二冊目の本を出します。

ありがたいことに、再び単著を出すことができます。哲学思想系の本を出すにはほんとうに良い出版社に企画が通って、といっても編集の方がとても丁寧に粘り強くサポートしてくださったことで可能になったのであってぼくの力ではないのですが、いずれにせよぼくにとっては望外の機会です。まだ具体的なことについては何も書けないのですが、来年の夏には書店に並ぶかなという感じですので、そのときには、もしよろしければぜひ。

今回の企画は前著『メディオーム』の流れを受けてきっかけを得ることができたもので、それもまたほんとうに有難いことです。あ、でも売れ行き的には……なので、臆面もなく広告します。


われわれは既に「ポストヒューマン」の時代を生きている。にもかかわらず、なぜこれほどまでに現代社会に適応できず、存在することの不安に苦しんでいるのだろうか。この問いを考えることにこそ、技術に依存した楽観主義者の夢想でなく、また反技術主義への逃避でもない、「これからの人間」を語る可能性が残されているのだ――。
気鋭の研究者が現代思想やアートを論じつつ、「他者」と「技術」を媒介として「ポストヒューマン」な人間像を探求する《存在論的メディア論》。

版元ドットコムの紹介文より引用


『メディオーム』はどちらかというと暗いトーンがありました。それはぼくが今世紀最大の悲観主義者だからなのですが、でも暗いからこそ最後の文章が美しく輝いている。名著です。え、お客さんこちらの世界に生まれていらしたんですか? じゃあせっかくなので『メディオーム』読んでいってください、この世に生を受けてこれ読まないで帰ったらモグリですよ、みたいな。いや嘘じゃなくて。

けれども今回の本は、いまの感じではちょっと明るいトーンになる予定です。何でだろう。ぼくはもともとじっと自分の頭のなかで膝を抱えたまま滅びてゆく世界について空想するのが好きで、他方で手を動かして何かを作る、というよりも偶発的に何かが生じるのですが、そういったことも好きでした。今回の本は後者のお話で、作るって、やっぱりどこか楽天的な、ある意味無責任な側面があるのだと思います。うーん、微妙な話なのでちょっと誤解を与えてしまうかもしれませんが(創造するということであれば神林長平の『膚の下』という名著があり、とてもお勧めです)。

子どものころ家のすぐ近所に工場があって、その外に大きなゴミ箱みたいなものがありました。といっても当時のぼくは4~5歳で、だから大きく見えていただけかもしれません。ともかくその中には廃棄されたコンデンサとか何かの基板とかが入っていて、ぼくには無論それが何かなんて分からないのですが、でもそれを手にとっては他の何かの部品とくっつけたりして遊んでいました。結局そういう性質は大学に行って人形劇サークルに入った後まで続くのですが、でもこれぜんぶ嘘の記憶かもしれません。ぼく自身にも嘘か本当か分からない。そもそも4歳くらいの子どもってどのくらいの大きさなんでしょう、ゴミバケツを覗けるのかどうか。だいいち、そんな小さな子供が工場の敷地に入れるのかどうか。だからやっぱり全部嘘かもしれない。でもそんなことはどうでもよくて、というよりも手を動かしながらそういった記憶を作っていくのもテーマの一つで、これ、いったい何のお話なのでしょうか。

いずれにせよ、企画さえ通ってしまえばあとは原稿を書くのみです。既にある程度は書けているのですが、まだまだ、大量にインプットして大量にアウトプットしなければなりません。だけれど、どのみちそれはいつもしていることで、そのインプットとアウトプットの大波を常に濾しつづけるぼくという濾過器に残された何かが、本という形になるのかもしれません。

そのインプットは、例えば他の人の論文とか研究書とかを読むというだけではなくて、いま大量に観ているビデオテープの古い映画とか(これはデジタルデータに置き換えるための作業です)、あるいは美術館に行くこととか、家の掃除をすることとか、長時間電車に揺られて職場に行って基板をいじるとか、それらのすべてを含んだものです。

きょうは、だけれども映画ではなくて父が昔々あるTV番組に出ているのを録画したビデオテープを観ました。生前の父が動いて喋っているのを見るのはとても不思議な気持ちです。気軽に多くの物事を動画で記録できるいまの時代なら、珍しくもないのでしょう。でもぼくらの時代だとそうでもなくて、特に職場の姿なんてなかなか見る機会がありません。やいのやいのと、彼女と二人でその番組を見ながら、ノイズが載り始めているそのビデオテープをデジタル化する。これは、そういった物事全体についての本でもあります。

皆様には何を書くのかまったく不明のままかとは思いますが、本当に面白くなる予定ですので、ご期待ください……。