真夜中の郵便ポストに投函するきみの悪夢

もうすぐ学会発表なのですが、何も準備が進んでいません。あいかわらず、他人様の仕事ばかり片づけています。それでも、時間を縫って、相棒と温泉に行ってきました。なんだ、そんなことをする時間があるんじゃない、などと思われるかもしれませんが、まともな仕事を持ってまともな家族を持って「愛」なんてものを信じちゃったりしているような連中にとやかく言われる筋合いはありません。警告文ばかりの人生にもうんざりしてきたので、温泉に行ってきたのです。

ホテルでは、何をするでもなくぼんやりしていました。ふたりとも、道に迷った宿泊客にホテルのスタッフと間違えられて案内を迫られたほど地味地味した格好でしたが、そんなふうな地味地味具合が、ぼくらにとっては居心地が良いのです。少しばかり寂れた温泉街で、地味地味過ごして、干物を買って帰りました。

くだらない学会仕事を片づけ、片づけ、片づけ、少し疲れると、おもむろに家のことを片づけたりします。amazonでまとめ買いした防犯センサーを窓にペタペタくっつけたりします。切れかけていた門燈を交換しようとふたを開け、中に降り積もった得体のしれない塵や蜘蛛の巣をひぃひぃ泣きながら掃除したりします。役所から届いている諸々の書類は見なかったことにして、そっと、三文小説の下に押し込んでおいたりします。

何が日常で何が非日常なのか。何が生活で何がウルトラなのか。どうにも、よく分からなくなります。

いつも通り、眠ると、悪夢を見ます。けれども、ここ最近は、見る悪夢の系統が少し変わってきたように感じます。とてもシンプルに、平凡な幽霊がでてくることが多いのです。昨晩も、ぼくはいかにもな幽霊に抱きしめられ、しばらくゆさゆさされていました。幽霊など、夢のなかでさえ恐ろしくはないのですが、それでも、良い気持ちで目が覚めるというわけでもありません。中途半端な時間に目覚め、もういちど眠るほどの眠気ももはやなく、かといって起きだす気力もなく、ぼんやり、暗闇のなかで耳を澄ませています。

彼女の半径3m以内にいるときは、普通に生きて普通に死ぬことの「普通」を、ぼくは普通に理解できています。それはとても単純で、間違いようのないものです。夜中に独りで目が覚め、まだ空中に留まる悪夢を眺めながら洞除脈がまずい水準に来ているのを感じ、それでも、やっぱり生と死は自然なものとしてぼくの内に在るように思います。

けれども、他人様と有用性のなかで話をしているとき。社会とやらをスキルによって泳いでいるとき。ぼくは突然、在ることへの直観と確信を失ってしまうのです。

コメントを残す