メジンペンギロと魔法の国

忙しい忙しいなどと言いながら、紙粘土で遊んでいました。最初はペンギンを作ろうと思っていたのですが、春先に庭に来ていたメジロを偲び、途中から方針転換。しかしその転換も遅すぎたようで、ほとんど緑のペンギンになっています。隣は彼女の作ったコアリクイ。粘土を手で捏ね何かを作ると、不思議に、その人の魂の形が現れてしまったりします。ぼくの魂、緑ペンギン。

あと、自分の研究サイトをようやくSSL/TSL対応させ、ついでにスマートフォンにも対応させました。まだ最低限のレスポンシブデザインでしかないのですが、大事なのは中身なので、とりあえずはこんなもので良いと思っています。ABOUTから行けますので、良かったら見てみてください。いや面白いものでもないのですが。

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だけれども、ぼくはスマートフォンってやはり好きになれません。一応、ぼくは組込系のプログラマなので、仕事となると最低限ノートパソコンがないとどうしようもない。だからスマートフォンに求める機能って通話が主になります。それ以外のことは普段持ち歩いているノートでできてしまうから。そしてこの通話に関してはPHSと比べてほんとうに酷い。VoLTEとか、スペック上はPHSより良いんだよなどと言われてもぼくは絶対に信用しない(ドクサ)。いや実際ぜんぜん違いますよね。どのみちいったんデジタル変換されたものだから偽物の音声だと言われればそれはそうなのですが、それにしてもあまりに切り貼り感が強すぎます。人の声を雑に輪郭線で切り抜いて、こちら側に持ってきてペタっと貼って、はい、これがあの人の声ですよと澄まし顔でのたまうスマホが憎い。ぼくはスマホが憎い!

もちろん、しょせんそれは技術的な問題に過ぎないので、リソースを気にしないのであればいずれは解決されるかもしれません。ぼくは別に反技術主義者ではないので、そうなったらなったでありがたいことです。でもどうでしょう。リソースは常に限られているし、だからこそアーキテクチャとアルゴリズムが重要になるのです。

あるいはまた、音質が悪いというのも悪いことではないのかもしれません。最初から最高品質の通話が可能だったとすると、もしかするとぼくたちはそのとき、そのデジタル変換を通した音声をその人の声そのものと何の違いもなく受け入れてしまうかもしれない。いや、対面で聴く相手の声だって空気を介在しているでしょ、というのであれば、それはあまりにデジタル化に対して無防備すぎるようにぼくは思うので、そういう偽物時代を体感しておくということには、それなりの意義がある気もします。でも、これもどうでしょう。それなりの音質でさえ、ぼくらはすぐに慣れてしまうかもしれないし、それが普通になってしまうかもしれない。ぼくらが本来優れた耳を持っていたとしても、酒場の腐れはてた音楽を聴いて育つモーツァルトになってしまっては万事休するわけだ(サン・テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳、新潮文庫)。

またまた他方で、最初から通信だと割り切ってしまえば、音質の悪さなんてものはどうでも良いのです。以前にkickstarterで入手したWiPhone(https://www.wiphone.io/)、これはWiFi経由で通話するためのモバイルフォンですが、機能的には大したものではありません。それにWiFiという既存のインフラに依存しているという点でも、個人的にはあと一歩だと思っています。それでも、ぼくは最近「修理する権利」に興味があって、といってもだいぶ上っ面だけの適当な興味ですが、でも、これって大事よね、とけっこう真剣に考えています(修理する権利についてはこんなサイトも面白いです(https://www.repair.org/))。で、話が長くなってしまったけれど、こういうデバイスであれば、通話品質とかはあまり重視しません。

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つまるところ、音質は最初から良い方が望ましいのか、徐々に良くなっていく方が望ましいのか、音質が悪くても自分の手が介在できる余地の残されている方が良いのか。脈絡なく矛盾したことを書いているようですが、自分のなかでは明確な判断基準があるのです。端的に言えばそれは、そこ(そのデバイスが生み出す場)に魔があるかどうか、です。自然が生み出す魔法とは同じようで違い、違うようで同じな、人間の欲望が生み出す技術という固有の場における固有の魔法。ぼくの経験上、従って非常に偏った見方であることは認めた上で、現状の、システムによって与えられた、切り貼りされたデジタル音声を相手の声だと漠然と信じこみ疑問も覚えない人びとは、そこに立ち現れている魔に対して極めて無感覚な場合が多いように思うのです。それを感じ取れるのであれば、相手の声と聴きまがわんばかりの音に魔を感じ取ると同時に、バリバリカクカク、戯画のような音にもまた、魔を感じ取るでしょう。そしてその魔の根っこを探っていくと、辿り着くのは、その場を生み出す技術を生み出す人間の魂が抱えている欲望、人間自身にさえコントロール不可能なその欲望の根源的な渦巻きであるはずです。

そしてそれは、音だけではなく、VR/ARのような視覚であっても、あるいは3Dプリンタによって生み出されるフィギュアへの触覚であっても、結局同じなのではないでしょうか。解像度の精細さではなく、魔が立ち現れるかどうか。そしてそれは、技術を、外から与えられたものとしてではなく、人間の魂から生み出され、分かち難く分かたれたものとして受け入れることによってのみ可能になるのだとぼくは思うのです。

こういう訳の分からない話を書くの楽しいなあと、明日の仕事から目を背けつつ元気に生きています。