紳士教育

昼に相棒と落ち合って、大学近くの喫茶店へ行く。値段や味はともかく、眺めは良かった。帰りに大学の周りを少し散歩。馬術部の女の子が馬に乗っていて、隣ではヤギが何やら互いに話し合うように頭を寄せ合っていた。別れた後、しばらく自分の院生室で勉強をして、夕方、相棒の院生室にお邪魔してお茶を飲んだ。
昔ぼくは、バイクに乗って世界を旅するフィールドワーカーになりたかった(別にモーターサイクル・ダイアリーズの影響を受けたわけではない)。いま、何故か日本の大学の院生室の片隅で、机に向かって本を読んでいる。いまだに免許は持っていない。けれども、きょう、本を読みながらノートをとっていて、それはそれで、十分ぼくは幸せだった。

という訳で、何か明るい話を書きます。

子供の頃、ぼくはとにかくよく転ぶ子供でした。どたばた走り回っては、しばしば階段から転げ落ちるのです。小学校に上がるまでは平屋暮らしだったので、自宅の階段を転がり落ちることはなかったのですが、すぐ近くの団地に母方の祖母が住んでおり、お祖母さん子だったぼくはしばしばそこへ遊びに行きました。で、何しろ古い団地ですから、階段はいつも湿ったコンクリートの匂いがしているような感じで、ぼくはそこをしょっちゅう転がり落ちました。いまの場所に引っ越してからは、家が二階建てになりましたので、もう思う存分自宅で階段から転がり落ちることができる。

いやもちろん、落ちたくて落ちるわけではありません。不注意な上に、成長期には良くあることらしいですが、足の長さが左右で違うということもあったようです。しかし幸いにして身体が柔らかかったのと、子供の頃は背が低かったのと、あと何しろ頭が硬かった。パキケファロサウルス並に硬い。いやさすがにこれは嘘だけれど。

で、さすがに両親が見かねて、もっと静かに慎重に歩きなさいとぼくに言いました。紳士たるもの、どたばた足音を立てて歩くなど論外である、と。ぼくはとても素直な子供だったので、なるほど、足音を立てずに歩かなくてはいけないのか、と思い、それからはもうあれですよ、ロッキー(第一作)のトレーニングシーンを思い浮かべてください、あんな感じでですね、いかに静かに歩くかの特訓をするわけです。お肉屋さんで肉をパンチしたりして。あれ商品買わされるお客さんからしたら困った話ですよね。それとも逆に肉が柔らかくなって好評なのかな。もしかしてあれ、肉を柔らかくするバイトだったのかな。もうストーリなんて全然覚えていないや。まあともかく、そんなこんなの血の滲むような努力の結果、ぼくはついに足音をほとんど立てずに歩けるようになったのです。あれ、紳士を目指していたはずが、日常が忍者! みたいに。

ぼくは誰かと歩くときは右斜め後に位置するのが好きでして、これだと相手からはぼくを直接視認できない。しかも足音を殺しているので、ちょっとあれですね、想像すると結構不気味かもしれない。そういえば大学時代、ぼくは人形劇のサークルに入っていて、まあそこは女の子が多かったんですけれど、そのうちの一人とサークル棟の中を歩いているときに、「cloud_leafくんと歩いていると、居るのか居ないのか分からない」と言われたことがあります。何故かそのことをいまでもはっきり覚えているのですが、考えてみるとこれ、その後に「正直言ってcloud_leafくんってちょっと不気味!」とか、きっと彼女の心の中ではそんな台詞が続いていたに違いない。凄いよ父さん、紳士って不気味な存在だったんだね! この年になってようやく分かったよ。

けれども、恐ろしいことに、いまぼくは、足音を立てて歩くことができないのです。そりゃもちろん、一歩一歩意識して、四股でも踏むようにどすんどすん歩けばできますよ。でもそれじゃあ不気味を通り越して変な人です。

いちばん困るのが、夜道で少し前を女性が歩いているときとかです。いまのぼくは身長が伸びてしまい、また歩く速度も速いので、大抵の人が歩いているのを追い越してしまうことになります。想像してみてください、暗い道を歩いていると、後から足音も立てずに一人の紳士が迫ってくるのです。これは怖い。かと言ってですね、追いついたりしないようにゆっくり歩くと、これはこれでまた怖い。相当にふらーりふらりと歩く感じにしないと追いついていしまいますから、もの凄くふらーりふらーりとしなくてはならない。別に酔っ払っている訳ではないのですがひどい文章ですね。

相手がぼくに気づけば(当然ぼくも、完全に無音で移動しているのではありませんから)、足を速めて距離を取ろうとします。けれど生半可な早足では、ぼくは追いついてしまう。逆に気づかれないと、ある瞬間、突然黒い影が、すっと自分の隣を通り過ぎていくことになる。相手がぎょっとするのが良く分かります。ちょっとですね、気分はフランケンシュタインですよ。ぼくはただ普通に道を歩きたいだけなのです。でもみんな怯える。もういっそのこと、拍子木持って火の用心火の用心絶叫しながら家に帰ろうかな。

だから皆さんもですね、もしお子さんを育てることがありましたら、あまり極端に紳士教育をしない方がよろしい。ぼくみたいに訳の分からない生き物が育ってしまいますからね。

よし、今日は明るい話を書いたぞ! 書いた、ぞ……?

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