ぼくはあなたの家畜ではない

しばらく体調を崩していた。といっても、長年にわたる過負荷とストレスの結果だから、これはすぐにどうなるというものでもない。身体のあちこちに問題が出てきて、正直ちょっと参った。とは言え、根が頑健にできているので、少しずつ調子は戻ってきている。面白いことに、具合が悪いときには、自分の身体の中のことがまったく見えなくなる。まるでウィルスの培地が一杯に詰まったみたいに、透視しても何かモアレのようなものが見えるだけ。いまは少しずつ、内臓や筋肉の形が見えるようになってきた。

さて、きょうはちょっと怒っているお話です。いえ、本当は滅茶苦茶に激怒しています。

先日、相棒と二人で大学の近くへ買い物に行きました。で、少し遅めの昼食でもとろうかという話になったのですが、その辺りにはレストランはあまりありません。ぼくは基本的には何を食べるかより誰とどう食べるかを重視します。これが相棒には少々不満のようなのですが、ぼくとしては相棒とゆっくり話しながら食べられれば、コンビニの肉まんだって良いと思っているわけでして、どうしてそれが不満なのか、本当のところは良く分からない。まあそれはどうでも良くて、いやどうでも良くないですね。今回書く内容は、食べるということから始まるので。

とにもかくにも食べるところがないのであれば仕方がありません。幸い近くの大きなオフィスビルの一階にコンビニが入っていましたので、そこでお弁当を買い、外の広場のようなところで食べることにしました。その日は土曜日だったので、人影もほとんどありません。

お弁当を買って、相棒が手を洗うというので、ぼくだけ先にベンチに座って待っていたのですが、戻ってきた彼女が変なものがあったと言いました。トイレに、「ここで食事をするのはやめてください」と書いてあったというのです。

どことは書きませんが、整備された区画にある、まだ新しい大きなオフィスビルです。立地から考えても、それなりに名の通った企業が入っているのだろうと思います。

ぼくも、すでに十年以上会社員をやっています。酷いことも体験したし、惨い話も見聞きしてきました。ですから、いまさら驚愕するようなことではないのかもしれない。

それでも、やはり、これはあまりに異常です。誰が好き好んで、少ない休み時間にわざわざトイレで弁当を食べたいと思うのか。「やった、お昼休みだ! きょうも楽しくトイレでお弁当だよ!」などと思う人間が、どれだけいるというのか。あのですね、理想は大事ですが、確かに実際問題、ぼくらは全員が全員天職について、楽しく働いているわけではないですよね。それぞれに生活があって、いろいろ大変なこともあって、それでも一生懸命働いているわけですよね。それで、そんな風に働いている誰かが、どうして食事を、トイレで食べなければならないのか。なおかつ、どうしてそんな境遇に置かれた上で、置いているシステム側から「食べるな」と命令されなければならないのか。

これは、そういった張り紙をするのがビルのメンテナンスをする人々であるとか、そんな無意味な反論を認めるような問題ではないのです。確かに、ビルの清掃をしているのはぼくらと同じ誰それさんです。彼ら/彼女らからすれば、トイレで弁当を食べ散らかされれば、それは本当に困ったことです。けれども、ぼくが言っているのはそういうことではない。ぼくらをそういった奴隷以下の存在へと押し込めようとしているシステムそのものの話なんです。

ぼくらは、奴隷ではない。家畜ではない! 狭いコンクリートの中に押し込められ、人間性を導き育てるようなことからかけ離れた仕事さえ、もしかしたらしていて、それでも必死に生きている。そうした人間に対して、トイレでしか食べる場所、時間がないような環境を与え、なおかつそれを禁止する。そのようなことに対して恥じることのない人々を、ぼくは唾棄します。それは、もはや人間ではない。ぼくらを人間以下の存在に貶めようとするあなたがたこそ、人間ではない!

これは、人間性に対する重大な犯罪です。ぼくらは、もしそうできるのであれば、誰だってゆっくり時間を取り、自分の好きなところに行って、おいしいものを食べたいと思う。もちろんそれはとても贅沢なことですし、一歩間違えれば傲慢や退廃に堕するかもしれない。けれども、それは彼らの犯罪を正当化する理由にはまったくならない。ぼくらが自らに対する誇りと、他者に対する責任とを忘れるのであれば、それはぼくら個々人の罪です。まだ起きてさえいないその罪を、無関係なシステムに責められる謂れはまったくない。

あなたがペットを飼ったとします。例えば番犬だとしましょう。あなたは番犬としての仕事を彼に要求する。けれどあなたは最低限の散歩しかしない。仕方なく彼が庭でウンチをしてしまったら、あなたは激怒し、彼を折檻する。庭でうんちをするなと言ったろう、と。

けれども、彼をそうさせたのは、他ならぬあなたなのです(ブログを読んでくださっているあなたではないですよ)。ぼくらは、誰も、トイレでお昼ご飯を食べたいなどとは思っていない。そうせざるを得なくしているのは、誰でもない、あなたなのです。そのあなたに、「トイレで弁当を食べるな」などと、ぼくは絶対に言われたくない。

これはお昼ごはんの話でしたが、それ以外にも、こういった例はいくらでもあります。けれども、ではどうしたら良いのかと言うと、残念ながら答えは、ありません。ぼくらは確かに、働かなければ生きていけない。残念ながら現代社会において、ぼくらは自分の好きな生き方を選ぶことはできない。もし、現実社会においてそれが可能である、できないとすればそれはお前の努力や才能が足りないのだ、と言う人がいるのなら、おめでとう、あなたは御立派な人間様なのですね。どうやらぼくは、あなたから見れば人間ではないようだ。別段、それでかまわない。ぼくもあなたを人間だとは思わないから。

人間は、確かに戦わなければならない。ぼくがぼくであるために、自分の全存在をかけて戦わなければならない。けれど、それとこれとは、まったく別の話だ。現実社会における成功しか基準を持てないのであれば、それはその人の「現実」という仮想に囚われた奴隷でしかない。ぼくらの本当の生は、ブルトンの言う通り、もっと別のところにある。

繰り返すけれど、答えは、ない。そんな職場をやめろとは言えない。ぼくは次の職を紹介することはできないし、そもそもこれは、どこか特定の企業だけに限った話ではないだろうから。それでも、ひとつだけ、この世界において意味があるかどうかは分からないけれど、ぼくらにひとつだけ、できることがある。

それは、心の中で、「これは人間に対する挑戦だ」と叫び続けることだ。それ自体に救いはない。何も解決する力はない。それでも、ぼくらは、それを忘れないことによって、どんなに泥に塗れ頭を彼らの足で踏みつけられても、人間でいることができる。人間で在り続けることができる。人間で在るということは、楽しいことでも、救いの在ることでもない。それを受け入れることができる者だけが人間になれるとぼくは思っている。

それは誰にでもできる容易な、かつ不可能であるとすら思われるほど難しいことだ。けれど、それがぼくらの戦いなのだ。ぼくらは、家畜ではない。

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