ここまで、ぼくらは罪と赦しについて、神を出発点として考えてきました。我を捨て神との合一に立ち帰るのか、それとも我に固執して存在しない神を告発し続けるのか。けれども、それはどちらも、結局のところ鏡に映った自分の姿に過ぎません。どちらが本質ということもなく、それは互いに向き合ったまま口を開き、音もなく何かを叫んでいるだけです。ぼくらの生きるこの日常は、そのような極限的な形を取るわけではないし、また取らなければならないわけでもない。
以前、ぼくがブログに書いた、神学を学んでいて気づいてしまった恐ろしいことというのは、実は恐ろしくも何ともない、極自然で、もしかしたら愛すべきでさえあることでした。ぼくは、存在しないにも関わらず、あるいはそれ故、ぼくから大切なものを奪った(わけですらない)存在しない神を憎んでいました。そうして、神を信じる人間もまた、ぼくにとってすれば敵でしかありませんでした。けれどその人々は存在しない神と違い、間違いなくそこに存在する。だから、ぼくは戦えるはずでした。自分の魂を懸けて、ぼくは戦いたかった。けれど神学を学ぶ過程で、各地の各教派の教会に行き、幾人もの信者やあるいは神学生たちと話す中で、ぼくは彼らの大半の心に神がいないことに気づきました。これはとても失礼な言い方かもしれません。あるいは極当然のことだと思われるかもしれません。けれども、ぼくは本当に怖かった。神を信じるという人々の中に神は存在せず、ただ、神に存在してほしいという願望があるだけだったのです。そして一方で、神を信じないという人々においてもそれは同様でした。神を信じると言う人も信じないと言う人も、つまるところその中身はまったく同じで、ただただ神に存在してほしいという思いしかなかったのです。それは神が存在すればという甘えであり、存在しないかもしれないという怯えでもあります。ぼくはそんな彼らを嫌悪し、そして恐怖しました。神への信仰も拒絶も、それは人間が人間としてぎりぎりの状況下で問われるものです。彼らは敵ですらなかった。ぼくは彼らのそのような弱さを心の底から恐怖しました。
彼らの救いは、そして赦しは、ではどこにあるのか。絶対的なものが存在する/しないからこそ、ぼくらは赦しを得る/得ないことができる。信じているのでも信じていないのでもない、ただ中途半端に神の愛に頼り、神の不在に怯えるのであれば、そこにはそもそも赦すことも赦さないことも存在し得ないのです。死という絶対性を前にしたとき、そこには一切の逃げ道がない。ぼくらがそれでもなおまっすぐに立ち続けるには、存在する神に合一するか存在しない神に憎しみを抱き続けるか、ふたつにひとつです。教会に行こうが洗礼を受けようが祈ろうが、あるいは神は存在しないと嘯こうが、その最後の瞬間に至ったとき、彼らは自分をごまかしどっちつかずの態度を取り続けてきたつけを払うことになる。圧倒的な、絶望的な恐怖に泣き叫んでも、そこには神も、それどころかあなた自身さえもいない。本当に神とともにある人間はあまりにも少なかった。その事実にぼくは最初怒り、そしてすぐに怯えました。そのような形で「神が居ない」とは、ぼくは思ってもいなかった。世界にはあまりにも救いがなかった。
強姦されAIDSにかかりまともな治療を受けることもなく病と餓えの中で汚物にまみれ死んでいく誰かさん、生まれて初めて目にしたきれいなものを手に取ったらそれが爆発して両手を失い失明した誰それさんを前にして、ぼくは語る言葉を持てない。だからこそぼくは、それでもなおかつ神の愛を語る狂信者が敵として必要だったし、敵として存在して欲しかった。だけれど、ぼくが目にしたのは、神に対する不信を必死に、自らにさえ隠しながら、このぼくに対して「あなたにもいつか神の愛が分かります」などとしたり顔で話す、惨めな人間だった。神の愛などと、ぼくは彼ら/彼女らに、軽々しく口にして欲しくはなかったのです。神の愛とは、そんな安易なものでは断じて、ない。
けれども、もしここまで読んでくださった方がいるとすれば同意してくださると思うのですが、明らかにこれはおかしな考え方です。おかしいだけではなく、ひどく倣岸ですし、浅薄です。ぼくはいったい、人間を何だと思っていたのか。人間を神にでも仕立て上げるつもりだったのか。そう、その通りです。ぼくはすべての人間に、神と並び立つ位置に居て欲しかった。けれども、人間は神ではない。神ではないからこそ、人間は人間なのです。だから素晴らしいということではまったくなく、価値判断すら超えて、人間は人間だし、人間でしか有り得ないし、そして人間で「良い」のです。ぼくは長い間それを受け入れることができませんでした。(もちろん、いまでもできているわけではないのですが)。
ぼくはそうとうに偏った人間です。自分のことになると笑ってばかりいるけれど、外に出たとたんに憂鬱になるようなつき合いにくい人間です。みんなが本当に幸せに生きているのか、笑ったまま死ねるのか、なぜか分かりませんが、それが気になって仕方がない。そして心の中に住んでいる決して語らない死者たちへの強迫観念に囚われています。それでも、そんなぼくにさえ、尊敬できる友人が、生者死者を問わず幾人かいます。そんな彼ら/彼女らを通して、少しずつ、分かってきたことがあります。あらかじめ申し上げますと、ぼくが数十年を要して理解し始めたことは、みなさんが普段の生活の中で当然のこととして感じられていることだと思います。ですから、あまり読む意味はないかもしれません。
日常生活における信仰というものを考えるとき、いつもぼくが思い起こすのは、銀河鉄道の夜(中でも第三次稿)なのです。ぼくはあまりカムパネルラが好きではない。誰かを救うために命を捨てるというのは、ぼくは容易なことだと思っています。しかしそれは自らにとって大切な者のためであればであって、ザネリを救うために、恐らくぼくであれば一切の危険を冒すことを拒否するでしょう。神の存在しない世界において、世界に対して圧倒的に無力であるぼくは、自分の限られた力を自分が選んだものに対してのみ向けざるを得ないし、そうやって極限まで力を一点へ収束させてさえ、ぼくはなおあまりに無力なままです。ぼくは選ばなければならないし、常にその覚悟を持っています。そういった意味では、ぼくは自分の死というものにさほど関心がありません。けれども、では愛する者のために死ねば良いのかと言えば、無論そんな馬鹿な話はありません。自分の命そのものに価値がないのであれば、当然、それを捨てたところで自分が愛する人に対しても何ら喜びを与え得るはずがない。そうではなく、むしろ生き抜くことにこそ意味がある。命など、死ねば消えるだけのものでしかない。けれど生きれば、ぼくらは常に、人間としての限界にさえ挑むことができる。だから愛する者のために死ぬなど、ナンセンスも良いところです。カムパネルラの決意はあまりに安易であり、選ぶということをしなかったという点において、ぼくから見れば冒涜的でさえある。もちろん、それがぼくにとって冒涜的であったとしても、それはカムパネルラが彼自身の信仰を持っていたが故のものです。そして同時に、カムパネルラが自らの信仰に従ってザネリを救い自らが死んだことを受け入れたとしても、彼が残してきた者たちに対して悲しみを感じなかったわけでもない。繰り返しますが、神との合一というのは何も考えないということではなく、何が起きても神の被造物としてそれを受け入れることにあります。悲しみ、苦しむかもしれませんが、それは不信仰ではない。それにも関わらず神にすべてを任せることが信仰です。
その上で、ぼくはやはりカムパネルラを認められない。カムパネルラの答えは、あまりに単純明快過ぎます。それを信仰だというのであれば、手を出せなかったカトウは、あるいはもしカムパネルラが居なかったとして、溺れて死ぬことになったであろうザネリは、そしてあるいは…要するにあの世界に生き残ったすべての人々にとっての救いとは、赦しとは何なのか。死んでいったすべての人々にとっての救いとは何だったのか。カムパネルラの生き方は、恐らく彼らに対する答えにならない。
だから、ぼくはジョバンニが好きなのです。特に第三次稿においてより明確にされているのは、ジョバンニの生活における救いのなさです。父の存在もカムパネルラとの交友もぼんやりとしか窺えません。母へ持ち帰る牛乳が最後まで手に入らないのは象徴的です。けれどそれでも、彼はこの世界に戻り、病気の母と不在の父が待つ暗い家へと帰っていく。明日から始まるのはこれまでと同じ日常であり、未来への希望はありません。それでも、では彼が惨めであり弱い人間であるかと言えば、そのようなことはない。それどころではない! 彼の人生において、すべてに答え得る万能の答えは存在しません。悩み、苦しみ、怯え、あるいは怒り、けれどそれに応答してくれる声はどこにもない。それでも、彼はその日常に自ら戻っていく。
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。」ジョバンニは唇を噛んでそのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!(『ポラーノの広場』、宮沢賢治、新潮文庫、p.324-325)
カムパネルラの死に比べて、ぼくはジョバンニの生にこそ、より尊い輝きを見るのです。
神を失っているぼくの強さは、要するに、論理だけで動くテロリストの強さであり、目的と手段を混同したテロリストの暴力であり、そして抑圧された他者を作り出す神装置としてのテロリストの愉悦です。そこにぼくらの生活はない。答えがあるというのは、要するに狂気によってこの世界を測るということです。
「おれは心ならずも指揮をとる。だが、けっして途中ではやめぬ。おれを信じろ、この戦いを勝つ機会が一つあれば、おれはかならず勝つ。[中略]しゃべるな。ゆけ。[中略]これから人間の支配がはじまるのだ。美しい門出だ。[中略]おれは屠殺者と死刑執行人になろう。[中略]心配するな。おれは途中で、まいりやせん。 それ以外に愛し方がないから、おれはあの連中をおびえさせるのだ。ほかに服従しようがないから、命令するのだ。このほかに、みんなとともにいるしか仕方がないから、おれは頭上のあのからっぽの天を相手に孤独にとどまるのだ。なすべきこの戦いがある。おれはやるつもりだ」(『悪魔と神』、サルトル、新潮文庫、p.248)
それはぼくの心を強く惹きつけます。けれど、ぼくは繰り返し、自分に言い聞かせなければならない。答えがないことは弱いことではない。愚かなことでもない。それこそが人間の在り方なのです。
「雄々しく堪え忍ばねばならぬ。ここが神よりお前たちのすぐれているところである。神は災難に堪えることの埒外にあるが、お前たちは災難に堪えることを乗り越えているからである」(『怒りについて 他一篇』、セネカ、岩波文庫、p.216)
まさにそうだと思うのです。ぼくらの生活には、答えなどない。あるとき神が現れてぼくらを赦してくれることもなければ、断罪してくれることもない。そんな安易な解決は、ぼくらには与えられていない。そして無論、ぼくらの方から神のところで出向いて跪くか唾を吐くか、そのような極端さもまた日常からはかけ離れたことでしょう。救いも赦しもない日々において、ぼくらは堪えるしかない。時折風や光に神を感じるかもしれないし、あまりにも堪え難くつらい出来事に神の不在を想うかもしれない。憎むかもしれないし、それでもなおかつ、なおかつ、愛さえあるかもしれない。ぼくらはそのすべてを堪え、受け入れ、またこの日を生きていきます。
前回引用した安部公房の書く物語が、多くの場合そのラストにおいて、ある種透明で開放された孤独感を帯びているのは示唆的です。神を失った世界で、ぼくらは最終的に、人間としてただ独りになる。それは神を得たとしても同じことだとぼくは思います。そうして、いまもうひとつ思い浮かべるのは、大江健三郎の『洪水は我が魂に及び』のラストにおいて発せられる「すべてよし!」という言葉です。それは静かだけれども、叩きつける水の只中にあってさえなお世界に響き渡り、過ちを犯し、怯え、疑い、諦め、それでもなおかつ生き/死んでいったすべての人間に対する肯定が込められています。それは(大江健三郎の物語がいかに宗教的な外衣をまとっていたとしても)信仰者の声ではなく、ましてテロリストの声でもなく、そこにあるのは疑いもなく人間の声なのです。そしてまたそれは、創世記における「神がその造られたすべてのものを御覧になると、見よ、非常によかった」(『創世記』, 関根正雄訳, 岩波文庫, p11)という言葉と美しい対比を見せています。神が創った世界の摂理を、ぼくらが知ることは永遠にない。それでも、その中でもがき苦しみ、這いつくばって死んでいくとき、ぼくらは死んでいったすべてのものと生き残るすべてのものとに対して、「すべてよし!」と叫ぶことさえできる! 答えがでないまま、それをそのまま受け入れる。いえそれどころか、答えが出ずに悩んだまま終わりを迎えることさえ受け入れる。それはぼくの思い描いていたものとは違うにしても、確かに神を超えた強さであり、また同時に、神を捨てていない強さでもあります。
我に囚われた我々に赦しはあるのか
そろそろこのお話も終わりに近づいてきました。今回のエントリーのタイトルは『我に囚われた我々に赦しはあるのか』でした。ぼくらは、信仰と不信仰、その極限の位置からそれを考え、そのどちらもが結局は同じであることを見てきました。人が人であることとは、そのような極限からではなく、むしろ日常の中でこそ考えるべきであるということに気づくまで、ぼくは長い長い時間を必要としました。赦しはあるのか? あるかもしれない。ないかもしれない。あるときぼくらは神を信じるかもしれない。またあるときは神を疑うかもしれない。死は恐れるべき何ものでもないように思えるかもしれないし、恐ろしさのあまり死にたくなるかもしれない。愛はあるかもしれないし、けれどそれは憎しみかもしれない。答えがでないまま、ぼくらは生きてきたし、きょうも生きているし、そして運さえ良ければ(あるいは悪ければ)明日も生きているかもしれない。良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そんなことをすべて超えて、それこそが人間であり、それがぼくらの持っているすべてなのだと、いま、ぼくはそう考えています。
これで、ぼくのお話はお終いです。当然ですが、ぼくはいまだに神を見ることはできないし、ぼくがぼくである限りにおいて、存在しない神を赦すことは決してありません。神についてどれだけ考えても、それはぼくを変えることにはなりません。鳥が飛ぶ姿を見て、ぼくらは流体力学を理解するかもしれない。けれども鳥は物理を理解するが故に飛んでいるわけではないし、ぼくらは物理を理解したからといって飛べるようになるわけではない。それでも、例えぼくに神が見えないとしても、人間を見ることはできます。そして人間は間違いなく、そこに居ます。人間を見なければならない。存在しない神だけを見つめ続けてきたこのぼくに、そもそも人間の赦しを語る資格などなかったのです。
けれども、希望はあります。最後にひとつだけ、ルターについて触れてみましょう。ぼくはあの頑固そうな顔が大嫌いなのですが、それでも、信仰の極北へ至った人間の一人として、彼がどのようにそこを突き抜け人々との関わりに戻ってきたのかを追ってみるのは、決して無駄ではないはずです。
ルターについて学んでいく上で最も疑問に感じるのは、修道院時代における前期ルターの内省的性格と、宗教改革運動に身を投じた後期ルターの異常なまでに活発な行動力との間にある、大きな差異についてです。前期ルターは厳しい修道僧としての戒律を守りつつ、それでもなおかつ、どうしようもなく罪深い自分の存在に苦悩し、懺悔の日々を過ごしていました。しかしやがて自らが宗教改革の大きなうねりの中心となってしまったとき、ルターは突然変貌を遂げます。彼は各地を転々としながらも膨大な手紙を書き幾冊もの重要な書を著して宗教改革を強力に牽引し、しかも聖書の独語訳まで成し遂げてしまうのです。その変貌の原因はどこにあったのでしょう。
『キリスト者の自由』においてルターは、旧約(律法)によって定められた戒律は、人間には絶対に実行不可能なものである、と言います。それは人々に、自らの救い難い罪深さを認識させるために存在するに過ぎません。しかし、その認識によって自己を砕かれ謙虚になったとき、神からの呼びかけとしての新約が与えられ、人は救われるのです。当時の一般的な理解によれば、人は善行を積むことによって救いへと導かれるとされていました。従ってその前提として、当然律法を守ることが人間には可能であるとされていたのです。しかし、これは信仰理解に歪みを与えてしまいました。つまり、人々が善行を「貯蓄」し、それと交換に神から「救い」を得るという、ある種の取引的な観念を与えてしまったのです。取引である以上、人は自分を神と対等の存在として考えてしまいます。「これだけの善行をあなた(神)に渡すのだから、あなたには私を救う義務がある」というわけです。そして、いったん善行(あるいは悪行)や救済が商品として捉えられてしまったなら、教会や民衆の間でさえ、それは取引の対象となってしまうでしょう。これが贖宥符などを生み出す原因となりました。
しかし、もしルターの言うように、人間には律法を守ることが絶対に不可能であるならば、十戒の第一戒である「あなたはただひとりの神を崇むべきである」ということすら人には守れないことになってしまいます。神を信じることなしに、いったいどこに救いを求めれば良いのでしょうか。これに対してルターはこう答えます。「呪われるべきわたしにさえも、純粋な憐れみから、キリストを通し全き富を与えたもうた」。つまり、信仰によって人は救われるのであると同時に、しかしその信仰さえも揺らいでいるような罪深い自分に対して、救いが一方的に神から与えられ、それ故に人は神を信仰せざるを得ないのだ、と彼は言うのです。
こうして考えてみると、後期ルターの異常な活動力の原因が分ってきます。自らの罪深さにおののきつつ必死に救済を求めていたときのルターは、他人のことなど考える余裕がなかったのではなく、むしろ恐れていたのではないでしょうか。戒律によって縛られていたルターにとって、その関わりは当然、善行として現れなければなりません。しかし、罪深い者としての自分がその善行故に神に救われるのだという誤謬を犯す可能性があることに、鋭敏なルターは気づいていたはずです。けれど、あるとき神の救いが一方的に与えられているのを知ったとき(それはまさに啓示です)、彼の善行は突然、全くの自由に解放されます。既に神によって救われてしまったルターにとって、善行は、もはや神との取り引きに使われる商品にはなりようがない。彼は完全な自由のもと、好きなだけ人と関わり、キリスト教徒として人に善き行いをすることが可能になったのです。
無論、ぼくはルターとは違い、神の赦しなど糞食らえと思う人間です。それでも、信仰者の鏡像としてのぼくにもまた、他者と関わる可能性が必ずあります。誰よりも「人間」であることに懸け、「人間」であることに誇りを持っていたサン・テグジュペリはこう言っています。
「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」(『人間の土地』、サン・テグジュペリ、堀口大學訳、p.6)
混乱と錯誤に満ちた文章だったかもしれませんが、これがいまの時点における、ぼくの結論です。まずは人間を見ること。そして共に在ること。その先に、きっとぼくら人間の、救いと赦しが見えてくるはずです。
ここまで読んでくださった方に、心からのお礼を。どうもありがとう。