Always halfway

同人仲間から同人誌の7号が届きました。今回はちょっと薄めなのですが、それもまた引き締まった感じがして気に入っています。ぼくは論考と小説を載せていますが、論考が素晴らしい(笑)。『神無き世界の名探偵』というのですが、タイトル、良いでせう。自分でも(自分だけは)非常に気に入っています。最近は自分の神学的傾向を隠さなくなってきています。小説の方は『人形のための祈り』。これも傑作です。いや真面目に。

言葉というのは面白いもので、毎回何かを書き終えると、明らかに自分の能力を超えているなあと感じます。もちろん、凡庸が服を着て脱いで歩いているぼくの才能など、たかが知れてはいます。それにしても、あるいはだからこそ、言葉というのは凄いものです。だからいつも、もうこれ以上のものは書けないよなあと思っているのに、それでもまた藻掻いて足掻いて何かを書くと、自分を超えたものになる。それは自分の才能ではなく、言葉の力なんですよね。そしてこれもまた言うまでもなく、それは何かの基準があってそれを超えているとか、あるいは他の誰かと比べて優れているとか、そんな優劣の話ではなく、ぼく自身を超えたものになるというだけのことでしかありません。けれどもそれこそ不思議で、途轍もないことです。そうじゃないでしょうか?

いずれにせよこの同人誌、なかなかレアなので、もし水戸芸術館か茨城県近代美術館に行くことがあれば、ミュージアムショップを覗いてみていただければ幸いです。まだ置いてもらっているのかどうかは分かりませんが……。

仕事はとにかくどたばたしていますが、どうにかやっています。今度は新しい言葉を覚えなければならなくて、あと、これは研究の方ですがヘブライ語もやり直そうと思っているので、なかなか大変です。今年はひさしぶりに依頼論文とか所属している研究所の紀要とかではなく、査読論文を書こうとも思っています。これって要するに何をしているのでしょうか。自分で自分の人生を悩むほどナイーヴではありませんが、他人に説明するのは意外に難儀です。

何で勉強をしているのか、何を勉強しているのかがまったく分からなくなってしまっていちばん最初の大学を中退して、唯一の才能であったプログラミングで食べるようになって、というかそれで食べざるを得なくなって、24時間プログラミングのことばかり考えなければならない状況に数年置かれるなかで――何しろ夢の中でもデバッグしていたのですから――改めて自分が言語そのものに興味があることに気づいて、だったらいっそのこと非常に古い自然言語から学んでみようと思ってとある大学の神学科に入って……、いまでは環境哲学/メディア論研究者を名乗っていますが、自分のなかではここに至るまでのはっきりとした道筋があります。でも、ヘブライ語を学ぶことと環境問題について考えること、道端で干からびたミミズに神を見ることと現代メディア技術について考えること、何がどうつながっているのかって、なかなか伝わらないと思います。それに、結局すべてが中途半端だと言われれば、それはそうかもしれません。

だけれども、中途半端って、悪いことではないと思うのです。自分が進んできた道と先行きは自分にさえ見えていれば良くて、論文やら何やらは、ある意味においてその途上にある自分自身の心象風景をスケッチした旅行記のようなものです。ぼくの見ているものが漠然とでも伝わり、面白いと思ってもらえれば、それで十分です。それに、これだけ分断と憎悪が激化している時代において、中途半端であることって大事だよねと、中途半端な人生を送って中途半端な研究者になったぼくは思います。研究者っぽい言葉遣いというのは苦手ですが、だからこそ語れるものがあるし、伝えられる先がある。それは確信しています。

これはもう何年も前に出した研究会誌の表紙をデザインしたときの元データになった〝Digital Embryo〟という作品です。最近泣く泣くスマートフォンに切り替え、ホームの背景画像を何にしようかと悩んでいたときにふと思い出して引っ張り出してきました。Processingという言語で作ったのですが、この言語とても可愛いのでお勧めです。それはともかく、これを銅版画でリメイクしようと思っていて、ただ銅版画に転写するだけというのもつまらないので、kickstarterで入手したXPlotterで原版を作ってみようかなとか、どのみちすべてにおいて中途半端な技術しかないのですから、その組み合わせから何を生み出せるのか、いろいろ楽しく考え中です。いやちゃんと研究もしていますが、自分の手とデジタルを重ね合わせて固有のメディア空間を作り出してそこに何かを存在させる行為だって、ぼくにとっては研究のひとつの在り方なのです。

メディアって要するに中途半端なところに在るものですし、メディアに満たされたこの世界も、だから、中途半端なものなのではないでしょうか。ぼくらは誰も神のように苛烈にはなれないし、線を引くことさえできないし、引いたら必ずミスるけれど、だからこそ、中途半端であっても、見よ、それは中途半端に良かった! そして、それで良いんだと思います。