先日、十数年ぶりに床屋に行ってきました。床屋とか、何だか懐かしい響きですね。すっかり自分で切ることに慣れてしまっていたので、まさか生きているうちにまた床屋に行くことがあるとは思いませんでした。最後に床屋へ行ったとき、まあぼくはコミュニケーションを専門としているだけあってコミュニケーションなんてお手の物なのですが、「どういうふうに切りますか?」「ぁ……ぁ゛の、揃える程度に、短めに切って(あまりたくさんは切らないで)くだしあ」「え、揃える程度なの、短くしちゃうの、どっち!?」「あふっ、みじゅかめに……」というハートフルなやりとりを経て、泣く泣く坊主頭にされて以来、ぼくにはもはや床屋に対する憎悪しかありませんでした。
けれども、今回はきっと大丈夫です。床屋さんへの憎しみだけで生きることに救いはないとぼくは悟ったのです。人間は赦しあわなければならない。そうして、あえて名前は出しませんが、ある低コストの床屋さんへ行って、今度こそ揃える程度に切ってもらえ、ふんふん喜びながら家に戻り、Yシャツを脱いだら首の周りが血まみれになっていました。我ながら痛みに鈍いとは思っていたのですが、これは酷い。きっとバリカンで襟足を刈られたときのことでしょう。やはりぼくは床屋に対する憎しみだけを支えに生きていくしかないようです。
***
そう、ぼくは何を隠そうコミュニケーションが得意です。人と話すのが大好きです。仕事中におなかが痛くなりました。今朝、出勤途中で拾って食べたアレが原因かもしれません。ともかく、ぼくは洋式のトイレでなければ生きていけない。おお、何やら格好良いですね。ハードボイルド。しかしいまぼくが働いている研究開発室には洋式のトイレがありません。だから、敷地内をてくてく歩いて、洋式トイレのある建物まで行かなければならないのです。おなかが痛くて、けれども表情には決して出しません。この弱肉強食の世の中で、弱音など吐いたが最後、周りの連中に殺される。少々被害妄想気味のクラウドリーフさんは、けっこう本気にそう思ったりしています。「がんばれ、ぼくらこそが救援隊だ!」などと、サン・テグジュペリの真似をしつつ、ようやく洋式トイレのある建物に辿りつきました。
すると、何故かトイレの扉の前にはぼくを雇っている会社のお偉いさんが居て、他の社員さんと談笑しています。クラウドリーフさんはにっこり笑って挨拶をすると、そのまま回れ右をして戻っていきます。あまりの苦しさに文章が三人称化していますが、どうして彼はそこでトイレに入らなかったのでしょうか。分かってくれるひとには分かってもらえるでしょう。そしてもしあなたがそうでないのなら、きっとあなたには一生分かってもらえないでしょう。クラウドリーフさんは、フェンスにつかまりつつ、よろぼい歩いていきます。魔の山の最後のように、画面全体がズームアウトしていきます。どこかにある洋式トイレを求めて、いまや蟻のように小さくなったクラウドリーフさんが歩いていきます。
***
そんな彼がなりたかったのは、フィールドワーカーです。これは本当。っていうかここまで書いたこともすべて本当なのですが、ともかく、文明的な生活から離れられず、虫が苦手で(昆虫は大丈夫なのですが)、農学の博士号を持っているにもかかわらず土に触ることさえ苦手な彼が、バイクにまたがって中南米を旅し、ジャングルに分け入って人跡未踏の地で新たな発見をしようなどと考えていたのです。ちなみに彼は免許も持っていません。
土曜日、日曜日、月曜日と、仕事を休んで、延々学会や研究会の雑務を片づけていました。日曜日には街まで出かけ、学会誌をお願いしている出版社の編集者さんと打ち合わせ。相棒以外の女性と二人きりで会話とか、もう「あふっ、みじゅかめに……」としか言いようのない感じです。きょうはきょうで一日研究会のお金の計算と名簿の整理で終わりました。一日正座をしていたので、さすがにちょっと膝が痛みます。世界の片隅で、何やらごそごそやっているうちに、気がつけばフィールドワーカーになる夢なんてどこかへ行ってしまいました。
だけれども、クラウドリーフさんは徹底的に能天気なひとです。研究なんて地味なものかもしれませんが、それでもあるとき、自分でも驚くようなアクロバティックな(だけれどもきっとどこかで必然性を持った)経路を辿って、自分が語れるとは思っていなかったようなことを語れるようになったりします。
心配事も雑事も山積みです。業績をあげるのは大変ですし、そもそもパーマネントな職につける可能性もほとんどありません。それでも、別段悲愴ぶっているわけではなく、そんなわけでは決してなく、他人の論文の誤字脱字をチェックしたり、会員名簿を整理したり予算のつじつまを合わせたり、そんなことをしているときにでも、目の先に映っているのは、ぼくが行って、この目で見なければならない、無数の面白い何かなのです。