仕事は仕事でまったく問題が山積みで、家に帰れば家に帰ったで学会のメールをあちこちにばらまかなければなりません。きょうはもう19通のメールを書いて送って、さすがに疲れて、でも人びとからはクラウドリーフくんのメールは丁寧すぎるんだよもっと適当にぱぱっと書いちゃえばいいんだよ、そんなこんなであの件もすぐメールしておいてなどと言われ、まあそれはそれで正論なのですが、正論ってたいていの場合無意味なのよね、とも思うのです。
学会発表の原稿も書かなくてはなりませんし公募書類も書かなくてはなりませんし役所にもいかなければそろそろ国民としてアウトのラインを遙かに超えてしまっていますし病院にも行かなければなりませんしけれども保険証がそろそろ期限切れだった気もしますしどのみちそれらすべてをやったところで将来なんて何もなくて真暗すぎておまけに雨まで降りだして、もうそろそろ発狂しそうなのですが、でも、大丈夫です。何故大丈夫なのでしょうか。まだ「明るい話しか書いちゃだめ」キャンペーン中だからです。明るい話を書きましょう。
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先日は小さな研究会で少しだけお話をしてきました。内容はまあともかくとして、来月の学会で使おうと思っているビデオカメラの試行をしたかったので、自分が喋っているのを撮ったのです。人格的にも能力的にも問題だらけのクラウドリーフさんですが、けれど、不思議と声だけは褒められることがあります。学生さんたちはとてもよく眠るので、単にα波的な意味で良い声ということなのかもしれませんが、元人形劇部員としては、声を褒められるのは、実はとても嬉しいことだったりするのです。しかし、録画した自分の喋っている声を聴くと、これがどうも好きになれません。何だか嘘っぽいし浅い。いや本音を言うと、人間のふりをした何かが、データベースから作られた「良いひと」の雛形を利用して、自分でも意味の分かっていない言葉を音として発しているような、そんな薄気味の悪さがあります。
ともかく、けれども、そんなぼくでも自分の声が悪くはないと思えるときもあって、以前に時折、架空の放送をするみたいな遊びを彼女とふたりでやっていました。暗いなか布団に潜って、互いをただひとりのリスナーとして、好き勝手なことを話すのです。そういったときの自分の声というのは、録音されたものを後から聴いても、薄気味悪さはありません。それどころか、何となく前世の自分を眺めているような、少し寂しい微笑ましささえ感じます。
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昨日、少し遠い駅から歩いて帰ったのですが、ある地点でふと唐突に天啓のように、よし、ここから600歩だ、と思ったのです。意味が分からないままそれでも素直に数以外は何も考えずてくてく歩き、600歩目でちょうどぼくの住んでいる地域で最も標高の高い交叉点が赤信号でぼくは立ち止まりました。空は曇って星も見えません。淀んだ空気の向こうに薄汚い街灯りが見えるだけですが、それでも妙に気分が良く、その600歩丁度のくだらない奇跡の喜びを、 曇った空にむかってゆんゆん飛ばしました。
600歩を歩き終え、信号が青に変われば、あとはもう自分の家に向かって下っていくだけです。暗い道を歩いていると、ほんとうはそこにはないさまざまなものが見えてきます。ほらあの家の2階の壁に3mはある巨大な甲虫が張りついています。ほらあの家の少し開いた扉からは縦に並んだ眼を見開いた老婆の視線がぼくをずっと追尾しています。竹藪の奥では夜よりも暗い何かが素早く異様な踊りを踊っています。そんなものどもを横目に眺めつつ、「ほんとう/そこ/ない」という言葉の奇妙さについて考えたりしています。薄気味の悪い世界にはリアリティがあるのに、薄気味の悪いぼくの存在にはリアリティがないのはどうしてだろうなどとも考えたりしています。とにもかくにも、てくてくてくてく歩いていくのは、それだけで十分に気分の良いものです。
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そんなことを書いているうちにも、何だか無礼なメールが届いてきたりします。それでも、お返事ありがとうございますご迷惑をおかけして申し訳ございませんなどと、即座にお返事を書いたりもします。どんどんどんどん、ぼく本来の薄気味悪さとは別の薄気味悪さが、ぼくのなかに降り積もっていきます。
明るい話を書きたいな、と思ったのです。莫迦莫迦しいほど明るい話。でも、現実のほうが遙かに想像を超えて莫迦げていて、どうにも、困惑ばかりしています。