なぜ私たちは殺し合わなければならないのか、ビッグフットはベジタリアンで、それは糞を観察すれば明らかなことなのに。

再び映画の話。ぼくらの世代だと子供のころにTVで映画を観ていたひとも多いと思います。日曜洋画劇場(淀川長治)、水曜ロードショーから金曜ロードショー(水野晴郎)、月曜ロードショー(荻昌弘)、あとは午後のロードショーとかでしょうか。いや例によって番組名とか曜日とかはまったく覚えていないのでwikipediaを見ながら書いているだけなのですが、そこで観た映画はしっかり覚えています。そして解説。ほんとうに映画が好きな人による解説というのは、やっぱり記憶に残ります。ただ自分の知識を誇るみたいな、そういう解説者もどきは好きではないし、というよりも唾棄すべきだし、そもそも耳を素通りするし名前も覚えられません。ぼくにとってはやはりこの三人なのだと感じています。荻昌弘さんの最後の解説というかお別れのセリフは、いまでもはっきり覚えています。映画を愛することであったり、映画を愛することができた人生を愛することであったり、それがないひととは根本的なところで映画の話をしても無意味です。

ちょっと暗くなってしまった。ともかく、そんなぼくでも、子どものころにTVで観た映画、ぼんやりワンシーンだけ覚えていたり、あるいはその映画の雰囲気だけが残っていたりということもけっこうあります。だいたいは本気を出せば思い出せますし、ぼくは洋画が好きなのですが、当時(70年代後半から90年代)わざわざ日本でTV放映した洋画なんて、多くても5000本くらいではないでしょうか。ですから放映リストを見つけてきて総当たりすればいずれはその記憶の断片がどの映画のものだったか分かるはずです。とはいえそれはやはり時間がかかります。つい最近も、ふいにある場面が頭に浮かんできて、これ何の映画だったっけかな……、と、かなり長い間悩みました。で、さすがに総当たりはしませんでしたが何十時間も無駄に時間を費やしようやく判明。分かってみればどうしてこんなに探すのに苦労したのかというくらい分かりやすい映画でした。ぼくの記憶に残っていたのはこのシーン、というよりも主人公のこのメイク。

写真はIMDBより引用(https://www.imdb.com/title/tt0086984/mediaviewer/rm1758318337)

『ボディ・ダブル』、1984年のアメリカ映画で、監督はブライアン・デ・パルマです。『アンタッチャブル』、『カジュアリティーズ』、『カリートの道』、『スネーク・アイズ』、まあどれでも良いですけれども、ブライアン・デ・パルマですよ。なんで忘れていたのか。ちなみに『カジュアリティーズ』はぼくがお勧めする映画のベスト50には絶対に入ります。マイケル・J・フォックスの演技が素晴らしい。この『ボディ・ダブル』はちょっとキワモノっぽい感じがするかもしれませんが、というよりも気軽に人にお勧めする映画ではないのかもしれませんが、そもそもこの映画普通に子どもが観る時間に放映していいのかという気もしますが、でも改めて観ると何とも言えずに不思議な映画です。いやそんなことよりも上の写真のこのメイクとこの表情、いいですね。ぼくのあやふやな記憶に残るだけはある。

『ボディ・ダブル』はある意味出落ち感があるのですが(もちろんそんなことはなくて、ラストシーンはサイコスリラーというジャンルにふさわしいです)、『カジュアリティーズ』はラストシーンのマイケル・J・フォックスの、『スネーク・アイズ』はニコラス・ケイジの、それぞれの表情がほんとうに良いのです。これが演技。そしてその一瞬の演技だけで映画を一気に名画と言えるものに引き上げる力を持っている者がほんとうの役者です。どちらもとてもお勧め。

そんなこんなで、例によってつながっているのかいないのか分からないまま話が進みますが、VHSのデジタルデータ化をしている合間にもアマゾンプライムとかネットフリックスで映画を観ます。ほんとうにこの人研究しているのかな。でもね、研究者と話していると、(1)映画を観ない、(2)自分の研究のために映画を消費しているだけ、(3)知識マウントを取ってくる、などなど、やめてよ~、という人が凄く多くて、やめてよ~、と思ってしまいます。もっとさ、愛をもって語ろうよ。どうせぼくらみんな死ぬんだから。

それで、もう力業で話を進めますが観たのは『ヒトラーを殺し、その後ビッグフットを殺した男』。2018年のアメリカ映画。監督・脚本はロバート・D・クロサイコウスキーという人で、この作品以外はそれほど有名なものはないようです。主人公を演じるのがサム・エリオット。基本、この人の演技だけで成立している映画だと言っても良いでしょう。いえ、映画としての技術的な面は十分ハイレベルです。映像も美しい。でもこれが他の俳優だったら……、たぶんただの駄作になっていたのではないかな……、分かりませんが。

ストーリーは何だか奇妙で、かつてヒトラーを暗殺し、いまはもう老人の主人公が、極めて危険なウィルスを持つビッグフットを殺すために政府の命を受け再び銃を取る……、みたいな内容です。よく分かりませんが、実際に観てもよく分かりません。でもまあ大した問題ではない。主人公はヒトラーを暗殺するという任務のために、人生を壊されてしまっている。本人は自分自身で壊してしまったと思っている。だからいまはただ後悔しかない。作中で描かれる彼が犯した殺人はただヒトラーのみなのですが、それでもその一回によって彼はとことん参ってしまったわけです。ヒトラーの暗殺も結局手遅れで何の意味もなかったし、彼はもうほんとうに殺しは嫌なのです。でもいろいろあってビッグフット殺しを引き受けることになる。

ビッグフットはカナダに居るのですが、そこに行くシーンはかなり違和感があります。SFチックで、これはこの映画の持つ奇妙さとは別のレベルで作品世界から浮いている。でもそこを抜けてしまえばあとは雄大な自然のなかでビッグフットとの闘いになって、それはとてもよく分かる。ビッグフットは(あ、ネタバレ含みますのでご注意ください)すぐに倒されるのですが、そこから粘る。ものすごく汚く(卑怯かつばっちい感じで)粘る。しかも何だか弱いし、ベジタリアンです。けれどもその全体は、サム・エリオットの、もう本当に殺したくないんだよ……、という感情そのものの表現でもある。人類を救うとか言ったって、その現実はこんなもんだというのを、サム・エリオットは知っている。それが本当に悲しいのです。自分は英雄なんかではない。英雄なんてどこにもいない。

で、ビッグフット殺しは別に映画の最後の盛り上がりではなくて、というよりもそもそも盛り上がりなんてない。盛り上がりがないということこそがこの映画の本質です。サム・エリオットが住んでいる町に帰ってきて、そう、それでビッグフット殺しに行く前から、彼がしばしば手に持っては開こうとして結局また閉じてしまう箱があるのです。で、任務に行ったきり帰ってこないので彼はもう死んでしまったものと思って弟(弟を演じるラリー・ミラーもまた良い演技をします)は遺体のないままに兄の葬儀をしてしまい、そこにその箱も埋めてしまう。サム・エリオットはそれを聞いて最初は諦めるのですが、結局夜中に起き出して墓地に行き、墓を掘り起こしてその箱を再び手に取る。そしていよいよそれを開け……ずに、また蓋を閉じてしまう。「またにしよう、明日にでも……」。そして家への帰り道、彼はその人生においてしょっちゅう靴に何かが入ってしまい屈んで靴を脱いでとんとんしてそれを取ろうとするのですが、でもいつも取れない。それが今回もまたが起きるのです。ところがいつも通りとんとんすると靴から何かが落ちて出る……。このシーンが凄く良いんです。結局、彼は最愛の人とはついに結ばれなかったし(それは任務のせいでもあり、彼の性格のせいでもあり、運命のせいでもありだったのですが)、彼が送ってきた人生が何か変わったわけでもない。箱は、ぼくらには最後までそこに何が入っていたか明かされないのですが、やはり彼には開けられない。でも靴に入っていた何かは取れた。人生はハードで、意味は分からないし、それがずっと続く。でも彼は生きることを選んで、そして何かは確かに変わるのです。ほんの少しだけれども。

これ、普通に描いたら、たぶんすごく普通の映画になってしまう。やっぱり、だからビッグフットは必要なのです。そしてビッグフットとの戦いはものすごくみみっちくてばっちくなくてはならない。英雄的であってはならない。それをあり得ないくらいストレートに描いたらこうなってしまったわけです。だからそれは凄く納得ができる。でも、やっぱり何か変だな……、という、ほんとうに不思議で奇妙な映画です。

あとですね、ブロントサウルスのおもちゃとか、ヒトラー暗殺時にサポートしてくれる男が剃刀で主人公の髭を剃るときのやりとりとか、イメージを膨らませる描写が凄くうまいし、数少ない登場人物(犬を含む)はそれぞれ魅力があるし、何より謎が謎のまま残されていくのもとても良い。だって人生なんて謎しか残らないですからね。

というわけで、何とも言えない映画ですが、なかなかにお勧めです。俳優の力というものをひさびさに感じる映画でした。いやあ、映画ってほんとうに。