貫通

ふたたびひさびさのブログ更新です。とはいえ何か特別なできごとがあったわけでもなく、ひたすらひたすら、平凡な日常が続いています。最近は出社することも増えてきて、電車の行き帰りでだいぶ本や論文を読んでいます。何しろ通勤時間が長いので、読む時間はたっぷりあります。往復で5時間半を超えるくらいの通勤時間の内、4時間半以上は電車のなかですので、それを利用しない手はありません。ところがしばしば頭痛を発症してしまい、文字が読めなくなってしまいます。正直これはダブルミーニングで痛い。

頭痛は何をきっかけに始まるのか良く分かりません。もちろん、ストレスや寝不足、疲労などから起きることはありますが、それだけではない。最近気づいたのですが、どうやら情報量が多いものを目にすることもきっかけのひとつらしいのです。だから本もそうなのですが、確実にやばいのは人の眼です。他人の眼を見てしまうと、よほど調子のよいときでない限りまず確実に頭痛が始まります。ぼくが対人恐怖症の気があるからかもしれませんが、人間の眼って、物凄い情報量を持っていますよね。それを見てしまったぼくの目から送られてくる情報に対して脳が過負荷となり、頭痛が起きる。ライアル・ワトソンのイカのように、ぼくの目もまた、ぼくの脳と精神には不釣り合いに高機能すぎるのかもしれません。無論、ぼくもわざわざ他人と目を合わせようなどとはしませんが、しばしばこちらの方をじっと見てくるひとっているじゃないですか(この発言の時点でちょっとアレですが)。視線というのは視野周辺にあっても強力なので、もう疲れてしまうし脳は発熱するし、困ります。

先週から後期の講義が始まりましたが、オンライン講義というのは、いまひとつ気分が盛り上がりません。無論、自分の感情など問題ではなく、与えられた条件で良い講義をするのは当然です。けれども、やはりオンラインというのはどうも苦手です。講義の良さとは何によって測れるのか、いろいろな考え方があるでしょう。ぼくの場合はライブ感がけっこう命で、だからやっぱりリアルな場で語るのが好きだし、そこから見えてくるものが大事だよねと思っています。もしかすると、とある学生が突然ぼくを刺しに走り寄ってくるかもしれない。その緊張感がライブであることを、そしてライフを実感させるし、まあそんな話、どうでも良いですね。とにかく、人の眼を怖がる対人恐怖症のぼくが言うのも何ですが、講義は、ぼくは、対面でなければなあと思うのです。

友人の彫刻家に、オンライン講義だといまひとつ乗れないんですよねと話をしていたとき、彼が、オンラインによって表現が根本的に変化するということに対して――善悪の問題ではなく――あまりに無頓着なアーティストが多すぎるよね、と言っていました。それはとても良く分かるのです。オンラインはオンラインのメリットデメリットがあるとか、その利点を生かしてどうこうとか、時代の変化が云々とか、そういうこととはまた別に、それはそもそも完全に別の何かであるということ。その何かが何なのかについて、ぼくらはまだほとんどまともに議論をしていないし、議論をする土台さえ持っていないと、ぼくは感じています。

彼女とふたりで、ひさしぶりに美術館に行ってきました。東京都写真美術館で開催中の「エキソニモ UN-DEAD-LINK」。エキソニモは世界的に見ても注目すべき最先端、最深部に位置するアーティストだとぼくは思っていて、この展覧会も観る価値は絶対あるので、興味のある方にはお勧めです。ぼくらはちょっと用事があってすぐ近くのホテルに泊まっていたため、朝、開場と同時に行き、比較的のんびりと観てまわりました。観客もほとんど居ないなか、珍しく恐怖も怒りもなく、人間の生や技術、そして美について、ぼんやり考えながらうろうろしていました。UN-DEAD-LINK、タイトルが素晴らしいですね。デッドリンクのさらに向こうにあるもの。直観が、言葉にできないリアルの総体を感じ取ります。でも展覧会のサブタイトル「インターネットアートへの再接続」、これはあまり良くない。勝手な想像ですが、これはエキソニモが考えたサブタイトルではないような気がします。良くないというか、単純に理に落ちている……。理に落ちるところに美はありません。

最近CDコンポを買いました。どうってことのない話なのですが。それで引越し時に片づけてしまっていたCDを改めて引張りだしてきて、ひさびさに音楽を聴いています。1980年代から90年代のアルバムを聴いていると、その音色だけで、ああそうだったよねと、形にならない記憶を思い出します。恐怖と切望。既に当時そうであったもの、いまとなってはそうなったもの。大学の部室で講義にも出ずに音楽を聴き、夕方彼女が部室に来て、うだうだとした時間を過ごして。当時から対人恐怖症だったぼくですが、けれども、そのときのその場のすべてを覚えているし、そのときそこに居たすべての人の表情と息遣いを覚えているし、そしてそれは、いつまでもそこに在ります。

インターネットになんて何にもないよね、と、技術者でありメディア論研究者であるはずのぼくは彼女に言います。そこには道に落ちているひとつの小石に刻まれた情報の百万分の一もありませんし、インターネットなんて、ほんとうは無くたって困らない程度のものでしかありません。だけれどもそれを言うのなら、ぼくらが発するすべての言葉だって、すべての本だって、すべての記憶だってすべての××だって、たいした情報量があるわけではありません。問題はそれが世界を内包しているかどうかであって、その背後、あるいはその裂け目の向こうがどこへつながっているのかなのだとぼくは思います。

何だか最近このブログ暗いですね。次は明るい話を書きましょう。頭痛で穴だらけの脳みそには陽ざしが燦々と降り注ぎ、何てったってそこは常に能天気。