偶然、きみに殺される。だからぼくは愛する。

きょうはとある研究会に参加してきた。といっても、その前に出なければならない会議があり、そのまま抜けるタイミングを逃してしまったというだけなのだが。けれども、ぼくがいまの研究テーマを考え始めたころに研究上でお世話になったひとの発表だったということもあり、体調不良や山積みの仕事という問題を除いていえば、とてもおもしろかった。

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議論のなかで、偶然、ということがひとつの焦点になっていた。たとえば、自然は科学によって完全にコントロールはできない(いやできる、というひともいるかもしれないけれど)。ちょっと言い換えると、ぼくらは、(自然をも含めた)他者から偶然を取り除き尽くすことはできない。幾人かのひとたちは、それを主体性、という言葉で表現していた。相手が完全に分析可能な客体であれば(無論、客体だからといって完全に分析可能であるわけではない。ちょっと括弧が多いな……)、そこに偶然は生じえない。けれども自分とは異なる主体であれば、そこには自分の予測を逸脱するなにものかが必ず現れることになる。それを偶然と呼ぶかどうかはともかくとして。

でも、そういった議論には、ぼくはあまり興味が持てない。主体とか意識性とか、そんなことではなく、偶然は、やはり圧倒的に偶然なのだ。

他者というのは、自然だろうが人間だろうが、あるいは機械だろうが、つねにそこに偶然を内包し続ける。その潜在的な偶然への可能性が、ある瞬間、何の前触れもなく爆発する。けれどそれは単に特異な点ということではなく、ぼくらの平凡な日常生活は、そのそれぞれに絶対的に特異な点の連続によって構成されている。他者の他者たる所以は、その偶然性にこそある。無論、その偶然がつねにぼくらに破滅的な帰結をもたらすとは限らない、というより、まずたいていはもたらさないように、ぼくらはシステムを構築してきた。それでもその偶然性は、つねに、恐怖をともないつつ、ぼくにとってのきみのなかに在り続ける。きみにとってのぼくのなかに在り続ける。

そしてだからこそ、ぼくらには倫理が必要になるのだ。偶然によって完全にはぼくに吸収しきれないきみ、偶然によってぼくを殺すかもしれないきみ。互いに抱えたその偶然が、ぼくときみの関係を倫理そのものとして現出させる。偶然はぼくがきみに殺される恐怖でもあるし、同時に、ぼくときみを結ぶ愛でもある。だとすればまた、恐怖とは愛でもある。

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連日の疲労と体調不良が重なり、この辺りですでに夢のなかへと突入していた。ほんの数人しか参加していない、しかも自分が参加者中もっとも下端の研究会で居眠りをするのだから、我がことながら将来が心配になる。しかしクラウドリーフさんに将来なんてないよね、というのが定説なので、どのみち心配する必要もないのかもしれない。体調が悪いのでスミマセン生まれてスミマセン、と呟きつつ、研究会あとの食事会から逃れるように去っていった。

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