いつかきみの乗る舟

まだ誰も乗っていない始発電車。薄暗い窓ガラスに荒んだ顔をした男が映っている。何かを諦めたような、すべてを見下したような、自らを嘲笑しているような目つき。きみは自分の顔から目を逸らす。眺めていて楽しいものではない。もっとも、眺めていて楽しいものなど、既にはるか以前からきみは失ってしまっていたけれど。

日が昇るにつれ、外は徐々に明るくなっていく。もう、窓ガラスに自分の顔は映らない。きみは少しだけほっとして顔を上げる。窓の向こうに流れる景色は、いつしか郊外のものへと移り変わっていく。ごとん、ごとん、と電車はやけに静かに走り続ける。車両に人影はわずかしかなく、どこか霞んで見える。誰も居ないホームに立ち電車を待っていたのはほんの今朝方のことだったような気もするし、何年も昔のことのようにも思える。どのみち、きみをあの世界に繋ぎとめていたすべてをぼんやりとしか思い出せないきみには、何の関係もないことなのかもしれなかった。――つまりこれは……。きみは呟くが、別にその後に続けたい言葉があったわけではない。空腹も眠気も感じないまま、やがて夜が訪れ、再び朝がくる。電車は静かに走り続け、きみは座り続ける。

けれども、やがて電車はとある駅へと到着した。くぐもったアナウンスに耳を澄ませれば、どうやらここが終点らしい。晴れわたっているのに妙に寒々しいホームへときみは降り立つ。駅には改札もなく、ホームの反対側には手すりがあり、その向うの眼下には真青な海が拡がっている。狭く急な階段が海へと続き、他の乗客たちは声もなく並び海へと向かって下りていく。古びて罅の入ったコンクリートを踏みしめ、きみも彼らのあとについていった。

覆うように茂った木々の下を歩き続け、やがて階段を下り切れば、そこはもう突然に砂浜だ。海風は強く、けれども波は穏やかに寄せている。幾艘かの小舟が沖に向かって進んでいくのに気づき、ふと周りを見回せば、さっきまではいたはずの乗客たちはもう誰もいない。波打ち際には一艘の舟が残されており、老人がその傍らに佇んでいた。――あんたも乗るのかい。どこかで見たような気がするその老人をぼんやりと眺めつつ、きみは答える。――どうしようかな……。この舟、どこに行くんですか。老人は苦笑したようだった。――そんなもの、私が知るはずがないだろう。そうして、あんたが知らないはずがないだろう。そんなものなのかもしれないな、ときみは思う。そしてふいに、自分でも思いがけず笑みを浮かべる。――どうした、何か愉快なことでもあったのかね。特に興味もなさそうに訊ねる老人にきみは言った。――いえ、たいしたことでもないんですが……。ぼくはね、子供のころ、船乗りになるのが夢だったんですよ。父がそうだったからっていうだけの、単純な話ですけどね。船乗りになって世界中を旅したかった。結局、そんなものは夢でしかなかったけれど……。嘘みたいな話ですけど、世界中を旅した船乗りの息子がこの国を一歩も出たことがないんです。でもこんなときになって思いがけず舟に乗れて、海の向こうの向こうのもっと向こうにまで行けることになるなんてね。それが少し可笑しくて……。よくよく考えてみれば、可笑しくも何ともないのだが、きみは気が抜けたように俯き、ふふふ、と息を漏らすように笑う。

――むかつくな、あんた、凄えむかつく。突然、押さえてはいるが激しい怒気をこめた言葉を叩きつけられ、きみははっと顔を上げる。そこには先ほどまでいた老人の姿は見えず、少年がひとり、きみを鋭く睨みつけていた。――この舟にあんたは乗せてやらないよ。これは俺の舟だ。昔の夢だ? 莫迦らしい。腐ったやつには腐ったやつにふさわしい行き場があるんだ。さっさと失せろ。その小さな子どもにきみが反論できなかったのは、その子の声にこめられていた蔑みのせいではなかった。そうではなく、そこに隠しようもなく滲みでてしまっていた鋭い悲しみが、きみを黙らせたのだ。――この舟は、楽になりたい、いまから逃げたいなんて思っているやつが乗れるような舟じゃないんだ。どうしても乗りたければ、もう一度、初めから自分で作り直せ。

急に強い風が吹き、潮が強くきみの顔を打つ。思わず両腕で顔を守り、ふと我に返れば、きみは再び電車のなかにいた。正面の薄暗い窓ガラスには、荒んだ顔をした男の顔が映っている。よく知っているその顔には、けれどもいまはただ困惑だけが貼りついている。走行音はうるさく、さらにそれを圧するほどの音量で、車掌が次の停車駅を告げていた。きみの降りる駅だった。

きみはもう誰も居ない駅に降り立つ。どうやら終電だったようだ。眠そうな顔をした駅員の脇を通り、きみは駅の外へと出る。風は冷たく、町は既に眠りに沈んでいる。

――いつかさ、ぼくも自分の船に乗って、父さんみたいに世界中を冒険して周るんだ。記憶の底で、まだ幼いころのきみが楽しそうに話しているのが聴こえる。――ぼくだけの船で、ぼくだけの旅! あ、でも父さんは乗せてあげよう。記憶ではないどこからか、もう誰のものか思い出せない、けれども懐かしい誰かの声が聴こえる。――そうか、それは楽しみだな。そんな日が来るといいな。――絶対来るに決まっているよ。じゃあ、約束しようよ! むきになった子どもの声と、誰かの暖かい笑い声。

暗い道で立ち止まり、きみは呟く。――そんな日が来ると、いいな。

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