気づけばすっかり育っている冬毛、やがてすぐに冬眠。

けっこう、死物狂いでいろいろな原稿を書いていたような気がします。科研費の申請書や、いま参加している研究会用の論文、それから同人誌に掲載する小説など、とにかく、徹底して零から書くことが求められるものだったので、だいぶ苦しみました。それ自体は楽しい苦しみなのですが、同時に、食べていくための仕事がピーク続きであったり、あとは新しい講義が二つ始まってしまっているので、その準備に追われ続けているということもあり、精神的にも体力的にも、だいぶ疲労困憊しました。

それでも、とにかく書き続ければ、書いたものは残ってくれます。それが良いのか悪いのかは分かりませんし、別段、「自分」が書いたもの、という意味で残ってほしいと思う訳でもありません。それでも、やはり、言葉というものの良いところは、時間も空間も超えて、誰かに届けることができるし、誰かから受け取ることができるということです。そしてもちろんそれは、届ける意味のある言葉だから、でなければなりません。意味がある、というと少々驕っているようにも思えますが、しかしそれは徹底的に主観的で、徹底的に一対一のものです。そしてその限りにおいて伝える意味があるという確信がなければ、誰も言葉など書けないだろうとぼくは思います。

そういった意味のある言葉に、この数か月書いてきたものは、ほんの一歩でしかないとしても、少し近づいたという自負はあります。

最近は、同人誌に書く文章も論文も、その文体においては、かなり一致してきているのを感じます。良いことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか。言うまでもなく、研究者としては良くないことです。というよりも、恐らく、ますます、ぼくが何を書いているのかが、研究者相手には伝わらなくなっていくことでしょう。それはそれで、仕方のないことです。文体は、選べるものではない。そうであるのなら、ぼく自身の人生としては、論文と小説の文体が一致し始めているというのは、避けようもないことでもあり、望ましいことでもあるはずです。

そんなつもりはないのですが、ぼくはけっこう、ひとに不快感を与える人間のようです。能動的に不快感を与えようと思うほどには興味のない連中に限ってぼくを嫌うので、要するに、無関心であることをあまりにも露骨に現してしまっているのかもしれません。ちょっとばかり子供っぽいようですが、しかし、この年になると、残り少ないリソースを何に割くのかに対して自覚的になるのはある面において仕方のないことです。仕方のないことは仕方がない。そういった諦めを、これは他人に強要するのではなく、自も他もなく単なる事実として受け入れてしまうということ。でもそれは、やはり、ある人びとにとってはとても耐えがたく不愉快なのだろうということも分かります。

そうして、そういう傾向が強くなることと、自分の書くなにかしらがすべて等しい文体になっていくこととは、不思議と、どこかでシンクロしているようです。

所属している学会で、オンラインジャーナルが発行されました。今回も表紙は自分の撮った写真。これで三年目になるのですが、彼女には「メモリアル三部作」と言われています。要するに、葬儀社のパンフレットの表紙に使われるような写真ということで、自分でもそうだなあ、という気がしないでもありません。ともかく、これで三年間面倒を見てきたので、もう手を放そうと思っています。もっとも、二年目以降からは屑のような論文を本気で校正するだけの熱意も既になく、それだけの時間も与えられなかったので、とっくに気持ちは離れていたのかもしれません。オンラインジャーナルには自分の投稿論文も掲載されているのですが(もちろん査読を通ったものです)、もう、この学会に論文を投稿することもないでしょう。

アカデミズムというのは、ほんとうに嫌なものです。ひとりひとりの研究者を見ると、不思議と、三人に一人くらい……いえ、五人に一人くらいは、まあ多少はまともな人も居るには居ます。しかし、研究者の集団で見ると、これはまず間違いなく、糞のようなものです。ぼくはちょっと、耐えられそうもありません。ただ、同じように感じている連中も確かに居て、しかも彼ら/彼女らはその世界においてがんばろうとしている。だから決してそのすべてが糞なわけではない。ないのだけれども……。まあ、文体を選べないのと同様、どのみち、人生も選べません。いまのところ手にしている文体がただひとつにまとまっていくのであれば、それが指し示しているその先にいくより他に、恐らく、ぼくだけではなく誰もが、どうしようもないのだと思います。少なくともそれは、指し示してくれる文体がないよりも、遥かにましなことではあるのでしょう。

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