例えば昨晩の夕食は何だったかとか、まあそれはまだしも、いま頭痛薬を飲んで一瞬後にはもう忘れているということってしばしばありますよね。ないかもしれませんが。ぼくは時折自分の記憶力のなさ(もはや悪さでさえない)に自分でびっくりするのですが、びっくりしたことさえ忘れるので、いつも新鮮にびっくりしています。
でもある種のことはよく覚えていて、例えば20年近く前、当時住んでいた地元の駅に本屋さんがあり、仕事帰りにそこで石川九楊氏の『筆触の構造』を手に取ったのです。小さな本屋さんだったのですが、ちくま学芸文庫もしっかりそろっていたんですね。で、ぱらぱら捲っていたら、こんなことが書いてありました(下記に引用しているということは、つまり立ち読みしただけではなくこの後ちゃんと購入したのです)。
パソコンのキイを叩く、あるいはキイに触れることは、書くことと同じように手を使うが、筆記具=尖筆の尖端が紙に触れることによって生じる〈筆触〉が不在である。このため〈筆触〉に導かれている「書くこと」とは完全に切れている。
石川九楊『筆触の構造 書くことの現象学』ちくま学芸文庫、2003、p.60
ぼくは当時まだ生粋の、汚れなき、純粋な瞳をしたプログラマで、この個所がぱっと目に入って激怒したんですね。いまとなってはその感覚そのものは出てこないのですが、要は、筆記具=尖筆が一本一本(たとえ同じメーカーの同じ型番のものであっても)その筆触が異なるように、キーボードだってまた同様に、タッチの感触も音も異なるし、キーに触れるその一瞬というのは不確定で不安で、未知への投企なんじゃ! みたいな感じでした。
でもそのとき、ぼくはまだ、デジタル化されたものとそうでないものの相似と差異に関する感覚が荒くて、確かにそこでは、石川氏が言うように完全なる切断がある。例えば、彫刻と3Dプリンタで印刷された頭部像の相似と差異ですね。ただ『筆触の構造』は(そもそもそれがテーマではないのだから当然で、批判すべき点ではまったくないのですが)デジタルデバイスにも存在する、あるいは存在する可能性のある無限の差異への言及はない。なかったように思います。いやあるのか? というわけで、夜眠れなくなってしまってつらつらと考え事をしていたら、ふいにあのときの本屋で激怒していた自分、その全体を思い出したので、改めてこの本を読もうと思ったのでした。タイトル、とても良いですね。『筆触の構造』。いまの自分ならもう少しちゃんと読めるのではないかと思います。
すべてを一瞬で忘れていく私ですが、不思議なことにどの本をどこで買ったのか、そのときの、自分自身を含めた全体像というのは、何故か忘れずにいます。プルーストにおいて匂いがそうであったように、ぼくの場合は本を買ったときというのが、記憶の再生のキーになっているのかもしれません。
そんなわけで、いやどんなわけかは分かりませんが、その時どきに買った本を並べていくと、星々を線でつないで星座になるようにぼく自身の人生が見えてきます。そしてそれは、語るたびに自分の人生が変わるように、いかようにも描きなおせるものでもあります。今回、人文系出版社として素晴らしい本を出している月曜社さんにお声をかけていただき、hontoのブックツリーという選書紹介を書く機会をいただきました。「断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える」というテーマで(自著を抜かして)4冊紹介しています。もしよろしければご覧ください。あ、4冊だけでは足りなかったのと、あと説明文の文字数がフォーマット上限られていたのとがあり、noteでその周辺も含め書きましたので、併せてお読みいただければ幸いです。
断絶と孤絶の時代に抗して他者について考える(hontoブックツリー)
本の紹介って、本それ自体を書くこととはまた違ったかたちで物語を生み出すことで、それってすごく楽しいことですよね。読んだ本、noteになりますが、また紹介していこうと思います。