虚ろ

きょうはですね、あまり明るくないお話です。ですから、もしこれをお読みになる方がわははと笑いたいな、とお思いになっているようでしたら、どうぞここでお読みになるのをお止めください。

さて、と改めるほどでもないのですが、ぼくはいわゆる善人ではありません。むしろ、ぼくはかなり冷酷な性格をしていますし、倫理観というものもほとんどありません。ところが、ぼくは見た目が真面目で優しそうに見えるらしくてですね、しばしば誤解を受けます。ぼくにも常識はありますので、初対面の人に向かって「ぼくは真面目ではないですし優しくもないので勘違いをなさらぬように」などと言ったりはしません。で、第一印象があまりに真面目で丁寧なので、後で本性に気づかれたとき、そのギャップの激しさからより一層嫌悪されることになります。困っちゃうよねー、えへへ、などと笑ってやり過ごすには、あまりにも双方にとって残念な結末を迎える場合が多いのです。とは言え、これがぼくという人間の出来具合でして、変えるのはなかなかに難しい。ま、それは今回の本題ではないのですが、ぼくが善人ではないということはこれからのお話の大前提になります。

次です。ぼくはいままでに、駅のホームから転落した人を引き上げたことが三回あります。三回、というのは、十五年程度に渡ってであることを考慮しても、恐らく相当な数字なのではないでしょうか。もっともそのそれぞれにおいて、ぼく一人で助け上げた訳ではなく、居合わせた何人かがかりで引き上げたのですが。
この三回とも、時刻は終電近く、落ちたのは酔ったサラリーマンでした。で、この話をするために先ほどの前提が必要になるのですが、これを読んでですね、「わあ、落ちた人を引き上げるなんて偉いなあ」などとは、絶対に思わないで下さい。こんなことはですね、愚の骨頂です。昔はともかく、いまは駅のホームに緊急ボタンみたいのがありますよね、あれを押せば良いのです。慌てて手を貸して自分までホームから転落したら、それこそ誰にとっても良いところなしです。それに、酔っ払った大の大人を引き上げるというのは、口で言うのは容易いですが、実際にやってみると途轍もなく重い。正直、全力で引っ張ってもびくともしません。逆にこちらが引き込まれます。最初のときは、五人くらいの男が全力で引っ張って電車の連結部に落ちた一人の男を引き上げました。そのくらい重い。ですから、決して手を出してはいけません。あなたも道連れになるのが落ちですし、そもそも、繰り返しますがいまはホームに緊急ボタンがある。

第一、本当にあなたが身体を張って助ける価値があるのか。ぼくは人前で酔っ払う人間が嫌いです。仮に辛いことがあったとしても、そんなのは誰もが同じです。みんなそれでも全力で戦っている。それでも、たまには酔いたくなるときもあるかもしれない。けれどその挙句に無様にふらついてホームから落ちて、真直ぐに立って世界と戦っているあなたに道連れの危険を冒させる権利など誰にもない。いや権利とかじゃないのかもしれないけれど、ぼくはそう思います。生きるというのは戦いです。誰もが戦っている。どんな理由があれ、自分の弱さ故他人を危険にさらして良いはずがないとぼくは思います。もちろん、そこに特別な関係がある場合は別です。そんなことは言うまでもないですね。

第二に、ぼくは手を出しますが、しかしいざとなったら、すなわち万一電車が進入してきて、もう引き上げることができないと判断したら、落ちた相手の顔を全力で蹴り飛ばしてでも、自分の身の安全をはかる覚悟をしています。その瞬間、絶望に歪んだ相手の表情を目にしてしまったとしても、決して後悔しないだけの覚悟を持って、手を出します。ぼくはそんなに優しい人間ではない。相手を殺すだけの決意がなければ、救うことなどできないと思っています。けれども、恐らく、あなたはそうではない。あなたは、きっとそんなに冷酷ではない。だから最後の瞬間に相手を切り捨てることが出来ずに巻き込まれて死ぬか、あるいは切り捨ててしまったことを一生後悔しながら、毎晩相手の最後の表情を夢に見ながら生きることになる。そうであるのなら、最初から手を出してはいけない。あなたがそんなリスクを負う義務はどこにもない。

それでも、そういった場面に遭遇したとき、ぼくがどうしても走り寄って落ちた誰かを引き上げようとするのは、要するにそれが、ぼくがぼくであるために必要なことだからです。ぼくは自分が人間でないことを知っている。だから、ぼくにとっての「人間らしい」行為に自分を懸けなければならない。極めてエゴイスティックな理由でやっているにすぎません。

もう一度繰り返します。誰かが転落しているのを見ても、あなたは決して手を出してはいけません。もちろんそれがあなたの信念であるのなら、ぼくには何も言う権利はありませんが、しかしそこに何の価値もないことを、ぼくは断言します。

これが前提の二つ目。ここまで来て、ようやくきょうの本題に入ることができます。

あるとき、とある駅で終電を待っていると、急に大きな物音がしました。しばらくはぼんやりしていたのですが、はっとしてそちらを見ると、男の人が線路に転落しています。酔っ払っているらしく、ふらふらしながらホームに上がろうとしていますが、まったく力が入らない様子です。瞬間、ぼくは走り出しました。二十メートルくらい離れていたでしょうか。走り寄る間に、誰かがボタンを押したのか、ベルが鳴り始めます。
昔は、こういうことがあると、近くに居るサラリーマン達がいっせいに集まって引き上げようとしたものですが、最近はそんなこともなくなりました。前述の通り、これは正しいことです。むしろ手など出さない方が良い。緊急ボタンを押せば電車は止まりますし、下手に手を出せば、万一の場合犠牲者が増えるだけにしかならない。電車が緊急停止したとしても、慌てて手を貸して自分も転げ落ちて、足でも折ったら大変です。だから手を出さないのは絶対に正しい。

と言いつつ、もう一人若い男も手を貸してくれ、二人がかりでその酔っ払いを引き上げることに成功しました。その酔っ払いは、そもそも何が起きたのかを正しく把握できていないのでしょう、そのまま逆側の壁に凭れて何やら不機嫌そうにぶつぶつ言っています。ぼくはさっさとその場を離れました。繰り返しますが、あなたがこんな奴のために少しでも危険を冒す価値はない。そもそも、これは人を救うことにすらなっていない。電車は緊急停止してくれるはずですから。

やがて駅員がのんびりした足取りで現れ、これはぼくにはちょっと意外だったのですが、離れたところからその酔っ払いが無事であることを確認し、そのまま去っていきました。緊急ボタンが押された時点から、監視カメラか何かで見ていたのかもしれません。この辺はちょっと記憶が曖昧ですが、とにかく、その酔っ払いを駅長室に連れて行くでもなく、壁に凭れて酔いつぶれたままにしておいたのは確かです。まあ、ぼくにとってもそんなことはどうでも良いことなのですが。ぼくは外で無様に酔っ払う人間に同情するつもりは一切ないのです。そんなに、心優しい人間ではない。

その場で起きたことは、これですべてです。けれども、本当に恐ろしい話は別にあるのです。もう一人の人と酔っ払いを引き上げているときに、ぼくは見ました。もがいているぼくらのすぐ後に立っていた若い男が、何とも表現しようのないニヤニヤ笑いを浮かべながら、ぼくらを、というより転落したその酔っ払いを、携帯電話のカメラで撮影していたのです。信じられますか? 残念ながら、ぼくは信じられます。ぼくは、もうその男の姿を一切覚えていません。そもそも最初から、そんなものは目に入っていなかったのかもしれません。けれども、彼の眼だけははっきりと覚えています。そこには、真黒な穴がぽっかりと開いていました。真の虚無。ただ、虚ろなニヤニヤ笑いだけが浮かんでいる本物の闇がそこにはありました。

ぼくは、ぼくほど最低な人間をまず見たことはありません。けれども、ぼく以上に異様な何かが、確かにぼくらの間に紛れ、普通の顔をして暮らしているのです。

ぼくは、それがとても怖い。本当に怖いのです。

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