夏の日々

先日、集中講義のTAをしてきました。授業のお手伝いです。いろいろな雑用をします。ぼくは会社員をしながら大学へ来ているということもあり、研究以外のことにはあまり関わることがありません。ですから、こういったお仕事もやってみるとなかなかに新鮮です。

けれども最近は仕事も忙しく、かつ博論執筆に向けていろいろ読まなければならないものも山積みになっていて、そうとうに眠いのです。ホワイトボード用のマーカーのインクが切れたとか、座席が足りなくなったとか、そういった問題が発生したときには教室から飛び出して走り回って解決するのですが、そうでないときは基本的に隅っこ(とはいえ教室前方の隅なので、生徒からは丸見えですが)に座り、ぼんやりしていることが大半です。

などと言えば聞こえが良いのですが、しかしこれ、ただぼんやりしているだけではない。クラウドリーフさんを甘く見てはいけません。何しろ不慣れなので、準備は念入りにと思っていても、変なところで抜けがあります。そうするとどたばた走り回ることになる。何しろ暑いさなかですから、問題を解決して教室に戻るころには汗だくです。先生が講義している脇で、「はあっ、はあっ」などと荒く息を吐きながら汗を拭います。

しかも初日は頭痛を併発してしまいました。通常は何とかコントロールできる範囲に抑えられるのですが、時折、ちょっと気を失いそうになるほど酷くなることがあるのです。今回は運悪くそれが講義中に始まってしまいました。しかし精神力です。じっと我慢の子です。クラウドリーフさんは、良いことなど何もない人生を三十云年に渡って耐えてきたのです。いまさら耐えられない何事があるというのでしょう。

「はあっ、はあっ、うっ!」白目を剥いて、頭を壁に打ちつけます。大丈夫。みんなが気づいていても、ぼくは気づいていない。世界は主観でできているというのが彼のモットーです。自分さえ気づいていないのであれば、それは存在しないのも同じなのです。

けれどあまりに痛みが酷くなると、こっそり教室を抜け出し(と言いつつ先生の脇を通り抜けざるを得ないのですが)、となりの院生部屋に行って頭から水を被ります。まるで江戸時代の拷問のようです。そして手ぬぐいで顔を適当に拭き、また講義に戻ります。濡れた髪の毛がマッドサイエンティストのように跳ねまくっていますが、彼はもはやすべてを諦めた男です。人の目を気にして、いつもええ恰好しいだった、自意識過剰な昔の彼はもういないのです。「死を恐れぬ武士に、もはや迷いはない」クラウドリーフさんはついに幻覚を見始めます。等身大の腐ったトマトと、あともうひとり、やはり腐った何かの野菜が、幻覚の中で彼に説教をしています。先生が講義をする傍らで、なぜ俺はこの腐ったトマトに説教されなければならないのか。クラウドリーフさんはぼんやりと困惑します。

けっきょく、講義のあと、院生部屋でしばらく気を失っていました。同期の子がやってきて、何やら冷蔵庫の中の腐ったジュースを元気が出るから「飲め、飲め」と勧めてきます。これも幻覚かと思っていましたが、後で聞いたところ、どうやら実際に腐ったジュースを勧められたようです。ぼく嫌われているんでしょうかね。しばらくして少し歩けるようになったので、相棒に駅まで送ってもらい、どうにか帰宅しました。

翌日は講義はお休みで、お仕事。その翌日が、また集中講義です。講義開始は十時なのですが、何ごとも完全主義なクラウドリーフさんは七時半には大学へ着いてしまいました。二日目ともなると特に準備はないのですが、しかし着いてしまったものは仕方ありません。彼は箒とちりとりを持ち出し、教室の掃除をすることにしました。この大学、何しろ汚いのです。修士のときの大学は、とにかく綺麗でした。さすが学費が二倍以上違うだけはあります。とにかくトイレが綺麗でした。ちなみに、その大学の近くへはいまでもしばしば行くのですが、クラウドリーフさん、トイレだけを借りにこっそり侵入していることがあるという噂があります。あくまでも噂です。彼は、「いや、恩師に挨拶に行くついでにさ」などと言葉を濁していますが、ぼくは知っています。彼は修士論文の口頭試問が終了して以来、その教授と一度も会っていないし、メールのやりとりさえしていないのです。絶縁。

それはともかく、二日目の朝です。掃除です。クラウドリーフさんは人格的に多くの問題を抱えているひとですが、綺麗好きなのと骨年齢の若さと体脂肪率の低さと頚動脈の美しさだけは保証つきです。人間ドックの結果を相棒と比べながら見ていたのですが、頚動脈の美しさときたらまるで芸術でした。ぼくは今後、それだけを支えに生きていこうと思っているのです。

などと呟きながら掃除をしていると、黒板の下にたまったチョークの粉に気づきました。やれやれ、誰も掃除していないからこんなになるんだ。彼は箒をずずいと伸ばしました。するとチョークの山が、ふいに猛スピードで動き始めました。そう、ぶりごきがいたのです。ストレートに言うと顰蹙を買いそうなのであえてひっくり返してみたのですが、かえって逆効果だという気がひしひしとしています。

しかしみなさん、カラフルなチョークの粉に塗れたあいつをご覧になったことがありますか? ぼくは初めて見たのですが、なかなかにパステルカラーがファンタスティックでエレクトリカルパレードでした。

そんなこんなで、TA、案外つらかったです。その翌日から普通に仕事に戻り、お盆に入ってからは基本的にずっと論文を書いています。合宿までにできれば第四部の草稿は書き上げたいと思っていますので、まだしばらくは休みなしで走り続ける日が続きます。この一月で参考文献を十五冊読み、資料を九万文字打ち込みました。が、まだまだ、勝負はこれからです。休みが明けたらまた仕事も増えてくるでしょう。

けれども、余裕です。クラウドリーフさんは、いつでも余裕です。ぼくは彼のそんな能天気さが、案外気に入っています。

きょうは大学へ行き、少しだけカメラを持ってうろうろしてきました。お盆休み、けっきょく一日もオフの日はありませんでしたが、それでも、地面に転がっているもの、這っている虫、ぶんぶん唸る蜂などを眺めていると、それで十分、ぼくにとっては旅行になるのです。

小説も読んでいませんし、みなさんのブログにもなかなか行く時間が持てませんが、もうしばらく、こんな感じで集中していくつもりです。みなさまにおかれましては、どうぞ良い夏休みを!

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