは何か? それは、不可逆な次元をもつフラクタル・セルオートマトン(CA)による圧縮不可能(incompressible)な計算である。そしてこの巨大な計算はどこでおこなわれているのか? あらゆるところで、である。私たちはそれからできているのである。

同書、p.393

これは例えばダニエル・ヒリスの名著『思考する機械コンピュータ』のラストにも通じるところがあります。ヒリスもまた、コンピュータがロジカルなものであることを大前提としたうえで、コンピュータ(マシン)のロジカルな海のなかに拡がる可能性を信じ、感じ取っているひとです。

私は、知性の源を侮辱しようとして「脳はマシンである」と言っているわけではない。私は、マシンの能力の潜在性を認めようとして「脳はマシンである」と言っているのである。人間の頭脳は我々の想像以下のものではなく、マシンは我々の想像をはるかに超えるものである。私は、そう信じている。

ダニエル・ヒリス『思考する機械 コンピュータ』倉骨彰訳、草思社、2000、p.272

いずれにせよ『思考の道具箱』、これはあの時代、工作舎でなければ出せなかった本でしょう。こういう、いやこの本でなくたっていいんです、ある瞬間その本があったから救われた何かというのは確かにあって……、それは音楽でも演劇でも何でもいいんです、でも確かに在る。そしてもし本がそれであったのなら、かつ、「この私」が救われたなどという下らない話ではなく、あくまでどこまでもその本こそが先に存在して、それが誰かに語りかけたその誰かがきみであったのなら、きみはきっと本読みなんです。ぼくはそう思います。

ぼくはいま、技術とは何かということを、人間存在と不可分なものとして考えています。そして人間が在るということがあらゆる他者なしにはあり得ないものである以上、それは倫理でもあります。つまり人間存在=倫理=技術ということです。それは技術礼賛でも技術批判でもなくて、ただひたすら人間はそうでしか存在し得ないものとしての原理です。無限の可能性があるのなら、そしてあると思うのですが、それは虚構としてのロマンティックで素朴な人間性には見いだせないだろうし、まして電通的な謳い文句に塗れた楽観的テクノロジストの無責任な夢想にもないでしょう。いま、ぼくはラッカーともヒリスとも思想上の立場は異なりますが、けれども彼らが見ているものの千分の一くらいは分かるし、共感もするのです。

論文とか学会発表とか、どうしてもあれかそれかになります。それはそれで仕方がありません。「生きて在ることって……何でしょうかね……」などと言っていたら研究にはなりません。「技術には……あれもあり……これもあり……」それでは困ります。それでも、そういった曖昧で漠然としているように思えるそれは、単に総体であるからそう見えるだけなのではないかとぼくは思います。同時に、だからこそその総体がもつ巨大な質量は、それ自体で分裂しようとしつつも強大な引力を持ち得る。それを表現し得る文体を、あるいは構造を超えた構造を表現しようとするのは、まあたかがぼく程度の才能ではその実現可能性はたかが知れていますが、それでも楽しいことです。

ほんとうに、楽しいばかりの人生です。

差異

ブログ、というともう既に死語であるようにも思えますが、ぼくにはやはりこの形式が合っています。blueskyなどのSNSは、何かを紹介するのには良いのですが、それ以上のことはどうしてもできません。根が長文派。だらだらと喋って何か雰囲気が伝われば良いよね、という感じで生きてきました。といっても友人などほとんどなく、部屋に籠って耳を澄ませていればそれで充分満ち足りてしまう性格なので、基本は独り言――というか既に居ない誰かさんたちと、あるいは本と会話をして、それで満足です。そうしてそういった会話を書き留めたりもします。大学時代はいまほどデジタルデバイスがなかったので、東芝ルポで打って印刷した原稿がいまでもどこかに大量に残っています。

その後デジタル化して、打ち込んだデータはHDDやSSDに保存されているのですが、これが問題で、データがあまりにも大量にあるためどこに何があるのかがさっぱり分かりません。おまけにそれらのデジタルデータは石英ガラスにレーザーで刻んだものであるはずもなく、いつダメになるか分かりません。デジタルデータの永遠性というのはただの虚構で、あるのは複製が(ユーザーレベルの作業としては)容易だというつまらない事実のみ。保存という点においてはいまだに紙の優位性は揺らがないとぼくは思っています。まして本に至っては……。まあまったくの別物で、紙の本が電子書籍に置き換わることはないでしょう。紙の本がなくなるということはあるかもしれない。もしかすると。でも置き換わることはないです。置き換わったと思う人びとが増えるということはあるでしょう。残念ですが。

それはともかくデジタルデータ。何のかんの言いつつ、別にぼくは反技術主義者ではないので記録はどんどん残します。ずっと昔、といってもたかだか20年ちょっとでしょうか、それが「ずっと昔」になってしまうところがデジタルの恐ろしさですが、ぼくが最初にブログを書き始めたのはMicrosoftの〝theSpoke 〟というコミュニティサイトでした。theSpokeなんてどなたもご存じではないでしょう!?(突然の興奮) で、ここでプログラミング言語、特にc言語に関する文法上の変な抜け穴のようなものばかりを書いていた。そのあとはてなに移って、オフ会とかにも行っちゃったりして……。当時出会った皆さんはお元気でしょうかね。とても面白い経験でした。もうそういったことはぼくの人生においてはあり得ませんが……ひとの目を見ることさえできないようなぼくがオフ会なんぞに行っていたのですから、まあ人生における特異点ですね。

それはともかく、再びデジタルデータ。昨日、ふいにtheSpokeのことを思い出して、当時何を書いていたかなとバックアップデータを探し始めました。実際にはこの「theSpoke」という名前さえ思い出せず6時間くらい悩みに悩んでようやく思い出せたのですが。そしてその名前を手掛かりにデータを探したらはてな時代のものも出てきて、しばらく眺めてぼんやり笑っていました。こんな時代もあったんだねえ。でも当時からまったく進歩していないねえ。しかしとにかく、かなり最初のころから粘着質に神に絡んでいたり、無駄に長文をだらだら書いていたり、三つ子の魂百までです。

ぼくのいちばん最初のお話というのは、最初の大学のとき、授業にも出ないで、近くのマクドナルドの二階で大学ノートに書いたものでした。走ってくる幸運の女神をバットで打ち返すとか何とか、そんなお話。意味が分かりませんね。それでそんなものをちょこちょこ書いていたら、あるとき彼女に「きみのお話は説教くさいんだよね」と言われて、そうか、説教くさいのはダメだよなあと思い、ヒマラヤに行って桶屋をひらいて、桶を買いもしないでかぶってばかりいるイエティと結婚するとか、なんかそんなお話を書いた記憶があります。これもまた意味が分かりませんね。

けれども今回没にしたお話の中にもやっぱり変だなあと感じるものもありまして、例えば登場人物が全員猪八戒の西遊記。三蔵「これ悟空よブヒヒ」悟空「なんですかお師匠様ブヒブヒ」八戒「ブホッ!(饅頭が喉につまった)」そんな感じ。あとはハードボイルド垢太郎。冒険を終え村に帰った垢太郎だが、しかし老いた両親はすでにこの世を去っていた。垢太郎は苦しかった旅を思い出す。そして仲間たちのことを。石コ太郎は家業の漬物石を継いだ。御堂コ太郎はただ御堂を担いでいるだけの変人だった。苦しかったことも楽しかったことも、いまはすべて思い出でしかない。垢太郎は風呂に身体を沈め、旅の疲れを取った。その後彼を見たものはいない。みたいな。何かもの悲しいですね。

何かね、こんな文章ばかり出てくる。そうでなければ神に絡んでいる。変なひとですが、オチもなにもないこういう文の断片、断片の堆積に、おそらくぼくという人間が表れているのだと思うのです。どうにも、短文は苦手です。しかし本題はこれではなく、ようやくここからなのですが、はてな時代に書いていたブログにカフカの『変身』とブルトンの『シュルレアリスム宣言』の翻訳を比較するというのがあったのです。これ意外に面白かったのでここに一部転載します。『宣言』はともかく、『変身』はラストに触れているので未読の方はご注意ください。

+(以下抜粋)

まずはカフカの『変身』。虫に変身するのは有名ですが、最後まで読むとこれが極めてシンプルな家族の物語であることが分ります。グレゴールの身に起きる変身が不条理であるが故に、物語の最後、彼が居なくなった後の開放感溢れる明るい家族の姿が痛切です。現代日本に生きるぼくらの少なからずが、きっとグレゴール的なものを抱えて生きているのだなあとぼくは感じてしまうのです。翻訳の比較は物語冒頭とラストで。出版年は初版とぼくが持っている版が違う場合は両方を載せています。

『変身』高橋義孝訳、新潮文庫、1952(1997)から。

ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。

それから親子三人はうちそろって家をあとにした。数ヶ月以来たえてなかったことである。三人は電車で郊外に出た。電車の中には三人のほかに客はだれもいなかった。暖かい日がさんさんとさしこんでいた。ゆったりとうしろによりかかりながら、三人はこれから先のことをあれこれと語りあった。よく考えてみれば一家の将来もそうわるいものではないということが判明した。[中略]三人がこんなふうにおしゃべりをしているうちに、ザムザ夫妻は、しだいに生きいきとして行く娘のようすを見て、娘がこの日ごろ顔色をわるくしたほどの心配苦労にもかかわらず、美しい豊麗な女に成長しているのにふたりはほとんど同時に気がついた。ザムザ夫妻は、しだいに無口になりながら、また、ほとんど無意識に目と目でうなづきあいながら、さあそろそろこの娘にも手ごろなお婿さんを探してやらねばなるまいと考えた。降りる場所に来た。ザムザ嬢が真っ先に立ちあがって若々しい手足をぐっと伸ばした。その様子は、ザムザ夫妻の目には、彼らの新しい夢とよき意図の確証のように映った。

次に『変身・判決・断食芸人ほか二編』高安国世訳、講談社文庫、1971から。

グレーゴル・ザムザはある朝、たて続けに苦しい夢を見て目をさますと、ベッドのなかで自分がいつのまにか巨大な毒虫に変身しているのに気づいた。

それから三人はそろって家を出た。それはもう何ヶ月ぶりのことだったろう。やがて彼らは郊外へ出るために市電に乗って走っていた。車内は彼らのほかに乗客がなく、あたたかい日ざしがいっぱいにあふれていた。三人はのびのびと足をのばして座席によりかかり、将来の見通しについて話し合った。よく考えてみるとそれはけっして暗いものでないことがわかって来た。[中略]そんなふうに話をしているうちに、しだいにいきいきとしてくる娘を見ながら、ザムザ夫婦はほとんど同時に、彼女が最近、頬が青ざめるほどいろいろとつらい目にあって来たのに、いつのまにか美しいふくよかな娘に育っていることに気づいた。だんだん口数すくなくなりながら、そしてほとんど無意識に目を見かわしてうなづき合いながら、ふたりは、娘ももう立派な相手を見つけてやらなければならぬ年ごろだと考えた。そうして、やがて目的地に着き、娘がいちばんに立ち上がり、若々しいからだを伸ばすのを見ると、ふたりにはそれが彼らの新しい夢と善意との確証のように思えた。

最後に『カフカ小説全集4 変身ほか』池内紀訳、白水社、2001から。

ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。

それから三人そろって家を出た。もう何か月もしたことがなかったことだ。そして電車で郊外へ出かけた。車内は彼ら親子だけで、あたたかい陽射しがさしこんでいた。三人はのんびりと座席にもたれ、将来の見通しを話し合った。よく考えると、現状はさほどひどいものでもないのである。[中略]そんなことを話し合っているうちに、ますます生きいきしてきた娘をながめていて、ザムザ夫妻はほぼ同時に気がついた。いろんな辛いことが、頬をこけさせていたが、にもかかわらずいつのまにやら、めだって美しい、ふっくらした娘になっていた。夫妻は口数が少なくなった。ほとんど無意識のうちに、たがいに目で了解し合って考えていた。そろそろ娘にいい相手を見つけてやるころあいだ。電車が目的地に着いて、娘がいちばん先に立ち上がり、若いからだで伸びをしたとき、それが二人には、自分たちの新しい夢と、たのしいもくろみを保証しているような気がした。

ぼくの記憶の中では、「一匹の巨大な毒虫に…」だったのですが、いま改めて読んでみると、高橋訳と高安訳の混合になっているのですね。カフカの翻訳と言えば池内氏が有名ですが、こうしてみると確かに池内氏の訳はやわらかい。カフカの物語は不条理なだけではなく、どこか非常にユーモラスなところもあるので、ぼくは氏の翻訳はとても好きです。

次いでブルトンの『シュルレアリスム宣言』。もし最も好きな本を三冊選べと言われたら間違いなく入るのがこのシュルレアリスム宣言です。もちろん岩波文庫版。あとは『人間の土地』と、『ポラーノの広場』かなあ。うーん、うーん、悩むなあ。まあいいや。で、このシュルレアリスム宣言には思い出があって、ぼくは昔、とある芸術系の大学を受けたのですが、二次の面接でとてもとても不のつく愉快な経験をしました。面接官の多くがそれと名の知られた人たちだったのですが、その半分の態度が極めて悪いのです。不貞腐れているのか酔っているのかやる気がないのか単に性格が悪いのか。ぼくは普段、他人のことをあまり悪く言っていないと思います。たぶん。恐らく。そうだといいなあ……。けれども、あれには参りました。芸術家を名乗るなら常識や礼節から外れた態度をとっても良いとでも思っているのでしょうか。ばかばかしい。人に対する思いやりや礼儀というのは、大変な労苦をともなって初めて身につけることができる偉大な能力なのです。たらたらした「芸術」とやらを作っているような浅薄な連中が、肥大化した自己愛だけを後生大事に抱えてふんぞりかえっている。醜いですね。おお、いまだに激怒している。芸術っていうのは、断言するけれど、そんなものでは決してない。自分の魂を神と世界に対して叩きつける覚悟がないのなら、そんなものには糞ほどの価値もないのです。そんなやつがですね、他の先生がぼくに対して何かを質問なさっていたときに突然割り込んできて、「ところでブルトンの『シュルレアリスム宣言』についてはどう思う?」とかおほざきになられたわけです。思わずそいつに向かって「生きろ!(反語)」とか思ってしまいましたよ。

翻訳の話からずれてしまった。話を戻します。『シュルレアリスム宣言』ですね。これは申し訳ないけれど、やはり巖谷訳が抜きん出て素晴らしい。「生はべつのところにある」。初めてこの文章を読んだ時は、陳腐な言い方ですが本当にぞっとしました。「生はべつのところにある」。ではいまぼくが生きているのは、本当の生なのでしょうか? これほど美しく、けれど厳しく恐ろしい言葉を、ぼくは他に三つも知りません。本当の生とはいったいどこにあるのでしょうか。ぼくらはそこに辿りつけるのでしょうか。

『シュルレアリスム宣言 溶ける魚』巖谷國士訳、岩波文庫、1992(1992)

シュルレアリスムはいつの日か敵にうちかつことを私たちにゆるす「不可視光線」だ。「おまえはもうふるえてなんかいない、わが痩軀よ」。この夏、薔薇は青い。森、それはガラスである。緑の衣におおわれた大地も、私には幽霊ほどのかすかな印象しかあたえない。生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。

『シュールレアリスム宣言集』森本和夫訳、現代思潮社、1975(1999)

シュールレアリスムは、いつの日か敵にたいする勝利をわれわれにおさめさせてくれることになる「見えない放射線」なのである。「やせっぽちの骸骨よ、お前はもう慄えてはいない」。この夏、薔薇は青く、森はガラスである。緑の衣につつまれた大地は、わずか幽霊ほどの印象をしか私に与えない。生活するとか、生活するのをやめるかいうことは、まさに仮想の解決である。実存というものは、もっと別のところにあるのだ。

『シュールレアリスム宣言』稲田三吉訳、現代思潮社、1961(1964)

シュールレアリスムは、われわれがいつの日か、それをわれわれの敵のうえにさし向けることのできる「不可視光線」である。「人間よ、お前はもう恐れおののく必要はないのだ。」今年の夏、バラは青い色をしている。森は、ガラスでできている。緑のなかに敷きつめられた大地は、幽霊と同じように、ほとんど私に印象をあたえない。生きることも、生きるのをやめることも、ともに想像の中でだけの解決にすぎない。生活は、もっと別のところにあるのだ。

最後のは、今回京都へ行った際に、京大の近くの本屋で購入したものです。現代思潮社からは二種類翻訳が出ているのですね。でもどちらもシュールレアリスムになっている……。

シュルレアリスムと言えばぼくは生田耕作が好きでして、『黒い文学館』(中公文庫)で彼が書いている「ブルトンから得たところは一口で語りつくせるものではなく、ブルトンの言葉をじかに聞く以外に途はないが、敵をつくる生き方を教わったことも大きな収穫の一つである」という言葉には強く影響を受けています。敵をつくる生き方! 難しいけれど、必要なことです。わあ、でもいま改めて読んだら、生田氏、巖谷氏のことを批判している。なんてこったい。

まあでも、そんな感じで幾つかの翻訳を比べてみると、それぞれの特徴が明らかになって面白いです。ぼくはあんまり翻訳にはこだわらない性質なのですが、そう言いつつも、やはり好きな翻訳者というのはあって、それは文章力はもちろん、恐らくその人の感性と原著者の感性が一致したときに生まれる緊張感やドライブ感、レトリックが生み出す急激なカーブにも揺るがない剛性などが心地よいということなのかもしれません。

+(以上抜粋)

そうですね……、あと、これを書いたときはあまり意識していなかったのですが、紙の本という物理的な媒体の面白いところは、版元によってまったく異なる「もの」になるということです。そしてもっといえば、同じ版元、同じ版、刷であっても、時を経て、人の手を経て、まったく異なるものになっていく。デジタルにもその可能性はあるけれど、やはり紙の本にはとうてい敵わない……、というよりもやはりまったくの別物です。だから、探してみると本棚には同じ原著のいろいろな翻訳バージョンがあるのですが、それぞれに読んでいて楽しいし、手に取っても面白い。ひとつひとつに固有の記憶が刻み込まれています。

でもそれを強く感じるようになったのは、ぼくの場合はですが、電子書籍なるものが出てきてからかもしれません。「オフ会」なんてものに死ぬる思いで参加したのも、当時はいまよりももっと現実/ネットの差みたいのが社会的にあったからだろうし(いま若い人が「オフ会」という言葉を仮に使うとしても、そこに与えられた重さは恐らくぜんぜん違うものなのでしょう)、ブログを長文として意識するようになったのもその後SNSがぐぐっと出てきてからのことでしょうし……。

まあ、そんな感じです。嘘じゃなくて、いま書いている原稿のベース、こんな雰囲気のものになります。こういう断片を積み重ねていって、徐々に助走を重ねて加速していって……。そう言いつつ既に十数年助走している彼は、再びどこかに走り去っていった。

リアリティ

最近、ふたたび写真を撮るようになり、といってもぼくが撮れるのは人間以外のものに限られるので小さな虫とか草とか石とか落ち葉になるのですが、とても楽しい。小学生みたいだな。もう少し寒くなると蚊も出てこなくなるでしょうし、そうしたらいまのように痒い痒いと言いながら茂みに紛れて撮ることもなくなります。とにかく、そういう小さなものを撮るのが好きです。普段ぼくらが見過ごしてしまいがちな世界も、そこに焦点を当てて固定すると、当然ですがそこにも美があることに気づきます。善悪を超えた美しさ。存在することの確かさといっても良いかもしれません。いえ、最初からそれらは見えているし、ぼく程度の腕ではむしろその1/1000も写して残すことはできないのですが、わずかに撮れたその写真によって、ぼくが観ている風景を共有することができる。それはとても面白いことです。

ぼくは自分の専門を環境哲学/メディア論と(一応は)名乗っています。ただ環境哲学というのはあまりメジャーではなく、基本的には環境倫理などと類縁的なものとして扱われることが多い。それはそれで間違いではないでしょう。いずれにせよそういったジャンルの研究者たちをずいぶんと見てきましたが、これは批判というよりも疑問として、彼ら/彼女らはあまり小さな景色に関心がないように思えるのです。例えば学会の大会があったりして、研究者たちがぞろぞろ集まってくる。そういったときに足下の蟻んこや落ち葉を見ている人ってあまり居ないのです。いやこれではぼくの方が変な人かもしれませんが、けれどもやはりどうにも肌が合いません。だってきみら環境とか生命とか言ってんじゃん、と思ってしまうのです。人間中心主義を乗り越えるなんて大前提で、もう乗り超えた顔をしている。でもきみら足下見ていないじゃん。落ち葉踏んでんじゃん。

話がマクロだとかミクロだとかではなくて、ではお前は一つも命を奪ったことがないのかなどということでもなくて、その言葉、その立ち居振る舞いにリアリティがあるかどうかなのです。どうしても、ぼくはそこを見てしまいます。最初からウルトラな議論をしているんだぜというのであればそれはそれで構いません。でも生命について少しでも考えるのであれば……。足下を見てくれよと、ぼくはいつも思っていました。

あるいは、例えば環境破壊とか何とか、まあ何でもいいですがそういう議論になるとキリスト教の影響がなどという話が出てくる。そしてたいてい創世記が参照され、人間中心主義がうんたら……などとなります。それはそれで一つのストーリーにはなるでしょう。だけれども……。たとえば

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

日本聖書協会『新共同訳 新約聖書』マタイによる福音書5章39節

彼ら/彼女らはこの言葉をどう思うのでしょうか。ぼくは自分の論文において(これを言うと毎回意外な顔をされるのですが)常に民主主義について考えてきました。とはいえ、「主義」という言葉には違和感があるので、より人間の本質から生み出されるものとしての「根源的民主性」といったりもしますが、いやまてよ、論文で本当にこの言葉使ったことあるかな。まあいいや。どのみち「民主」という言葉もまた難しいし。しかしいずれにせよ、マタイのこの箇所には、或る人間が自分自身の一切から手を離す途轍もない覚悟が――覚悟するのが〝自分〟であるが故にこれもまた矛盾なのですが――示されています。恐らく、ここにしか、いや他のあらゆる信仰でも文化でも文学でも何でもいい、とにかくこれによって示される在り方にしか可能性はない。ぼくはそう思います。だからぼくは常に怖い。だいたいいつもちびっています。

ぼくは一体何を言っているのでしょう? ぼく自身には分かります。分からないということも含めて。しかしそれを表すには数万の言葉が必要で、しかもそれは結局、数万の言葉では表現できないことを表現するための数万語です。だからお互いに伝わらないし、別段、それはそれで構わないのです。ただ、リアリティのないあらゆる語りには、決して力は宿りません。

blueskyで良い映画の紹介を――といってもわずか数百文字での紹介に過ぎませんが――していて、きょうはLocal Heroについて書きました。これとても良い映画なのでお勧めです。ぼくはこういう単なる紹介が好きで、ただ単に面白いよ、面白いよね、面白いのか、ということをしたい。そこに、我田引水で自分の研究にむりやり接続して暴力的な解釈をしたり、知識の量を誇ったり、ほんとうにそういうのは嫌なのです……。自然につながるのはいいのです。それは凄く良い。そういう研究を私はしたい。けれども、まあぼくの狭く短い経験ですが、純粋な愛を持って映画や文学を語れる研究者を、ぼくはほとんど知ることがありませんでした。じゃあ研究者以外ならいるのかというとそれはそれで難しいですが、けれども、あの異様な特権意識のようなもの、知識マウント、自己が常に先に来て作品はその自己の閉じた眼差しの対象でしかないという異様な酷薄さ、それはやはり研究者特有のものではないかと感じていました。

例えば……今回Local Heroを観ていてあらためて気づいたのは、主人公をサポートする現地支社の社員Danny Oldsenを演じるPeter Capaldi、どこかで見たことがあるなあと思ったらケン・ラッセルの『白蛇伝説』、これ本当に変な映画で、あの時代だから作ることのできたものだと思いますが、そのAngus Flint役だったとか、あるいはホテルオーナー兼会計士であるGordon Urquhartを演ずるDenis Lawsonはスターウォーズで最後まで生き残るパイロット役の人だったとか(子供心にも人がどんどん死んでいくのが嫌だったので、生き残った彼のことは非常に印象深かったのです)、この年になってはっと思い出して一致するような発見があって、それが凄く面白い。でもそれって、そこで伝えたいことって、ぼくが子どものころに、あるいは若いときに観た映画があって、その埋もれていた記憶がふと甦っていま・この瞬間と繋がって、そこから一気に沸き起こる諸々の想念があって……、その全体の雰囲気なんです。知識とかどうでもいい。

なんかね、そういう話をしたいのです。でもって、ぼくにとっての環境哲学とかメディア論とか倫理とかって、そういうことなのです。例によって何を言っているのか分かりませんが。あ、なんか暗いままで終わってしまっ [ここで通信は途絶している。]

朋有り遠方より来る

今回は普段とは異なり、〝物語〟ではなくリアルのお話です。ぼくの数少ない研究仲間である上柿崇英さんが『メディオーム』の解説動画を作ってくださいました。そもそも誰かの単著の紹介、解説、解題、何でもよいですが、それを書くだけでも大変な労力になります。しかも自分の研究のためならともかく、別段、自分の得になるわけでもないのに多くの時間を割いてまでというのはなかなかありません。さらに動画までとなると、もはやこれはありがたいを超えて申し訳ないばかりです。

以下、前後編に別れていますが、ぼくの入り組んだ議論……というよりもどうもあまり共感を得られにくいらしい議論をとても簡潔かつ明快に紹介してくださっているので、ご覧いただけましたら幸いです。こういうの、ぼくはほんとうに苦手でして、自分の議論でさえ的確に最小構成で説明できません。だからまあ、この動画、実はぼく自身がいちばん助かるかもしれませんね。あと、同じチャンネル内にて上柿さんご自身の研究についての動画もありますので、それもぜひ。以下チャンネルへのリンク。

https://www.youtube.com/@kyojinnokata

生まれついてのいい加減な人間であるぼくとは異なり、上柿さんは自分自身でこの時代を、この世界を語れるような思想を作るぜということを真面目に真正面からやっている人です。これはいまの日本のアカデミズムではなかなか構造的に困難なことで、ぼくにはとてもできません。それでも、十年くらい前でしょうか、なぜか「単著をがんばって書こうの会」みたいな会合に誘ってもらい、そこから、当時の大阪府立大学(いまは大阪公立大学)の環境哲学・人間学研究所の客員研究員にもさせてもらいつつ、定期的に研究会をしたりしています。引きこもりなうえにアカデミズムにほとんど関心を失っているぼくが曲がりなりにも研究を続けているのは、こうやって声をかけてくれる研究仲間がいるからで、そういった意味でもぼくの博士課程時代は幸運に恵まれていたのだと改めて思います。ゼミを超えて、大学を超えて、数は少ないけれど得難い研究仲間を得ることができました。

せっかくなのでいくつかご紹介を。上柿さんのnote。環境哲学って何? というのがまとめられています。膨大な量ですが、面白いテーマが幾つもあります。

https://note.com/kyojinnokata

以下は同じく研究仲間である増田敬祐さんと上柿さんの双方の論考が載っている最新書籍(丸善出版)。「多様な未来世界を哲学で思考する新シリーズ「未来世界を哲学する」続々刊行!」とのことで、その記念すべき第一巻。第一章が上柿さん、最後の第四章が増田さんで、内容的にも対称性があり相補的で面白い。お勧めです。増田さんのタイトルは「環境にやさしい世界とは何か」。激しく皮肉が効いています。

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b306066.html

しかしこの企画、何で二人に声がかかって俺に声がかからないんだと嫉妬でギリギリしていたのですが、そもそも「若手・中堅の哲学思想研究者」からなる執筆陣ということで、そりゃぼくは無理です。いやまあ実力的にも業績的にも無理でしょと言われれば、それは……そうなんですが。でも正直うらやましいですね。嫉妬!

次は上柿さんの単著です。めちゃくちゃハードですが、類を見ない稀有な哲学書です。残念ながら版元の農林統計出版が廃業してしまっていますが、上柿さんのサイトに入手方法が書かれています。こちらもぜひぜひ。

https://schs.gendainingengaku.org/book1_detail.html

おお、何か今回は研究者っぽいですね。ついでに、「環境思想・教育研究」に載せた『〈自己完結社会〉の成立』の私の書評も。これは発行元の許可を得て公開しているものです。

https://note.com/kyojinnokata/n/n784b403b18f9

ぼく自身は、古い時代の文学によって形作られたヒューマニズムを魂の根っこ部分に刻み込んでいる人間です。そうして常に、存在しない神と戦わねばなどと訳の分からないことを言っている。そして何よりも、とにかくいい加減で冗談を言っていないと生きていけません。そういった点では、剛速球一本勝負みたいな上柿さんとはぜんぜん研究スタイルは異なっているのでしょう。それでも、近代的な自己概念に対する批判意識は深く共有していますし、何よりも人間が生きているあらゆる次元における有限性(そしてそれゆえにこそ生じる無限性)に対する感覚は、根本部分における共有項です。

上柿さんの『〈自己完結社会〉の成立』もぼくの『メディオーム』も、そういった議論のなかから生まれたひとつの成果です。とはいえそれはもう終わった第一期。いまは次の単著に向けてそれぞれ進み始めているところ。また何か良いものを作れればと願っています。あ、間違えました。良いものが出てきますので、ご期待ください。

それとは別の格好悪さを

ぼくはTSUNDOKUという言葉があまり好きではなくて、いえ本当のことを言えばものすごく嫌いで、漢字で書くのも嫌なのです。その行為、というかその状態が嫌なのではなく、その言葉を平気で使うような精神性が嫌なのです。本って、あっという間に絶版になってしまいますよね。ぼくは90年代から00年代にかけてずいぶん本を買いましたが、いろいろあってその多くを手放しました。いまようやく本を集める余裕が再び少しできてきたときに、じゃあそれらの本をまた手に入れられるかというとこれがひどく難しい。地味地味と集めてはいますが、もう手に入らないものもあるでしょう。ですので、これは欲しいなと思った本は出たときに買っておいた方が良い(実際、ぼくの持っている本には第一版第一刷が多くあります)。そしてそれが重なれば読むのが物理的に追いつかないということも当然生じ得る。それは間違いないのです。

そしてまた、本は大切に保存すればぼくよりもずっと長く生きるものです。だから本を持つということは単に自分が読むためだけではなく、次の時代に残していくための一時的な保管者になるというだけのことでもあります。実際に引き継げるかどうかはともかくとして、理念としては確かにそういった側面がある。

だから、購入した本をすべてすぐに読めなくても、あるいは読まなくても、それ自体が悪いというはずはありません。だけれど、それをその言葉で表現して正当化することに対しては、本読みの本分が直感的に「それはちょっと違うんじゃない?」と抗議の声を上げるのです。そこに何か美しくない居直りを感じ取ってしまう。それは仕方がないことではあるけれど誇るべきことではない。当たり前だけれど、本はやはり読まれなければ命が吹き込まれないものなのですから。本読みってそれができる人のことを言うのですから。

もちろん、ぼくの本棚にも、読んでいない本は幾冊かあります。例えば岩波文庫の『相対性理論』は、いつかすべての義理や雑務から解放されたらじっくり読もうと思っているのです。「時間、空間に対する相対性理論の考え方という、この理論の最も特徴的な部分は[・・・]代数の初歩さえ覚えていれば、誰にでもこの有名な論文の最も素晴らしい点を十分に〝鑑賞〟してもらえるものと確信する」と訳者/解説者の内山龍雄氏も書いていらっしゃるので、物理音痴のぼくでも時間をかければ概要を理解できるのではないかと楽しみにしているのです。あとはチャイティンの『知の限界』、ニュートンの『Opticks』、などなど。もう自分の論文とか関係なしにゆっくり読みたい。それがいまから楽しみです。ちなみにぼくはOpticksはこれを持っていて例によってこれも第一版ですが、ぼくは世俗塗れの人間なのでちょっと自慢してしまいます。とても美しい装幀。

なあんだ、それならこれだってTSUNDOKUじゃないの、と言われれば、けれどもやっぱり違うんだよなあという気がします。その本とぼくの関係は、少なくともその言葉によって示されるような関係性ではなく、物凄く個人的で固有なものであって、だから公言しようのないものです。少なくとも、それは本読みのスタイルを表す言葉ではない……。

本を読むって、何よりもまずコミュニケーションであるはずです。その著者が生きているのであれ死んでいるのであれ、読むときに、そこに対話が立ち現れる。そうでなければ意味なんてないですよね。そして、例えばぼくらが誰かをふと目にしたときに、面白そうだな、魅力的な人だなと思って、でもいまは忙しいとか気分ではないとかで、とりあえずその人を自分の家に連れて帰って、ぼくがその人と話す気になるまで家に居てもらう。そんなことはあり得ないわけです。

もちろん、本は人間そのものではありません。繰り返すけれど、だからTSUNDOKUという言葉で自らの行為を正当化したり居直ったり何故か誇らしげにさえ公言したりするのが嫌なだけで、それが指し示す行為自体を否定しているのではありません。でも最近、こういう居直り、開き直りの言葉が増えてきているような気がして、それがとても怖い。そもそも本を読むひとであれば、言葉に対して鋭敏であってほしい。いやあろうとしてほしい。ぼくだって全然だめですけれども、少なくともそうでありたいと願っています。だから余計に……。

暗い話になってしまった。本来のぼくはとにかくいい加減で能天気なのです。もうこれだけはぜひ知っておいていただきたい。

それはともかく後期の非常勤が始まったのですが、けっこうこれ、暗い話題が多い講義になります。技術者倫理なので、要は問題が起きたときにどうするかみたいなお話をせざるを得ないわけですね。しかも答えは出ない。もちろん、学問としての枠組みはあります。けれど或るXという事例に対して倫理的にはこう応答するのが正しいのじゃ、みたいなものはない。様ざまな枠組みを使ってそのXを多角的に眺めてみることはできるようになるかもしれないし、自分を客観視することも多少はできるようになるかもしれない。それはそれで非常に大切なことです。でも本質的に答えはない。ぼくはそう思います。答えがでないなかで悩み続けること、悩み続けることを引き受けること。

ぼくは体育会系って嫌いでして、もう筋肉嫌い。根性とか大嫌い。武道を学べば礼節を知ることが……、とか聞くと、いわゆる反吐状の物質が口状の生体器官から噴出するくらいです。んなもん人を殴る訓練をしなくても端から知っとるわい、と思う訳ですよ。そんなことを言いつつ筋トレはしているし、ぼくの行動原理は気合と根性が9割くらいを占めている。なので講義では「倫理って答えがない問題ばかりで疲れちゃうかもしれないけれど、普段から悩まないといざというときに悩むことさえできなくてびっくりするから、まあ筋トレだと思ってがんばろう!」とか言っている。どうなんでしょうねこれ。いや本当に筋肉とか根性って嫌いなんですけれども。

だけれど、こんな話をするときには、いつもティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳、文春文庫、1998)を思い出します。とても良い本なのでお勧めですが(とはいえ、ぼくは翻訳者は村上春樹ではなく中野圭二の方がよかった)、ここに印象深い挿話があるのです。

私は思うのだけれど、人は誰しもこう信じたがっているのだ。我々は道義上の緊急事態に直面すれば、きっぱりと勇猛果敢に、個人的損失や不面目などものともせずに、若き日に憧れた英雄のごとく行動するであろうと。[・・・]どうやら私は、勇気というものは遺産と同じように、限定された量だけを受け取るものだと思い込んでいたようだった。無駄遣いしないように倹約して取っておいて、その分の利息を積んでいけば、モラルの準備資産というのはどんどん増加していくし、それをある日必要になったときにさっと引き出せばいいのだと。それはまったく虫の良い理論だった。そのおかげで私は、勇気を必要とする煩雑でささやかな日常的行為をどんどんパスすることができた。そういう常習的卑怯さに対して、その理論は希望と赦免を与えてくれた。

『本当の戦争の話をしよう』「レイニー河で」、pp.71-72

『本当の戦争の話をしよう』は短編集でして、上の引用は「レイニー河で」からのもの。ベトナム戦争時に徴集され、良心的兵役拒否をするかどうか悩み続ける主人公。「私は卑怯者だった」というラストの言葉がほんとうに重い。これと「勇敢であること」は、勇気について考えるときぜひ読んでいただければと思う短編です。あとは同じくティム・オブライエン『僕が戦場で死んだら』(中野圭二訳、白水社、1990)、これも短編集ですが「賢く耐える」、「勇気とは一種の保持である」も強くお勧めです。

でも、まあそうなんですよね……。いま目の前にあることに相対できない人間が、応答できない人間が、その十倍、百倍のできごとに対して責任をとれるはずがない。難しいことだけれども……。そう、やっぱり難しいんです。答えもないし、正解を引き続けられる誰かさんも恐らくいない。だからといって居直るのも違う。それは絶対に違う。「スミス中隊長は自分は臆病者だということを、ためらいもなくその言葉を使って認めた」(「賢く耐える」p.176)。これは「レイニー河で」のラストにおける「私は卑怯者だった」とはまったく異なる、まさに居直りの言葉としての臆病さです。

そしてまた、ぼくらは誰だってそんな超人的にはなれないし、なれなくて良いのです。居直りとしてではなく。

そして臆病者でもなければ英雄でもない人々、恐怖のあまり大粒の汗を浮かし、失敗し、泣きべそをかき、ふたたびやりなおす人々――アルファ中隊の大多数の兵士たち――彼らでさえ、名誉を挽回するチャンスはあるかもしれない。格言のように簡単に断定されてしまうと、普通の人間は救われない。なんとかやってみたいのだけれど、すでに一度ならず死んだ人間、銃弾の下で恐怖におののき、死の行為を経験し、それを切り抜けてみごとに生き返った人間は救われない。降ってくる弾が瞬時止まる。スローモーションのように、弾丸の形がはっきり見え、光っている。音が消える。終わりかと思って、おそるおそる顔を上げて窺う。それから他の兵隊たちを見て、彼らの目の奥に、自分自身の深く陥没した腹を見てとる。歯医者の椅子の上でノヴォカインから醒めて行くように、恐怖がゆっくりと消える。次回はもっとちゃんとやるぞと、ほとんど唇まで動かして、約束する。そのこと自体が一種の勇気である。

『僕が戦場で死んだら』「賢く耐える」p.179

そんな感じで訳の分からぬことを話しつつ授業をしています。受講生さんたちには、こんないい加減で適当なやつでもまあ半世紀はどうにかこうにか生きていられるんだなという、そういう生きた実例として私を見てほしい。そういうことを私は伝えたい。現場からは以上です。

ハックルベリー

例えば、自分自身に電話をかけることを考えてみます。いや考える必要はないですね。かけちゃいましょう。いまちょっとかけてみます……。「ただいま電話にでることが……」という自動メッセージが聴こえてきます。callingって、ぼくにとってはかなり重要な単語です。召命。同時に、ただ単に電話の呼び出しでもある。ぼく自身は常に存在しない神との闘争に明け暮れてここまで生きてきました。すべてはやはりそこに戻っていく。やがていつか自分が死んで存在しない神の前に立ったとき、何を語れるのか、何を叫べるのか。すべてが論理的に矛盾しているのですが、しかし在るということは、つまるところ矛盾の総体だということでもあります。ぼくにとって、だからcallingというのは……。

とはいえ、自分自身に対して電話をかけることはできます。その応答が自動音声なのか話し中なのか、いずれにせよそれはそれで面白い。いま電話がブルブル震え、「さっき着信があったよ」と教えてくれました。まあ自分でかけたんだけれどさ。

ただ、個人的な感覚としては――この感覚が一般的なものではまったくないことを認めた上で――やはりcallingなり、非‐callingなりは在ってほしいのです。そこから断絶した生は、ぼくはあまり見たくないし、かかわりたくない。意識していないということではなく、それなしに在ることを、在れると思い込んでいることを当然として疑わないような在り方。それはあまりに醜く、惨いものです。

そして例によって話は飛びます。ぼくはホワイトハッカーという言葉が嫌いなのです。薄気味が悪い。いま適当にネットで検索してみましょう。日立ソリューションズのページがトップに出てきました。これ、もちろんどのサイトでも構いません、本質的なところではどうせみな同じような内容になるでしょう。

上記のページでは、ハッカーというのは本来価値中立的で「コンピューターやインターネットなどについて高度な知識や高い技術を持っている人」を意味するとあります。なるほど。そしてホワイトハッカーとは「知識や技術を善良な目的のために利用する人」である。これ当然ですが何も間違っていません。上記のページ全体としても非常に良くまとまっています。そしてホワイトハッカーの仕事として、次にはこう来ます。「例えば、国や企業のウェブサーバーに対して不正なアクセスがあった場合、ホワイトハッカーは調査や防御対策を実施します」。

ぼくはこれが恐ろしい。なぜ国や企業への攻撃を防ぐことが善良な目的になるのか。いうまでもなく、不法な行為をしろと言っているのではありません。下らない犯罪行為のために技術を使うのだって莫迦そのものです。舐めるなよというのは、別段、社会に背けとかではないのです。反‐、なんていうのはつまるところハイフンの先にあるものに依存しているだけです。極めてダサいと思わないかい? いやぼくにとってのバイブルである『ニューロマンサー』では、ケイスはカウボーイと呼ばれますが、要するにその実態は違法行為を行うハッカーです。けれども彼の場合は、彼のスタイルを突き詰めていけばその先にあるのは、あるいはその出発点にあるのは黒丸尚さんの訳語を借りれば「凝り性(アーティースト)」であって、つまりは他に選べない生き方の問題です。

善にしろ悪にしろ、所詮は自らの外部において作られたもの、与えられたもの、あるいは強制されたものに対してそう名付けられただけのものに盲目的に尽くす、あるいは反抗する、それだけでしかないのであれば、それはハッカーというスタイルからはかけ離れたものでしょう。俺は俺だ、きみはきみだ、それを守ろう、というもっとも基本的な個人の尊厳があるのだとすれば、それを実現させ守るための腕を持つことがハッカーであるということです。独断と偏見ですよこれ。ほんとうのことをいえばハッカーの定義などどうでも良くて、ぼくはぼくでぼくなりにやるしかない。ただやはり、その盲目性にはぼくは加われない……。だから上記のページで「善悪の意味合いは含んでいない」というのは正しく、だけれども、それはもっと強い意味で、「善悪を超えて俺が俺であるための、きみがきみであるための闘争を表現する技術」であるはずです。

繰り返しますが独断と偏見です。それでも、ホワイトハッカーの大会とかコンテストとか、そういうものに若いひとたちが参加して、賞をもらったりするのを見ると、ぞっとするのです。

ただ……、もちろん、それほど単純な話ではありません。ぼくらは食べていかないといけない。どうしたって、どこかで妥協する必要があるし、あるいは面従腹背する必要だってあるでしょう。というかそれが常態ですよね、ぼくらの生活は。でも目を見れば分かるのです。ああ、こいつホワイトハッカーだ! お父さんお父さんあれが見えないの? あれホワイトハッカーやで。

ぼくはYMOが再生したときのTECHNODONってあまり好きではないのです。これ確か、当時彼女とふたりで再生ライブに行った気がする。いま確認したら行ったそうです。そうだったそうだった。だけれど、良くなかった……。あのYMOを生きているうちに生で観られると喜び勇んで行きましたが、でも、ぼくの結論としては残る曲はないなと思いました。そしてこのとき作られたビデオも本も良くなかった……。何なんだアレ……。

だけれど、本の方は幾つかとても良い箇所があります。引用してみましょう。高橋幸宏による坂本龍一評(というよりも日本の音楽シーン評)です。

教授だってアカデミー賞もグラミー賞も取って、「世界の坂本」って言われてるけど、その、日本的な「世界の坂本」っていう認知は、彼の納得のいくものじゃないのかもしれない。オリンピックのオープニングにしても、彼が一番嫌っていた、ある種、保守的な国家的作業もこなしているわけですよ。彼は闘っているんですね。

細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、後藤繁雄『TECHNODON(テクノドン)』小学館、1993、p.29

凄く難しいけれど、重要で、必要なことだと思うのです。どんな職業においても。どんな生き方においても。

別に深刻な話ではなくて。そうそう、先日、ほんとうにひさしぶりに研究会に参加してきたのですが、そこでぼくの『メディオーム』の話が出ました(議論の一環として)。それで、その本のなかでは「貫通(penetration)」という単語が重要な要素として出てくるのですが、それを聞いた研究仲間のひとりがけっこう爆笑していました。彼は詩人でもあり、さすがに言語感覚が鋭いなとぼくも笑ってしまったのですが、まあ、そんな感じです。どんな感じか分かりませんが、大丈夫。ぼくだって何も分かっちゃいないのです。

初めにマイムが

パントマイムが好きで、時折youtubeなどで良さそうなものを探して観ています。

もうすぐ後期の非常勤が始まるのですが、コミュニケーション能力に重大な問題を抱えているぼくが講義をするのは、本来であれば(『洪水はわが魂に及び』的にいえば)コートームケイな物語でしかありません。けれどもなぜかぼくは昔から演技をすることを存在の基本様態の一つにしており、偶にこれをしないと息苦しくなってしまうのです。ですので、講義はそのためのちょうど良い場になります。別段変なことをするわけではなく、外からみれば単に普通の講義をしているだけなのですが。

けれど演技をするといっても、基本的には(黙っている間も含めた)喋りが主な表現方法になります。あたりまえですよね、講義なのに無音だったら……いや、それはそれでありかもしれません。単にぼくの演技のベースは喋りにあるということ。それはお世辞にもうまいとは言えないものかもしれませんが、でもまあ、やらにゃあならぬ。存在するって、どのみちそんなものです。

とにかく、そんなぼくからすると、無音で表現するパントマイムは極めて興味深いのです。観て学べる何かがあるわけではありません。何しろモードが違いすぎます。魚が鳥を見るように、鳥が魚を見るように。いやペンギンは? ともかく、自分に取り込めない巨大な何かを観取するというのは、これ以上ない恐怖であり自由であり、要するに存在することそのものの実感に直結した喜びになります。

まあそんなことはどうでもいいですね。とにかくパントマイム。youtubeで気軽に観られるものをいくつかご紹介していきます。ちなみにぼくの数少ない友人のひとりである彫刻家は、子どものころマルソーの日本公演を生で観たそうです。「youtubeで観たってそんなもんマイムの何も分かりゃしないよ」と言われ、ぐぬぬ・ぬ、ぐぬぬ・ぬ、と、アーサー・ゴードン・ピムの物語の紛い物じみた唸り声を上げつつ泣いて退却するばかり。でも良いじゃない、youtubeだって。外に出るの怖いんだもの。

Walking Against the Wind

これはマイムじゃないだろうと言われればそうなのですが、非常に良くできた短編映画。ユーモアもありつつ、パントマイム特有の悲しみもありつつ、最後は見事に落ちがつきます。

The Mime

極めてシンプル。ラスト、パントマイミストの表情がとても良いです。

上記二つの動画はとても好きなもの。何よりもぼくが憎むのは、「マイムをしているこの自分を見ろ」という意識が露骨に見えてしまうものです。演ずるというのはそういうものではない。演技も自分も消えてしまわなければならない。話は変わりますがいわゆるハリウッドスターは別です。ジョン・ウェインとかオードリー・ヘップバーンとか。でも少しでも「俺が」というものが出てしまったら、もうそれはマイムではない。独断による断言。これほんとうにただの偏見なので気にしないでください。いずれにせよ、上の二つはそんな偏屈なぼくが観ても面白い。

だけれども、やはりそれだけではないのです。いえ、繰り返しますが上の短編、文句なく面白いし、凄いです。お勧め。その上で、恐らくマイムの究極的な到達点というのは、無音でこの世界を創り出す、そのくらいの力を持ったものであると思うのです。無音で世界を表現するということを超えて、世界を生み出してしまう。そんなん可能なの? といえば、ぼくらはそれをマルセル・マルソーを通して確かに観ることができます。

Le Mime Marceau

もはや、ぼくごときの下らない説明は不要でしょう。

と言いつつ好きなので喋ってしまうのですが、マルソーはチャップリンの影響を受けているとのこと。実際、マルソーの動きの幾つかはほんとうにチャップリンです。チャップリンの動画(できれば映画)もぜひ観てみてください。

ぼくはチャップリンも大好きですが、でも、チャップリンの場合は人間として地続きな気がします。喜怒哀楽が分かる。というか、彼がそれを天才として見事に強力に表現している。でもマルソーには人間から断絶した何かを感じます。恐らくそれは天地創造に近い……、などと意味不明な供述を繰り返しており……、近所の住人によれば普段から怪しい言動を……、云々。