ラテンアメリカの民衆芸術

所用があって大阪に行くついでに、国立民族学博物館で開催されている「ラテンアメリカの民衆芸術」を観てきました。特別展だけではなく常設展も面白いものばかり。今回は時間もなく駆け足で通り抜けるだけになってしまいましたが、またいつかゆっくり観て回りたいと思います。

木彫(ヤギのナワル)、Manuel Jiménez、Angélico Jiménez、Isaías Jiménez作、メキシコ合衆国
玩具(観覧車)、メキシコ合衆国
木彫(悪魔)、Isidoro Cruz作、メキシコ合衆国
仮面、ブラジル連邦共和国

以下は常設展示から。

仮面、ジャワ島
ランダ(魔女)、バリ島
シャマニズム儀礼用具(ミニチュアシャマン)、モンゴル

え、あそこに引っ越すの? うちの近くじゃ~ん

しばらく前に短い企画書のリライトを書き終え、といってもまださらなるリライトは必要なのですが、ほんの一瞬とはいえやれやれほっと一息、などと油断したのがいけなかったのでしょうか。ひさしぶりに激しい頭痛が始まってしまい、数日間、これは脳が炎症しておりますな、といった感じで参りました。参っているときに見る夢というのがまた変なモノばかりで、とはいうもののぼくが見る夢なんていつも地獄(比喩ではなく本来の意味での地獄)の夢ばかり。けれども時折妙に可笑しい夢を見ることもあって、ウヒヒ、などと笑いながら目覚めるときもあります。あまりに下品でここには書けないけれども、夢の中で歌を思いつくこともあって、二、三年前に夢の中で聴いた歌など、いまでもときおり口ずさんでいます。

人の夢の話を聞くのってつまらないと良く言いますよね。そうかもしれません。でも書きます。だって他にぼくがこのブログに書くことといったら歯医者のことか靴のことくらいですよ。じゃあ歯医者のことを書きます。先日定期健診でいつもの歯医者さんに行ったのですが、それも問題なく終えて会計を待っていると、受付の女性が会計をしているご老人に「私明日でここ辞めるんです」と言っていました。目の前なので聞こえてしまう。でそのご老人も常連さんというのか、慣れた感じで「残念ですね」「これからどうするのか決まっているのですか」「遠くに行かれるのですか」などと訊ねている。個人情報保護に異様な執念を傾けるぼくのような人間からするとこの質問は大丈夫なのかと心配になるのですが、そのあたりは関係性の問題もあるのかもしれないし、そもそもその受付の方も慣れているのか、うまい具合に具体的な答えは躱しつつ、互いに和やかに別れを告げていました。

そしてその次にぼくが呼ばれたのですが、けっこうこれが困ります。何しろコミュニケーション能力が虚数の値を持つ男です。「フヒヒ、いま聞こえたけれどここ辞めるの? 次どうするの? どこ引っ越すの?」とか、喋り出したらぜったいヤバいことを言いだす。いや訊きたいわけではないのです。そもそも関心がない。関心がないというと冷たい感じですが、どこに行ってもみんな元気で楽しく暮らせるといいね、という無難な正論マシンなので、それ以外の感情がない。でも間が持たないと何を言い出すか分からないし、ヤバいということは分かるので冷や汗もかく。汗だらだらかきながら「え、あそこに引っ越すの? うちの近くじゃ~ん」とか、まあ市中引廻しの上打ち首獄門です。

いえ、もちろん、普通の人にとっては何が大変なのか分からないだろうというのは分かるのです。でもほんとうに大変。ジェシカ・フレッチャー並みにもう大変! それでも何とか(結局いつも通り必要最低限のことしか喋らずに)会計を終え、真の困難はここから始まる。終わった後になってですね、「あのときこうすれば良かった、こう返せば良かった」という、独り反省会、手遅れシミュレーションが始まる。でもってこの手遅れシミュレーション、千通りくらい思いつくし、その千通りのすべてが、現実にぼくの選択実行した会話よりも百万倍はましなのです。そして滝のような冷や汗をさらに流しつつ、お肉屋さんに寄って「お肉屋さんお勧め手作りハンバーグ4個ください!!!!」などと絶叫する。いや絶叫趣味はないのですが、むしろ陰に隠れて生きていたいのですが、そうでないとお店のおばあさんに聞き返されてしまう。

まあそんな感じで夢の話に戻るのですけれども、ぼくはめちゃくちゃダンディな、何かラテン系のおじさんなのです。そして、どうも口には出せないような裏の仕事をしているらしい(貧困な想像力)。そんなぼくがあるとき小洒落た小さなレストランに行くと、自分の娘が一人で食事をしている。でもその娘はぼくのことを親だとは知らないんです。良くありますよね、映画とかで。ぼくはそれを決して口にはできないのだけれど、それでもその偶然の出会いが恐らく生涯最後の出会いでもあって、何とか一言でも会話をしたい。「で、あそこに引っ越すの? うちの近くじゃ~ん」とかそういうノリではなく、ほんとうにシビアな夢なんですよ。するとこれまたご都合主義の設定で、そのお店のオーナーは(これまた渋いおじさんなのですが)ぼくの本当の姿を知っていて、その娘には絶対にほんとうのことを言うなよ、みたいなプレッシャーをかけてくる。そんなことは分かっているんです。で、頭のなかでいろいろ会話のきっかけを掴むための想像をして、会話をして……、でも諦める。娘がちらっとこちらを見るけれども、知らないおっさんがいるだけだからすぐ目を逸らす。それでおしまいで、ぼくはオーナーのところに行って会計をしようとするのですね。おっさん同士、口に出さなくても伝わることがある(らしい。ぼくはそういうの気色悪いので嫌なのですが)。ところが「会計を……」と言いかけた瞬間、ぼくの口から途轍もない、ほんとうに、ほんとうに途轍もない、地球上に響くのではないかというくらいのゲップが出てくる。「ゲエエエエエエエエエエエエエエエエ」。そして「プ」までいかないところで、あまりの下らなさに「フヒヒ」と笑いながら目が覚めました。

目が覚めたら凄まじい頭痛のままで、まあ、そんな感じで生きています。

靴/本/水滴

というわけで、ほんとうにこのブログ毎回同じことしか書かないのですが、靴を買いました。ひさびさの登山靴。あまりに嬉しくてしばらく本棚の上に飾っていたのですが、ちょっとお出かけするときにいよいよお目見えすることになりました。誰に対してお目見えなのか、無論ぼく自身しか見てくれるひともいないのですが、それでも新しい靴、しかも登山靴は気分が上向きます。めっちゃ上向く。上向いて歩く。スキヤキ!

その勢いを借りて、何十年ぶりだか分かりませんが、いやさすがにそれはないかな、でも体感そのくらいでセーターも買いました。さらに靴下まで買ってしまった。鎧袖一触。脈絡もなく四字熟語が頭に浮かびます。一騎当千と言っても過言ではない。ただセーターと靴下を買っただけなんですけれども。そんなこんなでひさしぶりに帰国した友人に会うときに新しいセーターを着ていきました。もうこれはファッションリーダーという新しい種族に生まれ変わった私。しかし彼からは「これまでと何も変わらない」、「根本的にファッションというものを勘違いしている」、「冒険しなきゃだめだ」などなど、その他もろもろ人格批判を受けました。文化大革命、などとこれまた脈絡もない言葉を思い浮かべつつ、それでも、ここ数か月首を痛めているために前しか向けないことにより精神的にも前向きになっているぼくにダメージはありません。そういえばさっき上向くとか書きましたが、いま上を向けないんですよ。なんか落ち込んできたな。

けれども新しいセーターに新しい登山靴は気分が良いものです。意味もなく近所をてくてく歩いている途中でこれまで知らなかった郵便局を発見して嬉しくなり、後日さっそく手紙を投函しに行きました。どこに送るのでもない手紙。ポストの近くでは蟻が元気に何かを探索し、モンキチョウがぱたぱた飛んでいます。春は死の始まる季節なので苦手ですが、それでも、生き物を見るのはとても楽しいことです。

ここしばらく生活の基盤を変えるためにだいぶ忙しくしていました。あとひと月もすればだいぶ落ち着くのではないかと思うのですが、それでも本だけは読んでいました。そもそもこの人、他に趣味がないのです。最近はユッシ・パリッカ『メディア地質学 ごみ・鉱物・テクノロジーから人新世のメディア環境を考える』(太田純貴訳、フィルムアート社、2023年)とツヴェタン・トドロフ編『善のはかなさ ブルガリアにおけるユダヤ人救出』(小野潮訳、新評論、2021年)がすばらしかった。前者はタイトルからしてエルキ・フータモ『メディア考古学 過去・現在・未来の対話のために』(太田純貴訳、NTT出版、2015年)を思い出すのですが、っていうかいま気づいたのですが訳者が同じなのですね。1980年生まれでまだ若い方ですがフータモに師事していたとのこと。優秀な人っているものですね……。ちなみにパリッカはフータモとの共著論文もあるとのこと。とにもかくにも、本書、テクノロジーってぼくらの目の前にあるものだけを思い浮かべがちですが、そうではなくてその前にも後にも時間を持つものだよね、というお話です。これは凄く重要です。正直いまのメディア論(っぽいもの)って批判するにせよ肯定するにせよファンタジーみたいなものが多いのです。でも、じゃあどれだけそれについて語る空間それ自体を成立させているもの、そしてそれは目の前のデバイスやテクノロジーだけではなくその総体まで含めたものですが、そこに目が向いているのかしらというと、極めて疑問です。だけれど、そもそもその観点がなければ善も正義も自由も何も語れないはずです。だってそれらのデバイスやテクノロジーって、その前においては生態系も人間も徹底的に搾取して、その後においても生態系も人間も徹底的に破壊しまくるものですから。ぼくはzoomとか平気で言ったり使ったりする人文系研究者って信用できない(突然の発作)。そんなこんなで本書はとてもお勧めです。

あとは『善のはかなさ』。トドロフは翻訳もたくさんされていますが、ぼくは『個の礼賛 ルネサンス期フランドルの肖像画』(岡田温司、大塚直子訳、白水社、2002年)しかちゃんと読んだことがありませんでしたが、『個の礼賛』は素晴らしい本でした。今回の『善のはかなさ』もほんとうに面白い。第二次大戦時に、ブルガリアの管理下にあった西トラキアとマケドニアのユダヤ人たちは一万人以上が強制収容所に送られ、そのほぼ全員が殺されます。けれどもブルガリア本国のユダヤ人たちはそれとは異なる道を辿ることになる。それはなぜか、そしてどうしてそのようなことが可能だったのかということをトドロフは丁寧にかつ徹底して資料に基づきつつ考察していきます。本書はトドロフ編とあるように、彼自身の記述は四分の一程度で、あとは当時ユダヤ人保護のために奔走した人びとによる記録や資料になります。こういったものを(優れた翻訳で)読めるのはありがたい。資料が多いことについては訳者小野氏による解説がとても良いです。

トドロフが自分のものとして要求するのは、「真理の保持者」としての資格ではなく、「真実を追求する」権利である。そして同時に彼が望むのは、読者にもそうした姿勢を共有してもらうことである。自分が利用した資料をできるだけ生のまま読者に提供し、読者もその資料を自分の目で眺め、そこから浮かび上がる人物たちのそれぞれの視点やその人物についてのトドロフの見方を知ることで、読者自身に自分なりの判断基準を形成して欲しいと願うのである。

『善のはかなさ』pp.237-238.

そしてタイトルも良いですね。美しく、そして恐ろしい。

ある場所で特定の瞬間に善が到来するには、こうしたことのすべてが必要だったのである。繋がった鎖に少しでも欠損があればあらゆる努力は無に帰していたことだろう。公共生活に悪がもたらされれば、その悪はたやすく広がる。これに対し、善は困難で、まれで、もろいものとして留まる。しかしそれでも、善は可能なのである。

『善のはかなさ』p.63.

善は可能なのである……。けれどもぼくはそこまで確信を持てません。希望もたぶん持てない。そしてだからこそ、やはりトドロフのように真摯に調べ続け、考え続け、書き続けるしかないのでしょうね。しんどいですけれども。上記二冊、この時代、この社会においてぼくらがどう生きているのか、どう生きるのかを考える上で、それぞれ欠かせない観点を伝えてくれるものだと思います。お勧めです。

何だかまじめな話になってしまいました。いやまあ、ぼく自身まじめの権化みたいな人間なのでまじめな話しかできないのですが、いつでも目が笑っていない。でもいつでもニヤニヤしている。新しい靴を眺めてニヤニヤ。登山靴なので雨が降っていても平気で庭に出られます。庭でじみじみ草と水滴の写真を撮って、ふたたびニヤニヤ笑っている。でも家に戻ると新品の靴についた泥跳ねに愕然として、慌てて落としたりしている。そんな感じで元気に生きています。





いやはや、元気に暮らしています。

歩いている影とぼくの足

帰り道、頭痛がひどくなり困りました。外に出るというのに頭痛薬を忘れてしまったのです。そういうときは心の中で目を瞑ってひたすら時間が過ぎるのを待つしかありません。ロボットのように家にたどり着き、薬を飲みしばらくしてようやく落ち着きました。痛み自体はともかく、電車での移動はぼくの数少ない読書の時間なので、そういうときにせっかく持って出た本を読めないのがいちばん困るし残念です。けれども、ただひたすら痛みを耐えている時間というものも決して無駄ではなく、あとから振り返ってみるとその痛みの塊の漠然とした記憶のなかにも、それなりに自分の研究に役立つものがあるという実感があります。ほんとかな? 無論、だからといって痛みにも意味があるなどということを普遍化するつもりはないのです。それにどのみち、ぼくの頭痛もしょせんは六、七割は市販薬で抑えられるものでしかありません。

少し話は飛びますが、ぼくは大学教員があまり好きではないのです。あるいは、あまり関心がないというべきかもしれません。それでも心から尊敬している人もまた何人か居て、その一人である牧師先生から年賀状が届きました。牧師に敬称として先生をつけているのではなく、言葉通り牧師でかつ先生だった方。もう九十歳も半ばを過ぎていらっしゃると思うのですが、極めて達筆で、衰えることのない魂の力を感じさせる文面でした。以前にも書いたかもしれませんが、彼のある日の説教をよく覚えています。ぼくが在籍していたその二つ目の大学ではいつもお昼に誰もが参加できる礼拝がありました。最初に行っていた大学でも、週に一度だったかな、そういう日があった気がしますが、それには何の関心もぼくは持てませんでした。それは端的に、その一つ目の大学に居た牧師をぼくが信頼できなかったからです。牧師というのは途轍もなく怖い職業(と言っていいのかどうかは分からないけれど)で、生半可な説教など簡単に見抜かれてしまいます。言うまでもなくぼくだって、いやぼくこそ偉そうなことなど言えないのですが。けれどもぼくが尊敬していたその牧師先生の説教は真の意味で魂が込められたもので、そういう言葉を聴くためには、そのとき、その場に居合わせなければなりません。どうしてもそうしなければならない。それは人間によって、あるいは個人の意思によって選択できるものではなくて、だからほんとうに幸運だったのだと思います。ともかくそこで彼がひとつの挿話として語ったのは、彼があるとき大きな事故に遭いそれでもほとんど無傷で生還したときのこと。それは彼の力でもただの偶然でもなく(彼にとっては)神の力が働いたからなのですが、だけれども、そこで自分にはやるべき使命があるから神に生かされたとか、これは信仰心のないぼくにはうまく説明できないのですが、そう考えてはならないと彼は言っていました。なぜなら、もしそう考えるのであればそれはすなわち、同じような事故に遭って亡くなった人びとには神に与えられた使命がなかった、自分は神にとって生かす価値があったけれども彼ら/彼女らはそうではなかったのだと、たかが人間でしかない彼がそう断定することに他ならないからです。つまるところ、ぼくらには神の意図など決して分かりません。それでもとにかく全力で、生きている限りは全力で、自分には理解できない神の意図のもとで生きなければならない。ただそれだけのことだし、同時にだからこそ凄まじく大変なことでもある。

その大変さと恐ろしさは、信仰心の対極に位置するようなぼくであっても――なんてったってマルクスとかまともに読んだことさえないのに唯物論研究協会とかに入っていたのです。もともと悪い意味ではなく義理で入っていたのでもう退会しますが――分かる気がするのです。要するにそれは、自分の感じる痛みや恐怖に対してその向こうへ穴がつながるほど自分のものとして集中しつつ、同時にその痛みや恐怖を感じている自分を、どこに行くのかは分からない大きな流れに位置づけられる小さな豆のようなものとして、遥か上空から俯瞰するということです。必然と偶然が究極的に結びつくところで、ただただ一歩一歩極小の歩みを進めること。それはたぶん、一般的な意味での研究をするということとは何の関係もないことなのだと思います。一般的に言えば。だけれども、ぼくにとってそれは生きつつ研究するという最も根本的なスタイルとして、いつでも心にあることです。

いずれにせよ、ぼくは年賀状を書かない主義なので、彼には最近の研究テーマについて書いた手紙と最新の論文を送ろうと思っています。もっとも、人間は技術によって神になることはできないというのがぼくの近頃の研究テーマなんですよと書いたところで、恐らくこれを読んでくださっている皆さんとはまた違った意味で、彼にとっては当たり前のことだと思えるのでしょうけれども。

寒い日が続きますが

カメ池が無くなってしまったので、いまは時折コイ池に行っています。
柿。
トマト。
ひさびさにICCに行き『生命的なものたち』を観てきました。面白いものが幾つかありましたがnorによる《syncrowd》は別格に素晴らしかった。
散歩のときに見つけた手袋。何故か枯れた木の枝にはめられていました。

そんなこんなで今年も終わりです。だけれどもぼくは大晦日とか元旦とか、そういうものにはほとんど関心がありません。どの一日もその一日。このひと月ふた月はひたすら身体の不調を騙しだまし過ごしていましたが、同じような毎日を積み重ね、それでも少しずつ進めていればと願っています。

とはいえ年は年。来年はできれば次の一冊を出せればいいなあ。取らぬ狸の皮算用。でも、それがあるから人間生きてもいられるのかもしれませんね。

茄子観音

4か月前よりも少し大きなジャガイモが採れました。

これは少し前の写真。今年は実家の梅の実もなかなか見事に生りました。早速梅酒と梅ジュースに。

何だか偉そうに腕を脇にあてたナス。我が家では茄子観音と名付けて祭っています。

きょうは一日本の整理の日。しばらくメタバースの原稿にかかりきりだったので、そろそろ元々書いていた論文に頭を切り替えていかなければなりません。同人誌もふたたび再開しそうな雰囲気です。書くことがあり、書く場があるというのはほんとうに幸福なことですね。

メジンペンギロと魔法の国

忙しい忙しいなどと言いながら、紙粘土で遊んでいました。最初はペンギンを作ろうと思っていたのですが、春先に庭に来ていたメジロを偲び、途中から方針転換。しかしその転換も遅すぎたようで、ほとんど緑のペンギンになっています。隣は彼女の作ったコアリクイ。粘土を手で捏ね何かを作ると、不思議に、その人の魂の形が現れてしまったりします。ぼくの魂、緑ペンギン。

あと、自分の研究サイトをようやくSSL/TSL対応させ、ついでにスマートフォンにも対応させました。まだ最低限のレスポンシブデザインでしかないのですが、大事なのは中身なので、とりあえずはこんなもので良いと思っています。ABOUTから行けますので、良かったら見てみてください。いや面白いものでもないのですが。

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だけれども、ぼくはスマートフォンってやはり好きになれません。一応、ぼくは組込系のプログラマなので、仕事となると最低限ノートパソコンがないとどうしようもない。だからスマートフォンに求める機能って通話が主になります。それ以外のことは普段持ち歩いているノートでできてしまうから。そしてこの通話に関してはPHSと比べてほんとうに酷い。VoLTEとか、スペック上はPHSより良いんだよなどと言われてもぼくは絶対に信用しない(ドクサ)。いや実際ぜんぜん違いますよね。どのみちいったんデジタル変換されたものだから偽物の音声だと言われればそれはそうなのですが、それにしてもあまりに切り貼り感が強すぎます。人の声を雑に輪郭線で切り抜いて、こちら側に持ってきてペタっと貼って、はい、これがあの人の声ですよと澄まし顔でのたまうスマホが憎い。ぼくはスマホが憎い!

もちろん、しょせんそれは技術的な問題に過ぎないので、リソースを気にしないのであればいずれは解決されるかもしれません。ぼくは別に反技術主義者ではないので、そうなったらなったでありがたいことです。でもどうでしょう。リソースは常に限られているし、だからこそアーキテクチャとアルゴリズムが重要になるのです。

あるいはまた、音質が悪いというのも悪いことではないのかもしれません。最初から最高品質の通話が可能だったとすると、もしかするとぼくたちはそのとき、そのデジタル変換を通した音声をその人の声そのものと何の違いもなく受け入れてしまうかもしれない。いや、対面で聴く相手の声だって空気を介在しているでしょ、というのであれば、それはあまりにデジタル化に対して無防備すぎるようにぼくは思うので、そういう偽物時代を体感しておくということには、それなりの意義がある気もします。でも、これもどうでしょう。それなりの音質でさえ、ぼくらはすぐに慣れてしまうかもしれないし、それが普通になってしまうかもしれない。ぼくらが本来優れた耳を持っていたとしても、酒場の腐れはてた音楽を聴いて育つモーツァルトになってしまっては万事休するわけだ(サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫)。

またまた他方で、最初から通信だと割り切ってしまえば、音質の悪さなんてものはどうでも良いのです。以前にkickstarterで入手したWiPhone(https://www.wiphone.io/)、これはWiFi経由で通話するためのモバイルフォンですが、機能的には大したものではありません。それにWiFiという既存のインフラに依存しているという点でも、個人的にはあと一歩だと思っています。それでも、ぼくは最近「修理する権利」に興味があって、といってもだいぶ上っ面だけの適当な興味ですが、でも、これって大事よね、とけっこう真剣に考えています(修理する権利についてはこんなサイトも面白いです(https://www.repair.org/))。で、話が長くなってしまったけれど、こういうデバイスであれば、通話品質とかはあまり重視しません。

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つまるところ、音質は最初から良い方が望ましいのか、徐々に良くなっていく方が望ましいのか、音質が悪くても自分の手が介在できる余地の残されている方が良いのか。脈絡なく矛盾したことを書いているようですが、自分のなかでは明確な判断基準があるのです。端的に言えばそれは、そこ(そのデバイスが生み出す場)に魔があるかどうか、です。自然が生み出す魔法とは同じようで違い、違うようで同じな、人間の欲望が生み出す技術という固有の場における固有の魔法。ぼくの経験上、従って非常に偏った見方であることは認めた上で、現状の、システムによって与えられた、切り貼りされたデジタル音声を相手の声だと漠然と信じこみ疑問も覚えない人びとは、そこに立ち現れている魔に対して極めて無感覚な場合が多いように思うのです。それを感じ取れるのであれば、相手の声と聴きまがわんばかりの音に魔を感じ取ると同時に、バリバリカクカク、戯画のような音にもまた、魔を感じ取るでしょう。そしてその魔の根っこを探っていくと、辿り着くのは、その場を生み出す技術を生み出す人間の魂が抱えている欲望、人間自身にさえコントロール不可能なその欲望の根源的な渦巻きであるはずです。

そしてそれは、音だけではなく、VR/ARのような視覚であっても、あるいは3Dプリンタによって生み出されるフィギュアへの触覚であっても、結局同じなのではないでしょうか。解像度の精細さではなく、魔が立ち現れるかどうか。そしてそれは、技術を、外から与えられたものとしてではなく、人間の魂から生み出され、分かち難く分かたれたものとして受け入れることによってのみ可能になるのだとぼくは思うのです。

こういう訳の分からない話を書くの楽しいなあと、明日の仕事から目を背けつつ元気に生きています。