隣に座っていた女子高生たちが、合格発表をどうするか真剣に話していた。電車から降り地下からの階段を上りきると、ビルの合間から見える空が恐ろしいほどに美しかった。そういえばあれはいつのことだったか、昨日かもしれない。まだ日差しが明るいとき、道を歩いていて空を見上げたら、白と青のコントラストが信じられないほど精緻に空に描かれていた。本当に見た光景なのか、その瞬間ですら信じられないほどだった。ぼくらは、もしかしたら眼が可能にしてくれている以上の高解像度で、頭の中に映像を思い浮かべることができるのかもしれない。
けれども、どんなに美しいものでも、ぼくはほんの一瞬しか目を向けない。それは隙だ。ぼくらはつねに、どんな事故に巻きこまれないとも限らない。注意をしていても防げないことはあるけれど、防げることまで防ごうとしないのであれば、それは愚かだ。少なくともぼくは、そう思う。すぐに通りに目を戻し、無表情を装って道を歩く。
用があって、待ち合わせの喫茶店につくまでにある和菓子の店へ寄った。そこで可愛らしく作られた和三盆を買う。包んでもらうあいだ、入れてもらったお茶を飲む。無害で無意味な笑顔を浮かべ続ける。店を出ると、もう、先ほどの奇跡のように美しかった空は消えていた。
喫茶店につき、並んでいると、後ろに立った初老の会社員がぼくを妙にしつこく眺めている。いや、別段妙ではない。むしろ妙なのはぼくの方。何しろジーンズのポケットには穴が開いているし、着ているセーターときたらやはり擦り切れて穴だらけ。靴は履き古した登山靴。年齢も職業も不詳、身なりもぼろぼろというのでは、きっと彼の価値観では、相当に胡乱な人間だということになるのだろう。分らないでもないし、責めるつもりもない。だから薄ら笑いを浮べ、やり過ごす。
ぼくは冬が好きだ。朝、まだ暗いうちに目が覚め、布団から這いだし、着なれたぼろぼろのセーターに身体をもぐりこませる。とても幸福な一瞬。冷たい水で顔を洗い、雨戸を開け、新聞を取りに行き、牛乳を飲みながら見出しと天気予報だけを確認する。鞄に読みかけの論文や参考文献を突っ込み、会社か、あるいは大学へ行く。疲れていると、どちらへ行ったらいいのか、しばしば分らなくなる。けれども、それもまた幸福だ。自分には居場所がないということ。
居場所がないということは、けれど、許されないことでもある。大学に行き直すなんて凄いね、という人びとの目の奥にある侮蔑と嫌悪、困惑と憎悪。ぼくもそれは良く分かる。きょう、注文していた書籍が届いた。幾つかの文献における幾つかの用語の、原語での使われ方を確認するための、ただそれだけのもの。ただそれだけで、ほんの数冊の本だけで、カメラを一台買えるくらいの値段が軽くなくなる。ぼろぼろだけれど、暖かいこのセーターが、ぼくは好きだ。靴を見ればその人間の、などという人間をぼくはひっそりと嫌悪するし、彼らもぼくを嫌悪するだろう。いや、単に無視するだけかもしれない。
空いている喫茶店の片隅に座り、ノートを起動し、ぽちぽちと文字を打ち込んでいく。腐ったような音楽と人びとの声が混じり、ただうわーんというノイズとしてぼくの耳に届く。腐っていると思うものは腐っているというのが信条だけれど、まあ、それはぼく自身が腐っているということを如実に表しているに過ぎないのだろう。それでも、論文を書いていると、ある瞬間、思いもしなかったところで思いもしなかった論理がつながるときがある。無論、そうそうあることではないけれど、それはやはり、研究をする最大の喜びのひとつだろう。
気がつけば、彼女が向かいの席に座っている。篭ったノイズが、再びさまざまな音として認識されるようになる。ぼくはノートを閉じ、彼女とともに席を立つ。外に出て手をつなぐ。見上げれば空はもう暗く、雲は見えない。――セーターが穴だらけだね、と彼女は朗らかに笑い、穴に指を通す。そうだね、と答え、ぼくも笑う。
たぶん、ぼくはとても幸福なのだと思う。