とあるピアノコンサートに行ってきた。といっても目的は音楽を聴くことではなく、そこである人に会うことだった。コンサートそのものは盛況で、早めに行ったぼくは隅の方に座ったけれど、ほどなく周囲もすべて人で埋まった。ブザーが鳴り、座席側の照明が落とされる。ざわめきが静まる。演奏が始まる。
するとすぐに、ぼくの心はここではないどこかへ漂い始めてしまう。無論、周囲への警戒はつねに怠らないけれど、それはほとんどサブルーチン化されている。おかしな素振をしている人間はいないか、天井に吊られた照明器具は手入れがされていそうかどうか、最短の避難ルートをどうとるか。そういったものごとを半分無意識に判断しつつ、けれど頭の中では、すでに勝手な会話が始まっている。いわゆる独り言とは少し違う。独り言はぼくも言うが、あれはまさに、独りで喋っているだけでしかない。
会話の相手は、ぼくが知らない/知っている/知っていたあらゆる人びとだ。もうこの世界には居ないひともいるし、いつも会っているひともいる。著書を通してしか知らないひとであり、あるいはぼく自身でもある。会話の内容は、研究に関すること。要するに、ぼくが世界をどう見ているかということ。ぼくにとっての研究とはつねに、ぼくが世界をどう見るか、その物語を語り続けるということでもある。
そしてこういうとき、ぼくはいつも、実際に自分がその会話を口に出してしまっているのではないかと不安になる。というと少々語弊があるかもしれない。ぼくは他人にどう思われようと知ったことではないと言い放つ程度には傲岸不遜な人間だ。仮にぼくが異言を語り、おかしな奴だと思われたところで、それがいったい何だというのだろう。所詮、彼ら/彼女らはぼくの人生に何の関わりもない。
けれど、ほんの十数年昔のぼくは、そうではなかった。すぐに自分の想念に囚われ、そこでの妄言を現実の世界に垂れ流しているのではないかということを恐れ、怯えていた。誰もが多かれ少なかれそういった面を持っているのかもしれない。けれど、その恐れを本当に共有できた相手は、極わずかしかいない。
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そのとき、ぼくらは部室にいた。どうしてそんな話になったのかは覚えていないが、ぼくはその子に、ぼくの恐怖心について話した。彼女は目を大きく見開いて頷くと、――そうそう、私もそうなの、すごく怖いよね、と言ってくれた。うまく伝えられないけれど、彼女の仕草にぼくは、確かにその恐れが共有されていることを感じたのだ。そのころのぼくはひどくええかっこしいで、しかもその格好悪さに気づいていないほどに救いがたく格好悪い人間だった。それでも、彼女の、その開け広げな態度に、普段のぼくなら決して言わないような、そのときのぼくだったら格好悪いと思うようなことを素直に言ってしまっていた。――ずっと黙っているとさ、唇が乾いてくっついちゃうよね。つまらない講義を聴き流しながらぼーっと考え事をしていて、ふと我に返って、ああ俺いま考えていたことぜんぶ喋っていたんじゃないかとか思ったときに、乾いた唇がしっかりくっついているのに気づくとさ、すごくほっとするんだ。あ、喋っていなかったんだ、って。そうすると、彼女はまた強く頷き、――そうそう、私もそうなの、と言った。そしてそのすぐ後、ぼくらはほとんど同時にお互いが上唇と下唇を堅く合わせ、おかしな表情をしているのに気づき、思わず笑ってしまった。
たぶん、これを読んでくれたひとは、そんなことは誰だって感じているのだと思うかもしれない。きっとそうなのだとぼくも思う。大した話ではない。けれども、これもまたたぶん、大したことではないと言えることこそが、きっと大したことなのだ。ぼくは根が粗暴で、難しいことは良く分からないし、あまり物事を深く考えることもない。楽しいことも寂しいことも、みなすぐに忘れてしまう。他人にどう思われようと知ったことではない。そうやって、ぼくらは生き延びてきたし、生き延びていく。けれど、あり得たひとつの未来として、頭の中で延々繰り広げられるその会話を止めることができず、それが漏れることへの恐怖心から逃れられないぼく、というのもきっと存在していたのだ。ぼくはたまたま、自分の愚劣さゆえに、そちらへは行かずに済んだだけでしかない。そちらに行った彼女は、いま、ぼくの頭の中の会話相手として、しばしば現れる。現実と呼ばれるこの世界で、その子と話すことは、もう決してできない。
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コンサートの会場で、ふと我に返る。あらゆる音、あらゆる光、あらゆる感触。そういったこの世界の無数の欠片が、あっという間にぼくをノイズのような想念に引きずり込んでいく。ぼくはその渦の中で、かつて知っていた/いまだ見知らぬ大勢の人びとと会話をしていた。
ぼくはそれを、声に出してしまっていただろうか? すっかりふてぶてしくなってしまったぼくは、まあ、もしそうなら、会場の係員がぼくをつまみだすか何かをするだろうなどとぼんやり考える。それでもふいに、ぼくは自分の唇の感触を確かめてみる。考えてみれば、今朝からひとことも発していないぼくの口は、堅く乾き、開こうとすればばりばりと音がしそうですらある。――ま、こんなもんだよね。そうぼくは思う。――そんなものよ、と、頭の中のどこかで、笑みを含んだ彼女の声が答える。