まわりを見てみると、これは良いことなのかといわれれば絶対に良くないことなのですが、やはり博論なんてものを書いていると、だいたい誰もが身体を壊すか精神の調子を崩すかその両方になります。そんな価値があるんでしょうか。あるはずもないのですが、まあぼくらの人生にあるものなんて、だいたいにおいて、価値のないものです。
ともかく、ぼくも博論のときに仕事や家のことや研究のことでいい加減限界を超え、突発性の難聴になりました。それはそれでどうということもないのですが、いま、やはりそれが慢性化してしまい、ひとと話すときはちょっと困ります。けれども、彼女の声だけは耳を近づければちゃんと聴こえますし、あとの音はオプションのようなものではあるのです。人生、彼女以外のことはぜんぶオプションですので、別段、他の音はどうしても聴きたいということもありません。それに不思議と、自然がたてる音は聴こえてきます。
きょうはめずらしく、仕事を片づけながら、一日音楽を聴いていました。無駄に高いヘッドフォンをつけ、ぽちぽちとメールを打ちながら、右下の音量アイコンをクリックし、少しばかり音量を上げます。ノイズキャンセラーを通り抜けて、世間様のうるさいノイズが届きます。またもう少し音量を上げます。またもう少し音量を上げます。そうして、またもう少し音量を上げます。
畳に幽かな振動が伝わり、障子の向こうに小さな影が一瞬、横切ります。ヘッドフォンを外し、そっと障子を空けると、アマガエルが縁側にいたりします。
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夜、道を歩いていると、潰されたカエルのそばに、別のカエルがじっとしています。翌朝同じ道を通り会社へ行くとき、そこには早くも干からびかけたカエルの死骸だけが残されています。
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これだけ無駄な時間を投下しつつ、アカデミックな言説というものが、やはりどうしても好きになれません。その言説が持つ暴力性がなどといいつつ、いまだにそこにしがみついているぼくもまた糞野郎であることは確かなのですが、理屈ではなくそこにある暴力性をただ純粋に暴力として感じてもらえることは、まずありません。それは残念なことではなく、むしろこの世界なりこの社会なりが正常であることの現れなのでしょう。けれども、それでもなお、ぼくはやはり、「暴力だけれど、でも」、というときの「でも」が嫌なのです。それは、ただ暴力でしかありません。ただ、暴力でしかありません。
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彼女が果物を食べたいというので、何年かぶりに枇杷を買ってきました。どうして枇杷なの、と訊ねられ、種を庭に植えたら枇杷の食べ放題じゃない、と答えます。うちの庭ではちょっと無理かな、といわれ、それは残念、とぼくは答えます。