こう見えてぼくは長生きをする男だ、もちろんクーリングオフだってできる

ほんのしばらく、相棒が動物の世話をすることになった。その生き物はどんぐりや杉の実を食べるかもしれないというので、数日のあいだ、ぼくもどんぐりを探しながら道を歩いていた。ひさしぶりに大学へ寄るとき、途中の道沿いの家で、庭師のお爺さんが剪定をしていた。ぼくはこれはちょうどよいと思い、杉の葉を幾束かもらうことにした。「すみません、ここにある杉の葉、少し分けていただいてもよろしいですか?」「松の葉だな」といわれ、はい、とにこにこしながら貰ったものの、自分の呆け具合に少々不安になった。確かにこれは松の葉で、杉の葉ではない。そもそもぼくは、杉の実がほしかったのではないのか。それがどうして松の葉っぱを抱えて歩いているのか。大学につき、構内で定年退職した老先生にばったりお会いする。「こんにちは!」元気に挨拶するのがぼくの良いところ。老先生は松の葉っぱを振り回しながら歩いているぼくをみて「はっはっは」と笑いながら挨拶を返してくれた。相棒の研究室に寄り、葉っぱを渡す。杉の実が松の葉に変わったところで、いまさら驚くような彼女ではない。まあ入れたら遊び道具にするかも、とフォローしてくれたので、とりあえず渡しておく。その生き物は夜行性なので、ぼくがいるあいだずっと眠っていた。それも先週の話で、彼(彼女?)は無事に怪我も手術してもらい、もと居た山へ相棒によって返されていった。

あるいはこんなこと。こうみえてぼくはかなりのええ格好しいだ。女子大へ行くとき、いつも同じ服ではまずいと思い(無論ちゃんと洗濯はしている。服など持っていないだけだ。自慢にもならないが)、仕事帰りに、乗換駅にできたユニクロなるものに寄り、カーディガンというか何というか、とにかくそんなものを買った。癖毛にちゃんとブラシを通し、洗いたてのワイシャツにほこほこしたカーディガンを羽織ると、あら不思議、驚くほどひとあたりの良さそうなお兄さんのできあがり。と思ってえへんえへんと彼女のところへ行くと、「それ新しく買ったの?」と訊いてくる。「そうそう、ユニクロってところに行って買ったの!」と勇んで報告。いくらかというので3,000円くらいだったと答えると「どうみてもその値段には思えない」という。そうだろうそうだろう、ぼくのように格好良いと、着ている服も何倍にも映えるのであろう、などとは思わない。「1,000円くらいに見える?」と訊けば、「500円くらい」と言われた。言い訳をすれば、ぼくは肩幅だけはあるのだけれど極端になで肩なので、たいていの服はすぐに格好悪く型崩れしてしまい、まるで着古して伸びてしまったようにみえるのだ。説得力のない公式見解。

講義のとき、めずらしく疲れきってしまっていて、思わず座ってしまった。もちろん、しゃがんだということではなく、教壇の椅子に、ちゃんと格好をつけて。少し早めに講義を終わらせてもらって、講師室で休憩。一息入れて大学へ戻り、幾つかの作業をこなす。研究仲間と少し飲んで、家に戻ってから幾冊かの本を読む。

どうということのない日常。けれども、充実した日常。

もう限界のような気もするし、まだまだいくらでもアクセルを踏めるような気もする。ぼくは、言葉で自分を鎧うことに関しては天才的な技能を持っている。天才「的」であって天才ではないところが悲しい話ではあるけれど、所詮は器用さだけが取り得の人間だ。ともかく、ぼくは言葉で自分を鎧う。イメージとしては、何枚もの鉄の板で自分の魂を幾重にも縛りつける。ぎりぎりと締めつける。ぼく自身はたいして強いわけでも頭が良いわけでもないけれど、そうして自己暗示にかけることによって、たいていのことには耐えられるようになる。縛りつけすぎて歪んでしまった鉄の壁のむこうに、いまでもぼくがいるのかどうかは、すでにずっと以前から分らなくなっている。どのみち、それは大した問題ではない。ぼくと呼ばれる何ものかが存在して、そうして、確かに存在している。それ以上の何かに必要は感じていない。必要なのは存在することであって、存在するものではない。

彼女とどんぐりを探していた日の昼、道端にいもむしが転がっていた。ぼくは目が悪いけれど、そういったものは目に留まる。ほらほら、と彼女に教えると、彼女はさっと掬って草叢の奥へそれを放す。同じ日の夜、彼女の家に歩いて行く途中、暗闇の中にうずくまるがまがえるがいる。夜目は利かないけれど何故だかぼくにはそれが見える。彼女にほらほら、と教えると、彼女はさっと掬って草叢の奥へそれを放す。

どうということのない日常。アクセルを踏み続けるけれど、穏やかな日々。天才というものは、驚くべきことだけれど、確かに存在する。だけれども、ある瞬間、何の才能も持たない凡人がその天才に並び立つ。さらにその一歩先へと踏みだす。ぼくはその瞬間があることを知っている。

コメントを残す