ノックをしてくれ、その空に。

ひさしぶりに夜の新宿を歩いた。学会の仕事を終えたあと、何となく同僚と先生を新宿駅まで見送り、自分が乗る駅まで歩いて戻る。どこまで歩くかは決めていない。目立たない容姿、目立たない雰囲気。目立たないというのは簡単で、要は慾を消してしまえばいい。人びとの発する慾はノイズとなって空気中に発せられ、溢れるそのノイズの影に身を隠してしまえば、誰とも衝突せず、誰にも目を向けられないで済む。慾のない人間など、ここでは存在しないのと同じことだからだ。雑踏のなかを言葉でない言葉の切れ端が無数に飛び交う。ラジオのダイヤルをぐるぐるまわしているかのように何かが浮かび上がり、すぐにノイズの海に消えていく。

新宿から四谷に進路をとる。昔、よく歩いた道だ。ぼくの働いていた会社は御苑のすぐ近くにあり、仕事が終わると、数駅離れたところまで歩いて相棒を迎えに行った。彼女と落ち合い、途中で食事をし、どうということのない会話を交わしながら新宿へと散歩をする。駅につくと彼女を見送り、ぼくはまた、いまふたりで歩いた道を戻る。御苑前で丸の内線に乗ることもあったし、四谷三丁目まで歩くこともあったし、あるいはさらにその向う、四谷を越えて半蔵門まで行くこともあった。べつに、たいした距離というわけでもない。幾度となく通ってきた道だから、あらゆるところに、彼女と歩いたときの記憶が残されている。その記憶と対話をしながら歩く。

御苑まで行ってしまえば、もう人はだいぶ減る。右手には暗い御苑。土曜日のこの時間は帰宅する会社員もあまりいない。会社のビルの下まで来て、上を見上げれば、もう電気は消えている。昔、ぼくがまだ会社員だったころ、大晦日も会社にいることが幾度かあった。窓からみる新宿の高層ビル群は、きれいではあったけれど、それはきれいだからこそ汚いものでもあった。汚いからこそ美しいものでもあった。

いかなる意味においても、昔を懐かしむということに対して、ぼくは反吐がでる思いしか抱かない。ぼくの過去が悲惨なものであったということではない。言葉どおりの意味で、過去が幸福に満ちたものであったにせよ苦しみしかなかったにせよ、懐かしむ、ということそれ自体に対する嫌悪感。

過去は懐かしく思うようなものではない。ただ単に、いつまでも、どうしようもく在り続けるものだ。懐かしむ、ということには、距離をとれるという前提がある。距離など、とれるはずもない。それはつねにそこに在る。生きていけば生きていくほど、ぼくらは数え切れないほどの過去を抱え込んでいく。それは静かで澄んだ化石のようなもので、けれどいつでもぼくに何かを語りかけている。人ごみのなかで感じる、彼ら/彼女らの発する慾のノイズとはまったく異なる、絶えることのない透明な対話。

なぜ、失ったもののことばかり考えるのか、といわれた。そういうつもりでもないのだけれど、反論はしなかった。失うということは得ることでもあり、得るということは失うということでもある。ぼくらは、二元化しなければものごとを理解できないと思い込まされているけれど、そんなはずはない。ぼくはぼくとしてここに在るのだし、世界も、歴史もまた、それそのものとしてそこにある。ただ、それだけのことだ。

傍らを、若い男女が通り過ぎていく。一時ノイズが高まり、またすぐに止む。

地元の駅で降り、暗い住宅街を歩いていく。時折、暗がりのなかにひとが立ち、空を見上げている。思いだす、今晩は月蝕だった。若い女の子が、きっと自宅の塀なのだろう、背中をぴったりと寄せ目を空に向けているけれど、ぼくが通り過ぎるまで少しばかり身を固くしているのが分る。ぼくはひっそりと苦笑する。中年の男がふたり、向かい合った家の前に立ち、けれど互いに声を交わすでもなく空を見上げている。ぽつぽつと、そういった人びとがいる。ノイズは聴こえない。

家に降りていく階段のうえで、しばらくぼんやりと空を見上げる。暗闇のなかで、自分が完全に消えるのを待つ。消えることは在ることで、在ることは消えることでもある。

ぼくは、そんなふうに思っている。

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