この3月で、いままで在籍していた大学から席がなくなります。ここ最近は学会の雑務を片づけつつ、大学に寄っては少しずつ荷物を整理していました。たった4年間(博士号を取ったあとも1年間は席を残しておいたので)しか居ませんでしたし、もともとぼくは大学で研究するというタイプではないので、片づけるといっても、それほど荷物があるわけでもありません。幾冊かの本を相棒の家に移動し、だいたい、それでお終いです。場所に居つく性質ではないので、別段、何の未練もありません。むしろ最近は夾雑物ばかり増えているように感じていたので、この辺でいったんリセットしてしまう方が良いのです。もともと、ぼくはこの研究室では外様でしたので、そろそろ、本来の立ち位置に戻ろうと思います。
いま、一本論文を書いています。はじめは情報倫理について書こうと思っていたのですが、書いているうちにメディア論寄りになってきました。昨年講義をしながら考えていたことを、少しずつ論文という形に置き換えているところです。基本的な主張は極めて単純で、メディアというものが身体性を捨象するという言説は虚構であり、かつ/それ故他者への責任=倫理の放棄に過ぎないということです。ぼくのやっているようなジャンルにおいて、これは老若を問わず、マシン(そしてマシンによって媒介される労働)に対する嫌悪感、拒絶反応というのはなかなかに凄まじいものがあります。だけれどもこれは本当にナンセンスな話で、そういうことを語る大半のひとが、そもそも企業での労働経験を持っていないし、マシンといえばせいぜいパソコンでメールのやりとりをしたりインターネットをしたりTwitterで呟いたりWordで論文を書いたり、要するにそんなものなのです。その程度で情報化社会が人間性を云々、と言われても、ぼくはそこに説得力が生じるのかどうか、ちょっと疑問に感じます。
もちろん、そんなことを言い始めたら、死刑反対は死刑囚でなければリアルに語れないのかとか、そういうことになりかねません。それに何より、ぼく自身、農業の経験もないのに博士(農学)を持っているし、この1年はエッセイなり科研費論文なりで農業について書いたりしてしまっている。これはもう本当にどうしようもない感じです。読み返す気にもならないような、表層的で無内容なものばかり書いてきました。もちろん、何について書くかとか、どのように書くかということに対して、ぼくらは選べるほど強い立場にあるわけではない。機会を与えられたのであれば、それがどんなに自分にとって興味のないものであったとしても、あるいは書くだけの知識や能力がなかったとしても、なりふりかまわず書かなければなりません。それはまったく恥じることではないし、むしろそこで選好みをする方が、よほど恥ずべきことだとぼくは思います。
ただ、やはりそれは苦しいものですし、つまらないことですし、誇れないことです。博士の1年目と2年目に書いた論文は、読み返しはしませんが、いまでもある程度は評価できるものだと思っています。それは(いまになって振り返れば)コミュニケーションが本質的に持つ暴力性について語ったものでした。たとえ論文としてのできが拙いものであったとしても、それはたいした問題ではありません。書かなければならないことを1/10でも書くことができたのであれば、それは十分意味のあることです。
いま、メディアについてなぜこんな必死になって(実際、必死なもので、ぼくの発表などちょっとどうかしているのではないかという気が薄々はしているのですが)書いているのかというと、やはりそれは、電子的なメディアを介してであっても、現にこのぼくが、恐怖を感じ、この身体が痛むのを感じているからです。画面を超えて迫ってくる他者への責任=倫理、それは、その痛みによって根拠づけられます。それは決してナイーヴな話ではありません。ただどうしようもないこととしてぼくらがそうで在るというだけのことです。
相棒と帰るとき――そういえば、彼女と再び一緒の大学にでも行くかと思ってここの博士課程に来たのですが、それももうそろそろお終いというのは、少しばかり寂しいことです――とある公園を抜けて行きます。毎年この時期になると、公園の池にかえるたちがわらわら集まってきます。ぼくらはかえるたちを踏んでしまわないように慎重に池に近づき、くんずほぐれつしているかえるたちをしばらくこっそり観察します。みなさんも、もし近くにそのような場所があったら、せめてこの時期だけでも、特に夜は、ぜひ足下に注意をしてあげてください。偽善、といえばその通り。だけれども、ぼくはその偽善がとても大事だと思います。「敢えて」何々をする必要があるのかどうか。動物の権利とか何とか、そういったことを考えるとき、ぼくはそこに注目します。極論というのは議論の枠組全体を明らかにしてくれることもしばしばありますが、敢えてする必要がないことはしないという常識的判断もまた、同じくらいに必要です。たしかにぼくもまた大量の生命を犠牲にして生きているけれど、だからといって、敢えてかえるが居ると分かっている道を無神経に歩いて、自転車に乗って、かえるを踏んでしまう理由などまったくありません。偽善と思うのならそれでけっこう。
研究の話からずれてしまったのでしょうか。いいえ、そうではありません。農業とか労働とか、正直なところ、そういったものごとについて書けと言われて書いたものは、ほんとうに下らないものばかりでした。無論、いまでもさまざまな制約はあります。けれどもそれはいつだってあって当然のものですし、あるからこそ、書きたいこととの摩擦によって、書かれるものが磨かれていくということもまた確かです。だけれど、それが制約ではなく、与えられたテーマでしかなかったのなら、やはりそこからは書くべき論文は生まれそうにありません。メディアについて書いていて楽しいのは――無論それは、面白い、ということだけではなく、書くべきことを書いているということへの魂の感じる喜びです――それがぼくにとって見えている世界を描いているからです。
でも、もともとぼくがコミュニケーションについて書こうとしていたのは、聴こえない声を聴かなければならないし、そうして確かにそれは聴こえるのだ、ということでした。そのコミュニケーションの相手は、誰にも看取られずに死んでいった無数の死者たちであり、画面の向こうの誰かさんたちであり、そして声もなく踏み潰されていく無数の小さな生き物たちです。前の二つに関しては、兎にも角にも、論文としてまとめ、自分のなかで考えるための出発点は確保しました。だから次は、最後のものについて改めて考えていこうと思います。
もう、研究室はなくなるので、いろいろリセットです。ぼくはもともと、場所に居つく性質ではないので、あとはもう独りで、あるいは相棒とふたりで、本を読み、野原に出て、美術館に行き、そしてたまに非常勤で若い子たちにちょっとどうかしてしまった感じで講義をしつつ、自分なりのかたちで研究をしていこうと思っています。