いろいろ、書きたいと思っていたことがあったように思います。けれども、すべてあっという間に消えていってしまいます。まあ、それはそれで良いでしょう。いま手のなかに残っているものだけで、いつだって十分です。もしそこに幾つかの砂粒と砕けた枯葉しかないのであれば、要するに、それがそのひとの人生だったというだけのことです。
数日間、学会でとある街に行っていました。学会というのは、いつだって憂鬱になるものです。研究者を名乗る人びとの歪さ。ぼくは記憶力が悪いのですぐに忘れてしまうのですが、毎回、研究発表をするたびに、徹底的に落ち込みます。ああ、こんな連中相手にいくら話したって無駄なのに、俺の短い人生の一部をなぜまた浪費したんだ、と思います。今回は特に落ち込みが酷く、懇親会の間(本当はスタッフなので出なければならないのでしょうが)、外に出て彼女に電話をし、1時間くらいどうということのない話をしていました。
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初日、会場準備を終えてチェックインをすると、部屋の中にエロ本が落ちていました。ぼくは、ある面では極めてタフな人間なのですが、こういう、どうということのないはずのところで、自分でもいやになるくらい脆弱です。それをティッシュでつまんでゴミ箱に突込み、何だか死にたいなあと3音階で歌いながら、ぽちぽち、明日の発表で使っても使わなくても良いようなPowerPointの資料を作っていました。それでも、学会スタッフの同僚として同じホテルに宿泊をしていた女性が、あまりのぼくの情けなさに業を煮やしたのかもしれません。フロントにクレームをつけてくれて、ぼくの部屋を換えてくれました。生きるというのは、ほんとうに大変なことです。
同じようにどうしようもない話なのですが、初日に新幹線を降りたとき、間違えて帰りの切符を自動改札に入れて出てきてしまったのです。気づいたのは夜になってからなので、ぼくはもう諦めました。だいたい、駅員さんに話をして嫌な顔をされてなどという思いをするくらいなら、何千円かの損失を引き受けて、しばらく昼食を抜かしたほうがましだと思うのです。けれども、これもまた、別の学会スタッフの同僚がぼくから(改札を出るときに使わなかった)行きの切符を奪い去ると、ささっと面倒くさい交渉をして、帰りのチケットと交換してくれました。まったく、生きるというのは、ほんとうにほんとうに大変なことです。
彼ら/彼女らは、いったいどこでそういったタフさを身につけたのでしょうか。無論、日常生活のなかででしょう。だとすれば、ぼくがいま送っているこの日々は、いったい何なのでしょうか。
昨日は大会の後始末で一日潰れ、まだ1/5も片付いてはいないのですが、きょうは月曜日に締め切りの公募書類を書いていました。3時までに郵便局へ行かなければならないのですが、1時半には封筒に封をし、ぼさぼさの寝癖のままに出発です。地元の郵便局ですから、これだけ時間があれば余裕だろうと思っていたのですが、例によって道に迷い、ほとんどぎりぎりで窓口に辿りつきました。
帰り道、どうせならひさしぶりに本格的に道に迷ってやろうと思い、知らない方角へ歩きだしてみました。どこへ行こうということがないのであれば、自分の見たいものに自由に目をやることができます。道路はあるのに、道路の上を歩いているのに、どこにも辿りつけないというのは、何だか不思議なことです。日常生活を送る人びとをぼんやりと眺めつつ、そんなことを思っていました。