I say hello to my soul

相棒の借りてきた本に、体力やら柔軟性やらバランスやらを測るテストが載っていた。筋力と柔軟性には問題なかったが、バランス感覚は致命的だった。目を瞑り、片足立ちをして上げた足の裏を軸足の膝脇あたりにつける。0.5秒でバランスを崩した。

最近は、彼女と夕食を作ることが増えた。いや、いままでだってできる範囲では手伝っていたのだけれど、言われるままに簡単な作業をするのがせいぜいだった。けれども、いまはけっこう主体的に、クックパッドなどを参考にしつつ料理をしたりする。ぼくはすべてを独りで準備して彼女に食べてもらいたいのだけれど、彼女は一緒に作りたいという。鶴の恩返しのように台所に篭り、彼女が近づいてくると裏声で「コナイデ! ミナイデ!」と叫ぶのだけれど、やはりそれはだめらしい。

いま、何故か声をかけてもらった××という集まりに参加している。正直、ぼくの研究上の立ち位置とはずいぶん違う集団なんじゃないかという気がしているのだけれど、でも、自分の殻が並外れて硬いのは知っているので、そういうところに混じるのも何かしら必然なのだろうと思っている。ともかく、なかなか、そこのリズムに合わせるのは難しい(そうしてまた、意識的に合わせようなどとすることに意味はないのだろう)。

それとは別に、ある糞のようなテーマで原稿依頼が来て、しばらくどう書いたら良いのか苦しんでいた。けれど、ある瞬間ふいにタイトルが思いつき、それで全体が見えて、少し楽になった。ものすごく喧嘩を売っているようなタイトルになってしまったけれど、それはそれで仕方がない。器用な生き方ができるのなら、いまごろ庭付きの家で、子どもと犬にでも囲まれて暮らしている。

ともかく、先に書いた××の一人にそのタイトルのことを話したら、それってすごく××的で良いじゃない、と言われた。××に向けて書いた原稿は××っぽくないと批判をされるのだけれど、そうじゃないところに向けて書こうと思っていることが××っぽいと言われるのは、何だか純粋に面白い。たぶん、無理に合わせるとかではないところで、××に誘われた理由としての通奏低音みたいなものがあるのだろう。

LAMAのParallel SignのPVが気に入って、何度も眺めている。独りで論文や講義のレジュメを書いているのに飽きると、画面の向こうの人びとと一緒に踊ったりする(上半身裸で近づいてくる男のシーンが特に良い。ズームアップに合わせ、ぼくも同じように踊りながらモニターに近づいていく)。途中、お爺さんが砂時計をひっくり返しているシーンが短く挿入されるのだけれど、ぼくはそこがとても好きだ。そこには、老いることの寂しさ(でも、それは個人の感情としての「寂しさ」を遥かに超えて、魂に対する愛しさともつながるものだ)と同時に、すべてを受け止めているいま、この瞬間が顕れている。

憎悪は、簡単に自分自身を吹き飛ばす。この数か月、多くの物事に対する嫌悪と憎しみを募らせた。それは物理的なもので、ストレスなどではなく、直接体調を悪化させる。仕事も研究仲間との付き合いも、そろそろだいたい破綻しかけているのを感じる。まあ、嘘と笑顔だけで何十年も生きてきたので、何だかんだいってもまだまだ粘るのかもしれない。けれども、所詮はみな、下らない現世のできごとだ。戦うべき姿は救いのない日常へ戻るジョバンニのなかにあるが、それはおしるこ万才を意味するのでは決してない。その違いが分からない者には、何を言っても通じはしない。

夜、家に帰る途中、裏山の階段でがさがさと草叢を何かが通っていった。あれは絶対にヤマカガシだった。

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