ぼくは友人がとても少ない。まあその最大の理由はぼくの人格に問題があるのは間違いない。しかし一方で、ぼく自身あまり友人を必要としていないということもある。友人を必要としないというとちょっと違うか。仲良しごっこは大嫌いだ、と言った方が良いかもしれない。
ぼくは偽物が大嫌いだ。これだけは本当に、ちょっと病的だと自分でも思うくらいに嫌いだし、怖いし、憎い。偽物って何? というと、これは答えるのは難しいのだけれど……そうだなあ、例えばぼくが死んだとき、存在しない神を前にして、俺は俺の人生を生きた、お前の負けだ、這いつくばって死ね、と神に向かって言い放てる、そのときぼくがどこに立っているのかというと、それはぼくがぼくの真実を生きた、というところに拠るしかないとぼくは思っている。そしてその足場を侵食するものが「偽物」なのだ。偽物に頼った人生は、おそらく最後の最後で、あるいはそのもっと手前で、神に頼らざるを得なくなる。ぼくはそんなのはごめんだ。
基本的にぼくの考えは、この世界は糞だというところから出発している。もちろん、世界にだって美しいものはたくさんある。というか無数にあるだろう。けれどもそんなことを言っているのではない。「人間」に対してこの世界が持つ根本的な不条理さのお話。で、そこに意味を見出そうとするのが宗教だとぼくは思う。何をされたって神を赦す。その覚悟があれば、なるほど世界の不条理さなんて何ほどのこともない。とまあ、これはまた別のお話だからいまは触れないけれど、ぼくは神というものを徹底して否定している。当然だけれど、誰かが信仰心を持っていたとして、それを否定するつもりはまったくない。ぼくのスローガンは「世界は主観でできている」なので、これはあくまでぼくが見たぼくの世界のお話。あなたにとっての神を冒涜するつもりは一切ない。
だから、その不条理な世界で、ぼくという存在の持つ意味というのは基本的に0になる。あらゆることに意味なんてない。死は突然やってくるし、ぼくの死によって世界はいかなる影響も受けない。そもそもそのような不条理さの総体として世界があるのだから。ぼくは無価値で、はきだめの中で無意味にのた打ち回って死んで、世界の端からゴミのように転がり落ちてそれっきりだ。
仲間もいないし、愛なんてものはそもそも存在しない。そんなものが存在できる世界ではない。
けれども、その上で、それを徹底的に真実として受け入れた上で、なおかつ「舐めるな!」と叫んで這い上がってくる人間が、ぼくは好きだ。この世に救いはない。仲間はいない。愛もない。ただ苦痛だけがあるし、希望はない。だけれど、だからと言ってそれは自分が世界に負ける理由にはならない。それを乗り越えて、ぼくは初めて、人は人になれるのだと思う。
そういったある種の死と復活を通っていない誰かが、どうして他の誰かと真の関係を結ぶことなどできるのか。それは結局のところ、ただ恐怖から目を逸らし、偽物の安逸の中で芋虫のように自我ばかりぶくぶくと肥大させるに過ぎない、偽物の人生だ。傷つくのが怖い、死ぬのが怖い、生きるのが怖い、独りが怖い。当たり前だ。世界は、そうできている。救いは、ない。だからぼくらは、存在しない神を乗り越え、自分の死も乗り越え、人間にならなければならない。
繰り返すけれど、これはぼくがそう考えるというだけで、あなたがどう考えるとしてもそれは自由だ。ぼくはぼくの考えが客観的に真実だなどとはまったく思っていない。
けれども、ぼくはぼくに対して、ぼくの世界において、そう考えている。
しかし明らかに、これは非人間的な考え方で、現にぼくは、ある時期まで、あらゆる人間を徹底的に侮蔑していた。こいつらはみんな芋虫だと思っていた。もちろん、これはおかしな話で、人間が人間であるということは、もっと自然なことであるはずだ。普通に生まれ、普通に苦しみ、普通に喜び、普通に一生懸命生きて、普通に惰眠を貪る。それの何も悪くはない。
ぼくは相棒に会って、初めて、自分とはまったく違う生き方、人生の捉え方をしていても、それでもなおかつぼくの尺度で測ってさえ人間であるとしか言いようのない者が存在することを知った。そして、自分の尺度とは別の何かを認めざるを得なくなった。なぜなら現にそうである人がいるのだから。
いまでも、ぼくの中心にあるものは、昔とまったく同じままだと思う。ぼくはいまでも、偽物を徹底的に憎むし、恐怖している。仲良しごっこ、友達ごっこ、偽善に偽悪は見ているだけで反吐がでる。ぼくが願うのは、本当の生だ。救いのない不条理だけのこの世界で、ただ人が人になることだけが、ぼくの願いだ。
それでも、自分という枠を超えることを、超えられることを、ぼくは知った。おそらく、いまのままでは、ぼくは人間にはなれないだろうということにも気づき始めている。ぼくは彼女を通して世界を見ることを学んだ。ぼくがぼく一人でいたときと、「世界は主観でできている」という言葉の意味はまったく違うものになっている。
そしてもちろん、昔のぼくを間違っていたと断罪するつもりもまったくない。ぼくが見た世界は、ぼくが見た世界として間違いなく真実であったし、だからこそ、ぼくとは違う真実を見ていた彼女と、互いに見つけあうことができたのだと思っているから。
ぼくらは二人とも、恐ろしく不完全な形をしている。それでも、それを恥じるつもりはない。少なくともぼくらは、偽物を見る目を持っているし、それを憎む点において共闘することができる。ぼくらが何らかの答えに辿りつくのだとすれば、それはぼくらの進む先に必ずあるだろう。
プラトンの『饗宴』の中でアリストファネスが語っているように、ぼくと相棒はある種の割符のような関係にあるのだとぼくは思っている。ぼくは (フロイト式のたわ言を抜きにして)物心がついて以来、彼女に会うまで誰かを愛したことはなかった。これからも、彼女を愛するような意味で愛することはない。そんなことはないだろう、と言われることもあるが、しかしそういう誰かさんの生き方とぼくの生き方はあまりに違いすぎる。だからぼくはただ笑ってやりすごす。もちろん、何度でも繰り返すけれど、ぼくとは違う価値観を持った人を否定するつもりはまったくない。愛には、それこそ人間の数だけの種類があるはずだ(そして同時に、「人間」の数しか愛はないとも思っている)。
ぼくが彼女との関係性を表すのに「彼女」や「恋人」ではなく「相棒」と言うのは、この世界でぼくらがぼくらであり、人間である、あるいは人間になるために絶対に必要な存在であると、相手のことを思っているからだ。存在しない神を相手にした、ぼくらが人であるための戦いの、彼女は唯一の相棒だ。
だから、ぼくがぼくの言葉を語る上で、相棒の存在を抜きにして語ることは原理的にできない。それでは、ぼくがぼくである意味がないし、ぼくになれるであろう可能性もない。
と、そんなことを言うとですね、いつも相棒に、「そんなことないんじゃない? 楽しいから一緒にいるだけでしょ」と言われまして、なるほどなあ、そりゃそうだよなあ、と思ったりするのです。まあそんなこんなでして、何かものすごいアンチクライマックスなんですけれども、どうなんでしょうね、やっぱりこれ、のろけなんでしょうか。良く分かりません。