いや、先日とある映画の試写会に行ったのですが、これがまあひどい映画でした。タイトルは”Into The Wild”。基本的にぼくはレビューとかしないんですけれども、あまりにひどいのでちょっと書きます。内容どころかラストにまで触れていますので、映画を観ようと思っている方は以降お読みにならないでください。
とか言ってですね、まあみなさんご存知のように、ぼくにレビューができるはずがない。絶対に話がずれるに決まっています。それから、いつも書いている通り、ぼくは自分の主観と他人の主観を厳密に分けています。ですから、ぼくにとってつまらなかったからと言って、その映画に価値がないというつもりはありませんし、あなたがその映画を観てもつまらないかどうかは分かりませんし、あなたが面白いと思うのであれば、それを否定するつもりもまったくありません。ぼくが書けるのは、ただ、ぼくがその映画をどう思ったのかだけであって、このブログも、ぼくが何をどう感じるか以上のことは書けるはずもありません。
今回この映画を観に行ったのは、相棒が試写会の抽選に応募して、それが当たったからです。相棒は結構こういう試写会とかに応募するひとで、たまに当たると、二人で観に行きます。で、おんぶにだっこの状態で申し訳ないのだけれど、これが大抵、つまらないどころか無茶苦茶な映画であることが多い。いや『ダーウィンの悪夢』は面白かったな。でも『中国の植物学者の娘たち』はひどかった。あまりにひどくて憤激して、これは絶対ブログに書くぞと思っていたのだけれど、基本的につまらないことはすぐに忘れるたちなので、きょうのきょうまですっかり忘れていました。まあそれは良いや。で、どのみちぼくは映画そのものよりも相棒と映画を観に行くという行為自体を楽しむので、映画の内容がひどくても、行ったこと自体を後悔することはないのです。
で、今回の”Into The Wild”。これもひどかった。これはクリス・マッカンドレスという実在のアメリカ人の若者が、親との反目やら何やらが原因で、「本当の自分」を探しに「すべてを捨てて」荒野を目指し、けれどもその途中で毒の豆を間違えて食べて死ぬ、という、現実の話を元にした映画です。90年代初めですから、年代的にもぼくに近い。彼の方が半回りくらい上ですけれども。
誤解されがちなのですが、ぼくは決して優しい人間ではありません。むしろまったく逆だとお考えいただいた方が良いでしょう。ぼくが恐れるのは偽物の生です。ぼくにとっての悪とは本当の生を腐食させるあらゆる偽物のことであり、それを認めてしまったら、人間、もう後は生きたまま死ぬだけになります。それは絶対に嫌なのです。そして”Into The Wild”にはぼくの敵たる「偽物」の匂いが芬々としている。だからぼくはぼくに対して、それを告発しなければならない。
と言いつつなかなか本題に入らないのですが、映画だけでなくて、試写会全体もひどかった。最初に配給会社の宣伝部か何かの担当者が出てきて能書きを垂れたのですが、サイトでこの映画の広告をしているから見てくださいと言うのです。それだけなら、ああそうですか、という話ですが、何かですね、繰り返し繰り返し「このサイトには著名人の方々も参加して云々」と言う。その俗悪さたるや! だいたい「著名人」って何ですか? ぼくらは名もなき衆愚ですか。そりゃ結構。けれどもですね、あの、人を見下したような、私はセンスがある! みたいな虚飾の自信に溢れた宣伝担当者を見ていると、とても悲しくなってくるんです。「著名人」ねえ……。それからしばらく、相棒とぼくの間では「チョメイジーン!」というのが流行っていました。
そしてもうひとつ、ラウンジで登山靴を展示していたんです。何だろうと思っていたのですが、その担当者によればどこかのメーカーとタイアップして、まあ要するに映画を観て”Into The Wild”したくなったらその靴を買え、と。はっきり言えばそういうことです。莫迦らしい! ハイテク登山靴なんて、まさにこの資本主義に塗れた世界の成果として生れたもののひとつな訳ですよね。悪くないですよ? ぼくだって登山靴は好きです。出勤時にまで履いているくらい好きです。でもね、それは決して、”Into The Wild”じゃあないんです。繰り返しますが、悪いことじゃない。むしろぼくらは、そういったもので武装してWildに乗り込んで良いんです。でも、それは自然と自分との一対一の闘いなんかでは決してない。人類の総体が、自然を破壊してきた工業社会の歴史全体を背負った人類の総体が、自然と「一対一で」向かい合っているなどとたわ言を吐く誰かさんの背後に間違いなく存在するんです。それを誤魔化してはいけない。
で、いきなり本題に入るのですが、要するに主人公もそうなんですよ。家族との軋轢に悩んで、大学では南北問題とか人権問題とかを学んで、卒業するときに「本当の自分」「ありのままの自分」を求め、”Wild”に行こうとする。でもそのとき、彼の装備は、何度も言いますが、彼が否定したつもりになっている資本主義経済が生み出した製品なんです。銃とか、服とか、靴とか、あらゆるものが。それはね、全然否定になっていないし、自然との闘いにもなっていない。自分がそういった世界の中にあり、そこから離れがたくあることを認めた上で、初めてぼくらは自然と戦える。もし戦うというのなら、ですけれども。どんな御託を並べたところで、それが分からないなら、そりゃあピクニックですよ。
そして第二に、結局彼は最後、食べられない毒のある豆を間違って食べて死ぬんですけれども(まあこれもですね、自然を甘く見すぎだろうと思うのですが)そのときにですね、心の中で両親と和解するんですよ。ちょっと待てよ! と思うのです。何か最後の章のタイトルは「偉大なる英知」とか何とか、たぶん違うけれどそんな感じでした。おいおい、資本主義を否定して家族を否定して、そのくせ工業製品で武装して”Wild”に行って、そのすぐ入り口で挫折して(彼は結局、最後まで遠くに見える山の麓にすら辿り着きません)、豆食って死んで最後「お父さんお母さん仲良くしたかったです」かよ! それが最後につかんだ偉大な智慧かよ!
ちょっとね、おい、なめるのもいい加減にしろよ、という話ですよ。権威に、親に、社会に唾を吐いたなら、死ぬまで反抗し続けろよ。そうでなきゃ、そんなんただの若気の至りで、大人になってですね、いやああのころは私も若くてねえあっはっはとか、そんな大人になりたいのか。それでいいのか? 恥ずかしくないのか、自分の人生に対して、自分自身に対して? 反抗って、そんな適当なものなんですか?
だからですね、もの凄い保守的なんですよ。結局のところ。最後は家族の愛(笑)かよ、みたいな。あえて不快な言い方をしますけれど。これはね、凄く危険ですよ。第一に、自分というのがここではないどこかにあるという安易な思考。そんなん、「いま、ここ」で戦えないお前の姿が本当のお前の姿な訳です。当たり前ですよ。第二に、「自然の中でたった独り」というこれまた安易な思考。たった独りじゃないっつーの。じゃあお前が履いているその靴を、お前は作れるのか? そして第三に、死ぬ間際に頼るのが結局家族の愛かよ、という安易な思考。もう考えるのが面倒くさいんで「安易な思考」を連発するぼくの方こそ「安易な思考」なんですけれど。戦うことを選んだならね、すべてを殺す覚悟を持たなけりゃならないんですよ。和解するくらいなら、最初から戦うべきではない。何もかもが中途半端。最初から親を許すか、最後まで許さないか、それができて初めて戦ったと言えるんです。いや、ぼくらは大抵、そのどちらもできない。それで良いんです。人間ってそういうものです。けれど、そのときに、その結果をですね、「偉大な智慧」だか何だか、そんなお為ごかしで誤魔化してはいけない。それはぼくらの弱さなんです。戦い辿りついた偉大な結論ではなく、逃げた結果、負けた結果であることを認めるからこそ、ぼくらはそれを智慧と呼べる。
まあとにかく滅茶苦茶でした。何が言いたいのかさっぱり分からない。主人公も、ちょっとそのストーリーで表そうとしているらしい「繊細さ」を表現するにはあまりに鈍い演技だったし。最後、気合で痩せれば良い訳ではない。役者はボクサーではない。断食芸人でもない。
そしてもしあの映画のテーマが馬鹿な若者の過ちを描いたものであるのなら、それこそふざけるな、と思います。最後まで親を許さず、社会のすべてを否定しつつ荒野の中で死んでいくのか、あるいはヘラヘラと笑いながら荒野に行き、ヘラヘラと笑いながら社会に戻ってきて一生を過ごすのか、あるいは最初から荒野になど「逃避」せず、真正面から家族の問題と取っ組み合うのか。そこで初めて、ぼくらは人間の強さ、独りで戦うことの意味、全力で戦った結果その向こうに現れる巨大な悲劇を見ることができる。
とか何とかですね、激怒していたのです。そうしたらタイトルバックで、彼が生前に撮ったポートレートが出てきました。おいおい、お涙頂戴かよ、と思ったのですが、相棒がですね、映画館を出た後でぽつりと、「彼は戻るつもりだったんだよね」と言ったのです。「戻るつもりがない人間なら、写真など撮らない」、と。
そのとき、何か少し、彼に共感できた気がしました。映画は糞です。それは間違いない。けれども……。そう、やはり……、何とも言えないな。ぼくは彼に同情する気は一切ない。けれど同時に、やはり、やはり、帰る気があるのなら、帰させてやりたかったなあ、と思うのです。
正しいとか戦うとか、そんなん、普通の人間にはどうでも良いんです。生きて帰って、たまに楽しいことがある。まあでも、だいたいはくだらなくつまらない、何も起きない日常生活。そんな人生で良いんだともっと早くに気づけば良かったのに。そう思うのです。戦いっていうのは、結構、そんな日常生活そのものにある。分不相応な背伸びをしなくたって良いんです。そのままで、この場所で、いやこの場にこそ、世界でいちばんハードな戦いがある。
もっと早く彼がそれに気づいていればと、そんなことを思いました。