力任せに投げた小石が強く川面を弾き、向こう岸まで飛んでいく。隣にいた彼女が呆れたように笑い、そうじゃないよ、といって軽く小石を投げると、それは美しい波紋を五つ六つと残し、小さな音を立てて水底に沈む。きみは不貞腐れたように川縁に腰を下ろす。――そういう器用なやりかたっていうのは肌に合わないんだよ。きみの隣に座った彼女は頷き、真面目な顔をしていう。――きみがそういう性格なのはよく分かっているけど、でもそれだといろいろ大変だよ、きっと。きみは顔をしかめ、手近にある小石を川に放った。――そんなこと言われなくても分っているよ。ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。彼女は少し寂しそうに笑い、――それはそうだけどね、というと、きみの真似をして、やる気もなく小石を川に投げ込んだ。波紋が波に消えると同時に、向うからきみたちを呼ぶ声が届く。そろそろ夕食の準備を始める時間だった。
きみたちは大学時代同じサークルにいた者同士で、昔合宿で毎年訪れていた寺に再び泊まりにきていた。山間の澄んだ川を見下ろす位置にある寺で、きみたちは学生時代、地元の子どもたちに人形劇の公演をしにきていたのだ。大半が就職をしているなか、きみはいまだに学生を続け、彼女はバイトで暮らしていた。だからどうだということもなかったが、どことなく肩身が狭いのもまた確かで、いつのまにかきみと彼女は他のみんなから離れ、ひっそりとやり過ごすことが増えていた。皆が集まるのは二年ぶりだったが、けれどもその二年は、先の見えない学生時代という特別な時期を共有していた仲間たちを別つのには十分だったのだろう。仕事の苦労話や車のローンの話などを自然に語る彼らの間に、きみはもうどうやって入ったら良いのか分らなくなっていた。彼女も、きっとそうだったのかもしれない。たかだか二泊三日の旅行だったが、きみたちは自然と二人でいるようになっていた。傷を舐めあう、などということではなく、単に、極かすかにだったとしても、共有しあう何かがあると思えたからだろう。
対人恐怖症で不器用で壁にぶつかったらいつまでもぶつかり続けるようなきみとは違い、彼女は人当たりもよく、器用で頭も良かった。そんな彼女がなぜいまだに就職もせずその日暮らしを続けているのか、本当のところは、きみにはよく分からなかった。二日目の夜、宴会の盛り上がりから離れ、きみと彼女は縁側に出て風にあたっていた。田舎の夜空には恐ろしいほどに星が溢れている。吸い込まれてしまうような気がして慌てて目を逸らし、きみは隣にいる彼女を見る。所在なさ気に団扇をもてあそんでいた彼女が、きみを見返す。きみは気になっていたことを彼女に訊ねてみた。――……あのさ、俺は、もうどうやっても卒業とか無理だと思うんだよね。実際、大学へ行っただけで息が詰まって吐きそうになるんだ。恥ずかしい話だけどさ。彼女は悲しそうに、川を挟んだ向かいにある暗い山なみに目をやる。――でもきみはちゃんと卒業もしたし、成績だって悪くはなかった。それなのに……。――それなのに、何? 彼女はいつの間にか俯いたまま微笑んでいた。何だってきみは俺と同じ側にいるんだ? きみは、その疑問を口にできないまま、いや、何でもないよと誤魔化し、昨晩皆でやった花火の残りを持ってくると、彼女とふたりで線香花火をした。
もう、それも十数年昔の話だ。きみはいまだに何者にもなれず、既にあのころ時間を共有していた誰とも連絡をとることはなくなっていた。きみはある女子大で、ほんの幾つかの講義を持つようになった。何人かの生徒はきみの話を聴き、何人かの生徒は教室に入るなり後ろの方の席で輪になり、あとはひたすらお喋りにいそしんでいる。それはそれで、きみにはどうでもいいことだった。講義を聴いている学生の迷惑にならない程度なら、私語をしようが携帯を眺めていようが、それは本人の選択だときみは思っていたからだ。結局最初の大学を中退したきみには、講義をまじめに受けるよう彼女たちに働きかけるいかなる理由もなかった。
けれども、時折、きみは叫びだしそうになる。彼女たちの、生きていることに対する盲目的で無根拠な自信が、きみを苛立たせる。いや、それは苛立ちではない、嫉妬ですらない。それは恐怖だった。講義の間、ふと、きみは急激な吐き気に襲われる。きみは彼女たちが恐ろしかった。蜂のようなざわめき、光があることを当然のように受け入れるその笑顔が、きみには途轍もなく恐ろしく思えたのだ。けれども、震える足を力で抑え、きみは講義を続けた。
きみよりも器用で、きみよりも人当たりがよく、きみよりもはるかに頭の良かった彼女は、けれどもきみよりも早く、この世界から退場することを選んだ。いま、きみには何となく分る気がしている。いまだに留まり続けているきみは、要するに、それだけ鈍く、それだけ愚かだったということなのだ。――ま、なるようにしかならないんだから、仕方がないさ。驚くほど疲れきった声で、きみは自分に語りかける。
線香花火をすべて燃やし終えたあと、きみと彼女は夜の川辺へと降りていった。小さく浅い川は、けれど夜に沈み、あまりに黒く深い。それでも彼女はスカートを膝まで上げて軽く縛ると、ばしゃばしゃと水を撥ねさせ水の中へと入っていく。危ないぞ、というきみに柔らかく光を放つような笑顔を向け、大丈夫だもん、と子どものようにいう。そしてふいに、真剣な声音できみに訊ねる。――ねえ、何だかこれって、時間の流れみたいだよね。きみは無駄に堅く縛った靴紐を解きながら聞き返す。――時間の流れ? どういうことさ。彼女は直接は答えず、さらに問いを重ねる。――川上と川下、どっちが未来で、どっちが過去だと思う? 時間が流れるものなら、川上が過去で、川下が未来。でも、私は逆の気がする。水に流されて消えていくのが過去で、流れに逆らって進むのが未来なの。私は、きっと流されるだけだな。彼女の声が遠ざかる気がして、きみは慌てて靴を脱ぎ捨て、川に入る。あっという間に、ジーンズが重く水を吸う。川のせせらぎに混じり、どこからか彼女の声が聴こえてくる。――きっときみなら進めるよ。いまは立ち止まっているだけのように思えても、きっと、進める。
それが、きみの記憶に残る、最後の彼女の言葉だ。旅行から戻った後も幾度か彼女に会ったが、いまでも覚えているのは、あの夜の彼女の声。彼女が過去に消えてしまったのか、あるいは先に未来へと行ってしまったのか。どのみち、きみが独りで残されたことに変わりはない。ふと、教室が静まり返っていることに気づき、きみは我にかえる。学生たちが、きみを薄気味悪そうに、あるいは莫迦にしたような笑みを浮かべて眺めている。きみは何事もなかったかのように講義を再開する。
あのときの黒い川のただ中に、きみはいまでも立ち竦んでいる。恐怖をこらえ、吐き気をこらえつつ、きみは流れていく水を感じている。